嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第三章 ジャワ人の宗教的態度
 この章には沢山のコメントがあるので読者諸兄諸姉は飽きてしまうかもしれないが、それを我慢して読んでみて下さい。読む方はまだしも、書くほうの労力のことに思いを馳せ、同情していただければこれに増した喜びはありません。
 タイトルは「ジャワ人の宗教心」とつけたほうが適切であったかもしれない。
[24]  ジャワ人の宗教に対する態度は、大体において、信じる宗教がイスラムであれ、カトリックであれ、あるいはプロテスタントであれ、名ばかりのものと言ってよいだろう。

 確かに、著者の指摘の通り大多数のジャワ人はこうである。これが良いか悪いは個人の主観によるものであるから、ここでは筆者はその態度を批判しない。
[24]  一般にジャワ人のイスラム教徒にとって、自分自身がイスラム教徒であることを示す証拠と言えるのは、信仰告白をよどみなく唱えられることぐらいでしかない。それ以外には、一日に五回礼拝をするわけでもなく、断食するわけでも、イスラム教徒の五戒を守るわけでもない。(中略)このことから、中部ジャワ、東部ジャワでは、彼らは普通イスラム・アバンガン(Islam abangan)と呼ばれる。本当の意味での信仰をもたず、その宗教はごく表面的なものに過ぎない、という意味である。

 この本が書かれた1983年当時とこの文章を書いている2008年現在とは時間的に大きな隔たりがあるのみならず、ジャワ人の信仰に関する考え方も大きな変化があったので、この本をそのまま信じると大きな誤解を招くのである。
 独立から1965年までは宗教という個人的なものを抑制してインドネシア国家の建設に人々は心を砕いてきた。もちろん、相互監視によって反共スパイを見つけたり、宗教を否定する恐ろしい共産主義者の影響も大きかった。共産党を排除したスハルト政権になってから、顕著な経済発展が進み人々が自分の信仰に戻ることができるようになったと聞いている。ちなみに筆者が最初にインドネシアのジャカルタに赴任した1976年当時にはアッサラームアライコムというイスラム風な挨拶や、bapak2 ibu2などという現在どこでも聞かれる挨拶は聞いたことがなく、Selamat siangやsaudara-saudariなどの無階級の言葉が多用されていたと記憶する。1980年代初頭にインドネシアは経済的に大発展して現在のような言葉の上では古い社会に戻ったようである。
 さらに、ここ十年間の観察では、筆者のまわりの大多数のムスリムたちは一日五回の礼拝と断食を行っているようである。宗教に回帰したとでもいえるようだ。
 ちなみにabanganというのはabang=赤からの派生語であり、著者が指摘したように表面だけのものである。今ではイスラムKTPと呼ばれている。これはKTP(身分証明書)の宗教欄に「イスラム」と書かれているだけで、ムスリムらしいことは一切やらない人たちのことである。
[25]  今日、本当の信仰を持つことは世界中どこでも実現困難なようだ。それは、科学技術の成果が日増しに人間の思考を支配するようになった結果である。科学技術が目に見える形で示す成果は、見ることも触れることもできない抽象的な価値にかかわる宗教に対する信仰を揺さぶっている。

 たしかに、この本の書かれた時代には「科学への信仰」が極めて強く、科学技術の発展によって将来はばら色の世界が待っている、と思われていた。が、1990年代に入って地球環境の悪化が顕著になり、環境悪化を作り上げたうえにそれを解決できない科学への信仰が揺らぎ始めた。科学への信仰が薄らいだ時に、ニューサイエンスと呼ばれるオカルト的な思想が流行ったり、西洋科学文明の基本となってきた線形思考に疑いを持つ学者が出てきて1986年には線形思考を超える思考方法である複雑系の考え方が米国で発表されたのである。複雑系でわかりにくければ、ファジーやフラクタルなどを含めた新しい思考方法であると理解していただければよい。
 2000年代に入って、画一的な思考方法はブレークスルーを生み出さず問題を帰って複雑化させるだけであることがようやく理解されてきたが、米国政府はいまだに「アメリカ・ナンバーワン」という原理主義的な考え方を改めようとはしていない。だから、イスラム原理主義者とはまったくそりが合わないのである。
[25]  ジャワ社会の中で昔からずっと教えられ話し合われてきた内面的な価値への信仰が、危機を迎えていると言えよう。

