嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第十七章 ジャワ人と修行
[138]  ジャワ人は修行、つまり何か目標を達成するために身体的な制限を加えるのを好むことで知られている。それには『スラット・ウラン・レー』や『スラット。ウェドトモ』で勧められているような寝食を削るという方法もあるし、ンラコニという(中略)月曜日と木曜日に断食をするという食の制限である。(中略)ンガロンという(中略)果物だけを食べる断食もある。ムティーはご飯だけを食べる断食である。

 仕事に限っていえば、この努力を仕事に必要な知識を勉強に向ければもっとはかどるものを、こうやってむざむざと努力を他の方向に向けてしまうのである。
インドネシア人に忍耐力がないのは、一年分の忍耐力を一ヶ月の断食月間で使い果たしてしまうからなのである。
 ジャワ人たちは問題と全面的に格闘せず抜け道を探そうと色々と努力するが、困難は多くとも王道を進むことがもっとも早く目的地に到達できるとは思わない。だからジャワ人たちは仕事を何べんもやり直しせざるを得ないのである。これは、
牛や山羊が反芻する性質がその肉を食べているジャワ人たちに移ってしまったからだと考えられる。
 のである。
[139]  寝ることを減らす努力ということでは、一晩徹夜する者も少なくなかった。このように訓練を重ねると、ついにはもはや睡眠を必要としない段階にまで達することができる。食事と睡眠を減らす(中略)この二つの自制によって内面的な感受性を高めることができるからである。

 だから、彼らは昼間、会社でボーっとしているのだろう。感受性が高まっても仕事の能力が高まるという保証はない。
 日本でも古来、仏教の訓練の中に求聞持聡明法というのがあった。阿含宗の開祖である桐山靖雄氏著の「密教入門・求聞持(ぐもんじ)聡明法の秘密」では、脳細胞がその能力の数パーセントしか動かすことができないのは「こころ」の処理能力がそれしかないからであると言っている。「求聞持聡明法」とは仏教の修行の一つで、大日如来の持つ知恵「一切智」を教えている各種の仏典の中で密教の代表経典である『大日経』と『金剛頂経』に示されている一切智を体得する方法論である。仏の悟りは余りにも深く難解なために修行者は能力を桁違いにグレ−ドアップしないと、これを悟ることができない。従って一般の能力を持った修行者は自己の能力アップのためにまずこの「求聞持聡明法」から始めるべきであると説いている。しかし、無理にこれをやると気が違ってしまうことがあるから、注意しなくてはならないと日本人の友人たちは忠告してくれた。インドネシアでも自分の能力をはるかに超える知識を得ようとした人の気が触れてしまうことが多々あると聞いた。身の程を知れ、ということである。
[139]  内面的な感受性というのは、将来の出来事を事前に予知する能力を高めるものであるから誰しもそれを得ようとするのである。

 そう、ここでついに著者の意図がばれてしまった。ジャワ人たちが修行する最終目的は「超能力の獲得」なのである。超能力があれば何でもできると思い込んでいるところが単細胞なのである。中部ジャワのチャンディ(遺跡になっている寺院)にいってごらんなさい。満月の日などの特別な日には徹夜、あるいは数日ぶっとうしで遺跡の祠堂に篭っている人たちを見ることができる。全員が神様を信じているのだから、神様の立場に立って考えてみたら「神様は、神様が必要とするときに使うことができる者にしかその能力を与えない」とすぐに分かりそうなものなのだが、コチコチ頭にはそれが理解できないのである。特にジャワ人が恐れているニャイ・ロロ・キドゥルなどの祠の前には服装からムスリムと分かる人たちが集まっているのをしばしば見かけるのは、どういうわけだろうか。
 祠堂に長時間篭って誰が喜ぶかといえば、それは修行者の血を吸う「蚊」だけである。超能力を求める前に、理性で能力を高めなさい、と言いたい。でもこういう所に行ってみるのはちょっと気持ち悪いが、なかなか興味深いことであることはいうまでもない。
[139]  ジャワ人にとって「知らされる前に悟る」ことはぜひとも到達したい最高の理想の境地である。たとえば呪術の関連で言えば、このことは最も重要な前提となる。というのは、幸福な人生を送るためとか、あるいはより重要なことでは、種々の病気を癒すために、さまざまな予言をするうえで出発点となるからである。ドゥクン(呪術師)としての名声は、病気の治療が成功するかどうかにかかっているのである。予知能力は呪術師としての名声を高めるばかりでなく、たとえ彼自身が望まないにせよ、経済的な成功ももたらし、少なくともその周囲の者はそれを享受できる。ドゥクンが存在し、成功することによって得る利益は、実際にはチャントリックと呼ばれる取り巻き連中が吸い上げているのである。

