嗚呼、インドネシア
37話 ニャイ・ロロ・キドゥル (Nyai Roro Kidul)
 話は1996年のことになる。
 「百福市場」(旧パサールトッケ)というジャワとバリに関する話題を主に掲載している百瀬さんが東京から筆者が当時住んでいたジャカルタにやって来た。彼はニャイロロキドゥルの墓に参詣するために西ジャワ州の南海岸にあるプラブハン・ラトゥー(Pelabuhan Ratu=女王の港の意味)に行くのだという。当時の宿舎に一泊後、興味を抱いた筆者も他の日本人の友人とともに出かけたのであった。

 ニャイロロキドゥルは魔術を使ってジャワの島民たちを病気から救ったりした貴族の一員であるが、海に投げ込まれてそのその一生を終えたため、その恨みからニャイロロキドゥルを粗末にするとひどい祟りがあると島民たちは信じている。また、ジャワ島の南海岸には緑色の服を着てゆくとニャイロロキドゥルの嫉妬にかられて海に引きずりこまれてしまうといわれている。 ニャイロロキドゥルはジャワ島とバリ島の南海岸を支配している美しくもあるが怖い存在である女王だと信じられている。それゆえ筆者はこの女王を「南海冥府の女王」と呼んでいるのである。

 ニャイロロキドゥルの絵は数点現存していてあちこちのサイトに掲載されているから、「ニャイロロキドゥル」かあるいは「Nyai Roro Kidul」でウエブ検索してみるとアーカイブが見られるからやってみてください。まずはこの絵を参照されてから次に進んでください。

 ニャイロロキドゥルの墓所はプラブハンラトゥーの市街から数キロ西に進んだ海岸に面した高い岩山の上にあった。溺死したニャイロロキドゥルの遺体はあがらなかったので、「墓地」という概念とは矛盾するが、一応「墓」なのである。

 百瀬さんが彼のウエブサイトに書いているように、お墓の前で祈っているときにニャイロロキドゥルの末期の状態に関するメッセージが筆者に届いた。
 それにはこうあった。
 ニャイロロキドゥルは女性器がひどく損傷されていて激しい出血があり大量失血の状態であった。しかし、まだ息のあるうちに誰かに海に投げ込まれたため、直接の死因は溺死であったのだ、と。
 と、ここまでは百瀬さんのウエブサイトに書かれていることである。

 さて、それから約十年間、時折ニャイロロキドゥルのことを思い出していたが、最近になってどういうわけかニャイロロキドゥルとの係わり合いが深くなってきている。

 2006年には東ジャワ州トゥルンアグン(Tulungagung)地域のダム設備のインフラ調査業務があり、そのついでに近くの観光地であるポポー(Popoh)海岸に導かれるように足を伸ばした。10月06日のことであった。

 ポポー海岸の東に隣接する海岸に不思議な墓地があるというので行ってみると、一代で財を成したトゥルンアグン町の有力者の巨大な墓所であった。ブリタール(Bliatr)にあるスカルノ元大統領の墓所にも匹敵する巨大なものである。
 この有力者は、商売繁盛のためにこの海岸で何度も祈ったところビジネスがうまく行くようになり、富豪になったとのことであった。

墓所の入り口にある像
 その墓所の西側にきれいだが小柄な祠がひっそりと建っていた。立ち寄ってみるとそこはニャイロロキドゥルを祭った祠であった。緯度と経度はS8 15.753 E111 48.437である。
 そのとき数人の参詣者が祠の前で管理人が戻ってくるのを待っていた。そのうちの女性がジルバブをつけていたので一見してムスリムであるのがわかった。本来ならムスリムはこのような参詣をしてはならないのだが、ジャワの風習を断ち切れないらしい。ここの祠でニャイロロキドゥルに願うと願い事が成就するからだということであるので、日曜日や休みの日には参詣人が絶えない。他人の不幸を利用して金儲けしているのは詐欺のようなものだ。
 祠の前で、ニャイロロキドゥルに挨拶し、十年前から続く疑問に関して何らかの回答を得ることができるように祈ったところ、ニャイロロキドゥルが重い口を開いてこんなことを伝えてくれた。
 ニャイロロキドゥルの末期の姿は十年前に語ったとおりである。ニャイロロキドゥルは現世では6世紀に実在し王位継承権のある男子を出産したことで、王家の継承争いに巻き込まれた。
 生前から持ち前の超能力を利用して医療に携わっていたことを逆手に取られて「人心を欺く魔女」ということで、女性器をめちゃくちゃに損傷された上、殺された、とのことであった。

 その後、2007年2月4日にジョグジャカルタの南東にあるパラントゥリティス(Parang Tritis)とパランクスモ(Parang Kusumo)遊びに行く機会があった。この土地は、ジョグジャカルタの王宮の人たちが毎年決まった日に祈りをささげに来るという、ミステリーポイントでもある。一般の人たちも徹夜で祈りをささげたりする名所になっている。もちろん観光地になっていて食堂も宿舎もたくさんあるが外国人向きのものはない。緯度と経度はS8 01.382 E110 19.897である。

パランクスモ全景(西側から)