 筆者が2007年に東部ジャワにあるマディウン市に滞在していたときに、友人に連れられて同市の近隣にある聖地のいくつかを訪問した。
 著者の危ぶんでいる「危機」はすでに通り過ぎたのではないか、と思われるほどたくさんの人たちが参詣していたのは事実である。
[26]  おそらくジャワ人ほどカウタマニン・ウリップ(人生の徳)についての教えを飽きるほど聞かされてきた人々はいないだろう。まだ子供が小さいうちから、母親はパク・ブヲノ四世の著した「スラット・ウラン・レー」やマンクヌゴロ四世の手になる「スラット・ウェドトモ」のような、有名なジャワ文学の中の本の一節をくちずさみ、子守唄代わりに聞かせた。

 これは初耳である。これが事実としたら、筆者が付き合ったジャワ人たちは中流以下の層の人たちばかりだったからこういう話が耳に入らなかったのか、あるいは友人たちがインドネシアの後進性を示すものとして恥ずかしがり、筆者には伝えなかったのであろうか。
[26]  徳のある人とはつまるところ、他人との付き合いが上手で、決して相手の感情を損ねたり、相手ら迷惑を掛けたりしないことのことである。(中略)外見で判断することなく、誰もが誰とで付き合うことができなければならないと言うことである。(中略)地位がどうであれ、誰に対しても歩調を合わせる。相手が嫌がって、近寄ったり話しかけるのをためらうようではいけない。コミュニケーションを妨げる壁を打ち砕くのが、この「くだけた」態度なのである。

 この点においては筆者は充分に「ジャワ人にとっての徳のある人」に相当すると豪語できる。多少は他人に迷惑を掛けては来たが、80%はこの定義に合致しているのである。だからジャワ人たちは筆者のことを好むのであろう。もちろん筆者はジャワ人を好きである。たぶんにbenci tapi rinduの気はあるが。
 ところでクバティナン(kebatinan)とは、神から超能力を授かるために精神を研ぎ澄ますことによってことである、といってよいだろう。そのためにジャワ人はあらゆることを行う。有名な聖地に行って川で沐浴をしたり、洞窟や寺院にある真っ暗な小部屋に何時間も篭って自分自身を鍛錬するのである。その割にはその努力があまり実っていないと見えるのは、筆者だけであろうか。
[28]  社会の一員としての良き行いについての親の教えは、『スラット・ウェドトモ』と『スラット・ウラン・レー』を基礎としているが、それ以外のもの殻知識を得ることも、ジャワ人にとっては珍しいことではない。つまりクバティナンの導師(グル)から知識を汲み取るのである。

 実際には本からの一般的知識より自分が困ったときにクバティナンの導師に頼ることが多い。一概にジャワ人は考えるというより悩みこんでしまうことが多い。疑いが疑いを呼び、その疑いを晴らそうとするよりも、悩んでしまうことが多いのである。自己沈潜型の性格である。
[28]  導師を訪ねるのにはさまざまな理由があるのだが、それはカウタマニン・ウリップつまり「人生の徳」についての教えを乞うというよりも、導師の持つ呪術師としての力に頼り、さまざまな病気に対する療法を求めてくることの方が多い。