 金持ちになり名声を得たいがために超能力を授かりたいと修行する。自分が望む故に神様がその能力を授けたと思いがちだが、実際には上に書いたように「神様の都合」で能力をその人に授けたのである。さらには、その能力を授かったからには、自分の身を粉にしてもその作業を行わなくてはならないという「義務」が生じることを忘れている。そんなに苦労して修行しなくても、適度にまじめに普通に生きていた方が波乱がなくて幸せだと思うのは筆者だけであろうか。ジャワ人のナシブ(運命)なのかもしれない。
[140]  さらに触れなくてはならないのは、ジャワ社会においてトポ・クンクムと呼ばれる水中に身体を浸して瞑想に耽る行為である。

 十数分のことであったが、中年女性が腰巻一枚で川に入って頭まで水にもぐり瞑想をしているのを筆者は東ジャワのアラス・クトンゴという聖地で見たことがある。気持ちよさそうなので筆者もスッポンポンになってやってみようかと思ったが、川の水にばい菌や寄生虫が多そうなので止めておいた。
 水に入って修業するから川だけではなく海でもやるのだろうと読者は思うかもしれない。しかしそれは皆無である。なぜなら、ジャワ人は海を異常に恐れるからなのである。詳しくはこちら
[142]  修行に効用があるとすれば、それはおそらく、喜びであれ悲しみであれ、いつわが身に降りかかってくるかもしれない事態に対処する、一種の内的・外的訓練となる、ということだろう。現在われわれの伝統的な生活が近代的な生活へと置き換えられていく中で、瞑想や禁欲はしばしば非難されるが、それらは全く役に立たないものではない。我々の伝統的な社会が近代化していく中で、瞑想も禁欲もすでに奇妙なもの、今の時代に合わないものとして感じられ始めてはいるが、今なおこれらを実践する人は多い。それどころか、論理的に思考すべく教育され、本来なら理性的なことがらに携わり、迷信めいたことに首を突っ込むべきではない大学卒の高学歴者層にも、こうしたことが見られるのである。

 修行の効用としては著者の言うとおりだ。しかし、著者は感性が鋭くない。というのは、理性では理解できないことがらが自然界には多すぎるからである。一神教では、上述のような超能力者を排除しているから、一神教の教義に浸ってきた著者には迷信に思えるのだろう。しかし、著者がいう「理性的なことがら」とは学校で教えることができることだけだ。筆者のように世界のあちこちの山中に仕事で長期間滞在していると、科学的知識だけでは理解しきれないことを多く体験するので、理性だけに頼っていてはいけないと考えてしまうのである。また、著者の知識の基礎となっている古典物理学をベースとした科学はすでに「限られた範囲」でしか通用しなくなっていることは、先端科学をちょっと勉強すれば分かることである。しかし、この本が書かれた当時には、まだストックホルム議定書や複雑系の思想は世界に発表されていなかったからそれも無理はない、とはいえるだろう。しかしながら、このような先端情報がインドネシアにはなかなか伝わらないから、たとえこれらの発表後でも著者は同じようなことを書いたと推察される。

 いままでけちょんけちょんにけなしてきたジャワ人の名誉回復のために言っておこう。
 これからの時代は著者が迷信と指摘したクジャウエン(kejawen)が復活するだろう。すでに限界まで来た地球環境を救うには、このクジャウエンの思想が最適だと思うからである。著者が指摘している西洋的な理性とはこの目的からみるとkejauhanなのである。
[142]  人は自らの努力が報いられるかどうか確信をもてないようなとき、ひょっとしたら願望がかなうかもしれないと思い、迷信にすがる傾向があるといえるだろう。

 著者は「人は理性的でなくてはならない」と思っているのだろうが、理性に頼るということは自分の脳に頼るということだから「すがらない」ことと一緒なのである。だから、迷信でもすがれるものがあれば幸いなのである。
 脳に知識をやたらたくさん詰め込むよりも、考えるスペースを残しておいた方が効率的に考えられると筆者は常に主張している。これは、パソコンをお使いの方ならよく理解できる比喩である。ただし、最低知識としてはパソコンソフト程度のものは脳にインストールしておかねばならないことはいうまでもないことをジャワ人たちはしばしば忘れているのである。
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2008-07-22 作成
2015-03-16 修正
2016/09/10 修正
 

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