海岸の平地に岩の路頭がある。あたかも箱庭のようであるが、ヤギにはその美しさはわからないようだ。

上の写真の場所の南側にある瞑想ポイント

左の瞑想ポイントの入り口
 写真にはないが、他にも祈祷所・瞑想ポイントが数箇所あった。箱庭のようだと呼んだ土地から真南の方向にある海岸に向かってまっすぐな道がある。もちろん固い砂地である。同行した友人のサルワント氏が、「ニャイロロキドゥルが上陸する道なのだ」と説明してくれたので、南に向いてニャイロロキドゥルに心の中で挨拶すると、約30メートル前を緑色の薄絹の女性がさっと通り過ぎたのが見えた。その緑色はプラブハンラトゥでみた絵の中でニャイロロキドゥルの着ていた服の色とまったく同じであった。この話をすると、「ニャイロロキドゥルが挨拶に訪れた」とその友人は驚いていた。他の人にはめったに姿を見せないのだそうである。

 その後、期待もしないのに、この近くに仕事で行くことになった。2007年5月25日に東ジャワ州西南部にあるポノロゴ(Ponorogo)から海岸に面したパチタン(Pacitan)経由でスラカルタ(Surakarta)、ソロまで戻った。途中にいくつかの鍾乳洞があるので2005年に一度行ったことがあり、その時は扉が閉まっていたためはいれなかったゴア・プトリ(Gua Putri)と呼ばれる水平な鍾乳洞が今回の目的であった。この鍾乳洞の入り口付近は強い霊が支配していて、近づくにつれ寒気がして鳥肌立つようなパワーポイントである。鍾乳洞の入り口の緯度と経度はS8 08.843, E111 00.381である。
 近くには石英の鉱山があり、入り口までの間にその鉱石がたくさんばら撒かれていたのが不思議であった。 

Gua Putriにむかう道路

Gua Putri入り口
 今回は不思議にもこの鍾乳洞のオーナーが出迎えてくれて、鍵を開けてくれたので中に入ることができた。
 この鍾乳洞は最近になって起きた山崩れのため山腹に穴が開いて初めて村人がその存在に気づいたとのことである。また、政府の調査団が中に入って調査したところ、古い金属の破片などが見つかったとのことであった。
 この鍾乳洞は観光資源として使われているのみならず、ジャワ人たちの瞑想の場所としても利用されているとのことであった。
 夕刻も近づいてきて、その場を離れるときにこの鍾乳洞を守っている霊たちにお礼を述べたところ、まぶたの裏に薄青緑色の竜が現れて優しい眼で我々を見送っていたのが印象的であった。友人にこの話をすると「緑色の竜はニャイロロキドゥルの部下だ」とのことで、再度驚いたのであった。

さらに時間は下って、半年後の2007年10月31日にもまたトゥルンアグン(Tulungagung)を会議のために訪れる機会があり、再度ポポーにあるニャイロロキドゥルの祠を訪ねることができた。ここでまたニャイロロキドゥルにインタビューすることができたのであった。

祠の看板

祠の全景

祠の入り口。鍵が閉まっていて中には入れなかったのである。
 いままで、ニャイロロキドゥルとの対話があり、生前の話を聞くことができたがウエブサイトにアップすることをなぜかしなかったのである。友人によると、個人情報にかかわる報告書を公開するにはその個人の承諾が必要であるから、とのことであった。確かに! 今回、祠の前で祈ったときに公開する許可を得たのでここで初めて紹介することになった。
 ニャイロロキドゥルは生前超能力で病気の治療を行っていた。また右足の膝から下に病気があるように見えたので尋ねると、足が腐っていっているとのことであったので、ハンセン氏病ではなかったのだろうか。

 ついでにニャイロロキドゥルの居所を尋ねてみたが、女王はニヤニヤしただけで教えてくれなかった。
 霊は物体ではないから物質に縛り付けられない、すなわち、遍在しかつ偏在するのである。古典物理学の範疇には入らないのである。

 この祠の近くに、ジャワ人たちが千年以上も使い続けてきた散骨場がある。とても珍しいものであるし付近の景色が美しいので紹介する。

ニャイロロキドゥルの祠の東側約60mの地点にある売店の手前を右に下る

売店から約300m坂道を下るとこの散骨場に至る。標高差は約30m

散骨場から西側を見る
この散骨場はニャイロロキドゥルの祠のほぼ真南に位置している。
上の写真で左に見えるパイプの中に遺灰を流し込むとそのまま海に落ちていくようになっている。
中央部は白タイルが敷き詰められていて海に面した台にはお線香立てがあった。
この散骨場は今でも華人やジャワ人、バリ人などが散骨のために使っている。
一応コンクリートで舗装してあるが崩壊が進んでいるので、ハイヒールでの訪問は避けたほうが良い。

散骨場から東側を見る。松島のようにきれいである。


ジャワイスラムの視点からのKANJENG RATU KIDUL
MUHAMMAD SHOLIKHIN著

こちらからお入りください (初版で写真が少ない)
 2016年から2020年まで四年間かかってこの本の和訳を作りました。

2020/7/30
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2007-11-04 作成
2015-03-10 修正

2017-08-02 追加
2020-07-31 追加
2010/08/08 追加修正

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