 たしかに、精神的な教えというより、著者が指摘しているように病気治療などを受けに呪術師(インドネシア語ではdukun、マレー語ではbomo)を尋ねる患者が多いのは確かである。かくいう筆者も彼らには過労による機能障害などでお世話になった一人である。
 さらには病気治療だけではなく、亭主やカミさんの浮気相談、商売敵をやっつける、黒魔術を掛けたりお祓いしたり、相手に惚れさせる魔術など、数え上げればきりがないのである。このような呪術師のことを「能力者」(orang pintar)と呼んでいる。Pintarとは「賢い」という意味である。2002年頃にジャカルタのマンガドゥアに遊びに行ったところ、そのビルの中でorang pintarに部屋を貸している華人に会った。客がたまたまいなかったときなので呪術者たちはオーナーとおしゃべりしていた。そこに割り込んで、「この中で一番pintarなのは誰か?」と尋ねたところ全員が不思議そうな顔をする。そこで「それは部屋を貸している華人である。なぜならばorang pintarからお金を巻き上げることができるからである」といったところ、総すかんを食ってしまった。もちろん、さっさと逃げ出してしまった。
[29]  治療に対する謝礼は、呪術師の場合、ティンディと呼ばれているが、これは本来ならば患者の気持ち次第であるはずなのに、その謝礼にこだわり始めると、霊験が褪せてしまう。導師や呪術師が欲張りになると、その神通力も最後には全く効かなくなってしまうというのである。

 
同感である。
 ティンディはインドネシア語ではスンバガン(sumbangan)と呼ばれている「寄付」である。
 謝礼にこだわらなくても相談者の方で成功報酬などの約束を守らないと、相談者が重病を発病したり、事故にあったりして死んでしまうことが多いと聞く。さらには実際、大臣や将官クラスの人たちがお忍びでこれらの呪術師を訪ねることがしばしばあると呪術師本人たちから聞いている。
なぜ、このような呪術がジャワで有名なのかというと、歴史的に人口が多かった地域でありかつまた熱帯雨林地帯で巨木が多かったため、精霊なり悪霊の「人口?」密度が高いためであるといえよう。詳しくはこちらをごらんください。
 また、呪術師に関しては別に述べたい。
[31]  インド起源の宗教(ヒンドゥー教と仏教)は、ジャワ東部および中部に積み重なった宗教の層のもっとも下の、そしてもっとも古い層を成している。その上にイスラムやカトリック、プロテスタントという諸宗教が積み重なっている。

 この文から、著者が「いちおうは」一神教を信じていることがわかる。一神教徒としてのあまりの恥ずかしさからか、著者は重要な点を見落としている。というのは、歴史的に見ると、ヒンドゥー教の勢力が衰えると必ず盛り返してきたのは土着のアニミズムであったからだ。今でもアニミズムの神像があちこちのチャンディ(古いヒンドゥー寺院)に見られるし都市遺跡からも発掘されている。
 アニミズムは、人間の理性ではなく霊性に呼応した自然宗教であり、もっとも環境にやさしい宗教なのである。自然の呼びかけが聞こえなくなった退化した人間が今の一神教なるものを発明して、それを無理強いしたからこそ地球環境の悪化が進んだといっても言いだろう。筆者はアニミズムを支持する。
 さらに、ジャワではヒンドゥー教と仏教が混交したカーラチャクラ派といまでは呼ばれているどちらかといえば仏教に分類される宗教がマジャパヒト時代以降は隆盛を極めたと考えている。カーラチャクラ派の特徴は神像に髑髏がちりばめられている。その当時に建立されたと思われるガネッシャ像がこれだ
 インドからなぜヒンドゥー教や仏教が伝わったかという点については、定年後の筆者の研究対象であるから秘密にしておき、ここではそのヒントは読者に教えないことにする。
[31]  たとえイスラムもしくはプロテスタント、カトリックに改宗したとはいっても、ジャワ人はその根本において仏教的ないしはヒンドゥー教的な考え方を持ち続けている。このことは、唯一神への信仰を持つようになったジャワ人でさえ今日なお執り行っているさまざまな儀式の中に見ることができる。

 ジャワの風習は日本の風習とよく似ていて、初七日、40日(四十九日)、正月命日、三回忌、七回忌などが行われる。これは本来イスラムなどにはない儀式であるが、ジャワではきちんと執り行っている。そうしないと後で祟りがあると信じられているからである。
[32]  九人の「ワリ・ソゴ」(9人の代理人)は、ジャワにイスラムをもたらした人物として、いまなおジャワ人に敬われている。それらは(1) マウラナ・マリク・イブラヒム、(2) スナン・アムペル、(3) スナン・ボナン、(4) スナン・ギリ、(5) スナン・ドラジャッド、(6) スナン・カリジョゴ、(7) スナン・クドゥス、(8) スナン・ムリア、(9) スナン・グヌン・ジャティである。

 著者は彼らについて色々と語ってはいるが、それは伝説に過ぎず、実際のところはよく分からないのである。というのは、彼ら九人の肖像画が町のあちこちで売られているし、あちこちの家庭に飾られているから、インドネシアに住んだことのある人なら多分見たことがあろう。この写真をテヘランに持っていって、現地の友人に見せたところ、三人はインド、イラン、アラブ風の顔つきをしているが、のこりの六人はアジア風である、ということであった。この六人の顔つきは華人のようである。それを指摘すると反華僑感情を持つジャワ人たちは嫌な顔をするのである。
 筆者がベトナムに関係するようになってその疑問が解けた。漢民族のみならずオーストロアジア(南アジア)語族の大部分が肌が白く華人のような顔つきをしていることであった。ということは、彼らはインドシナ半島出自のイスラム宣教師であったのだろうか。そのとおりである。8世紀頃には海のシルクロードが開発されていて、それを通って沢山の物資のみならず文化・宗教が広まったのである。4世紀頃に中部ベトナムにあったチャンパ(Champa = Campa)の人たちは海上交易に従事しており、彼らの持つヒンドゥーの寺院建築が13世紀にはジャワに伝わりモジョクルトのトロウラン(Trowulan)遺跡としていまでもベトナムのミーソン(Myson)遺跡とよく似たデザインと材料で作られた寺院がみられるのが証拠として挙げられよう。さらにはインドシナ諸国で使われている諸語はオーストロアジア族に含まれるが、どういうわけか、チャンパ語はインドネシア語と同じオーストロネシア語族に含まれるのである。似た言葉が南シナ海をはさんで使われていたということは、スンダランドにあった文化の存在を証明するものではないだろうか。
ますます話が脱線してしまいそうである。さて、ワリ・ソゴは上記のように出自は不明であるので、別稿でそれについて詳しくのべてみたい
 著者はなにも書いていないが、ワリ・ソゴがジャワでイスラムの拡大を図ったのは15世紀のことであり、最終的にイスラムがジャワのほとんどを制覇したのは19世紀はじめのことであるから、黒船来航以降の日本人の西洋文明を下敷きにした意識改革と歴史的には大差がないのである。日本は技術革新を伴った西洋文明、ジャワは旧式なイスラムの教えが意識革命の基礎であるから、その後の両地域の人たちの意識に差が出てきたのは当然のことである。どちらが良い悪いとは一概に言えないが、経済的には大きな較差が生じてしまったのは周知の事実である。
[34]  これら九人の聖人たちはジャワ社会で崇敬されており、現在でも聖者の墓所に巡礼する人が後を絶たない。

 巡礼と書いてあるが、実は日本語で最適な言葉は「参詣」である。聖者の墓地への参詣はイスラムでは厳禁されているのではあるが、そんなことはお構いなしにひっきりなしに参詣者が訪れ、縁日ともなると黒山の人だかりとなる。不信人者のスリや置き引きなども出てくるのである。
 筆者が数年間滞在していたジャワ島のバンテン州にあるバンテン・ラマ(Banten Lama =古バンテン)のマスジット・アグンは土日ともなると観光バスで参詣者が大挙してやって来る。我々が参詣しようとしても芋を洗うような状態でゆっくりできない。だが、我々にもチャンスはある。それは参詣者全員が正午の礼拝のために墓所に隣接したモスクに集まってしまう時間帯の約30分間なのである。墓所には警備員しかいないからムスリムの参詣客に邪魔されずに思う存分楽しめるのである。
 この墓所はかなりヤバイ雰囲気が漂っている。マウラナ・ユスフというバンテンの王の墓所である。この王は呪術を得意として、向かうところ敵なし、で短期間にこの土地にバンテン王国を作り上げた。もともとマウラナ・ユスフはウジュンパンダンにいるマカッサル人でおもにジャワと東インドネシアを結ぶ航路で海運やもちろん海賊をも行ってきた。彼らの有名な植民地はジャワ島では、ここバンテン、チレボン、ジェパラ、トゥバン、グレシックなどがある。ジェパラとグレシックはマジャパヒト王国時代から栄えた港町である。
現在でも使われている二枚帆をもつ木造船であるピニシ(pinisi)を彼らは利用していたのではないかと想像する。この船は外洋の大きな横波に弱い舵の軸がないのが特徴で、船の舵は長い櫓を両舷の船尾近くに置かれたピンで操作する。船底より低くなる舵を取り去ったことで、さんご礁が多い遠浅の海岸にでも波打ち際近くまで近接できる特徴がある。
名前からマカッサル人と考えられていたが、実際には雲南人の子孫であるSunan Gunung Jatiの息子である。
[34]  しかし、影響力という点から言うならば、イスラムの教義に反するような汎神論的な教えのゆえに危険視され、不信心者とみなされた宗教家の存在もまた大きい。そのような教えとは、カウロ(下僕)とグスティ(神)とが一体をなすことを信じるものである。

 とかく、人々は宗教の中身よりそれを教えてくれる人のほうを尊敬するものである。該当するケースは日本では弘法大師である。仏教を広めようと各地を回ったが、土木工事や病気治療に活躍したため、後世の人たちが「大師」の廟を作ってお祭りしている。そのひとつが川崎大師である。これは中国と同様であり、中国には孔子廟が随所にあり、インドネシアの華人たちもコンフーチューと呼ばれる孔子と仏教と道教がミックスした宗教を信じている人が多い。仏教のお寺はVihara(ヴぃハラ)と呼ばれ、その他はKlenteng(クレンテン)と呼んでいるようである。
 ジャワ人がこのような古くからの信仰を手放せないのは、その地域的特性にあるのではないかと別サイトで述べてある。
 さて、中東ではこのような人たちをスゥフィーと呼んでいて、彼らはイスラムの教えを広めようとしたのにもかかわらず、民衆の尊敬を一手に集めてしまったため、イスラム当局の取り締まりによって虐殺されてしまったのである。中東ではなんと残酷なことを、と思われるであろうが、中世欧州では「魔女狩り」がもっと盛んだったのである。
 近刊のグラハム・ハンコック、ロバート・ボウエル共著の「タリズマン」にはカトリックが欧州を支配するためにどういう残酷な手を使って上記の「そのような教え」を奉じる人たちを抑圧・殲滅したかが示されている。
[35]  このような教えによれば、神はどこにでも存在し、また個人の内部にも存在することになるので、明らかにイスラムには受け入れられない。

 一神教の教義から言えばこのとおりである。

 でも、待てよ。
 「神は遍在する」のだから、我々の中にも存在する。
 「神は宇宙の主」であるのだから、我々も神に含まれる。
 したがって、論理的に言うと、内在し、かつまた、含まれているのなら人は神の範囲に含まれることになる。
 この論理だけではユダヤ人は満足せずに、人を神の範疇からはずしてみようと試みた。神の外に出たら神の外郭がよく分かるだろうと思ったのだろう。数千年前に神の外に出てしまった彼らは、神の中に戻る手段を知らなかった。だから今でも「神と人」、カトリックではそれに精霊が加わっている。このことは「神とひとつになること」に詳しく書かれている。この本によると.rememberとは、再度(re)神のメンバー(member)になる意味であるとのことである。
[35]  神との合一によって完全な幸福を得ることができると教え、そしてそり合一に到達しうると約束することによって、クバティナンの運動は多くの人を惹きつけ、弟子や信者を獲得する。ここには中部ジャワで発展し「汎神論」と名づけられた、僕と神の合一という考え方の土台がある。

 筆者はクバティナンの教えのほうが一神教の教えよりも真実に近いと感ずる。一神教は、養老猛司氏が指摘するように人間の進化=都市化との関係が深いのだろう。しかし、それも筆者に言わせれば、まだその思想レベルは古典物理学の程度でしかないのである。ミクロやマクロの科学が進んでくるにつれ、人間たちの考え方も少しずつ変わってくるのであろう。
[35]  ジャワ人が好んで内省にふけるのは、自分がこの世にある被造物として不完全な存在だということに思いをめぐらすことに他ならない。

 そうかなあ。日本人の目には、ただ、ぼんやりしているようにしか見えないが。
[35]  このような思いは、数多くの問題に満ちた人生の現実を前にして、何一つ確実なことなどないと感じさせ、人を不安感に満ちた存在にしてしまう。ジャワ人は自分の運命が「神によってすでに決定されている」と考えるので、いつも自信がない。(中略) 何をするにも自分の力が限られていると感じるからである。自らの力には限界があるという意識は、このように深いところにに根ざしているので、状況を打ち破るような行動力を持つことが難しく、妥協的な態度に流れやすいといえよう。(このような)意識は、鋭い議論が戦わされることを妨げ、和解によって解決する方法を生み出す。

 
著者はうまく言い逃れたように思ったかもしれないが、筆者はさらに追及するのだ。
 最大の原因は、ジャワ人には歯を食いしばって何年間も耐えて成功させるという根性が希薄なためである。よく考えもせずにすぐに諦めてしまう。「Begini saja」という発言が出たら、その人はすでに思考停止していると思うのが良い。
 上記の内省とは、行為を反省して後日の役に立てようとするよりも、いつまでもくよくよ悩んでいる状態を指し示す場合が大部分である。些細なことにこだわっていないでいい加減あきらめたらよいのにと日本人は考えるが、ジャワ人の脳はどうもその機能が異なるようである。
 解決方法を考えない。彼はそれ以上考えられない、考えたくもない、のである。なぜならば大多数のジャワ人は「脳を使うとすぐ疲れる」からである。
 すぐ疲れるのにもかかわらず、悩むことで脳を使うのだから、機能停止状態に近くなっても当然である。悩み(derita)というのは思考がぐるぐる回っているだけであり終わりがない。思考(pikir)とは解決方法を何通りか見つけそれを次々と試して、出口までのルートを発見することである。悩みには出口を見つける希望がないが、思考は出口を見つけようとする希望がある。ジャワ人の話をよく聞いていると、かれらの「考えた」とはほとんど「悩んだ」と同じ意味である。

じゃあどうして、日本人とジャワ人との間でこのような脳の機能に差が出てしまったのだろうか。
それは子供の時のしつけの方法が日本とジャワでは大きく異なるからである。

コーヒーの粉やお茶を筒に入れるときに底をトントンと叩くと、振動で中身がしまる。
日本人は子供が悪いことをするとビンタする。だから脳に刺激が直接伝わって脳がぎゅっとしまるのである。だから頭の回転が速い。インドネシア語ではpintarになる。
一方、ジャワ人は子供のしつけにお尻を叩く。だから刺激がお尻の前の部分に伝わって、その部分がpandaiになる。
これは、ジャワ人は子沢山であることが証明しているのである。
[36]  ジャワ人が理想とするのは、すでに「沈殿した(ムヌップ)」状態でものを考えること、(中略) もはやいたずらに人の心をかき乱す怒りの情によって揺れ動いていない状態で、ものごとを考えることである。

 これはジャワ人に限らず、世界中どこでも同じである。こんなことが日常的にできるためには、精神力と能力の双方を相当の鍛錬を積まなきゃ不可能である。「脳を使うとすぐ疲れる」人たちにはこの鍛錬はとうてい実現不可能なのである。したがって、こういう理想は理想としてあこがれるだけで、現実にはほとんど役に立たないことになる。
[36]  ジャワ人が試みるのはムタニすること、つまり「困難を引き起こしているのは、実は自分自身なのではないだろうか」と自問してみることだ。

 
それにしてはジャワ人は言い訳が実に多い。
[36]  そうすれば、もはや困難の原因を他人に求め。他人を非難するようなことはなくなる。問題の原因が全て自分の行いにあることを知っているからである。(中略)ヌリモ・イン・パンドゥムつまり「甘んじて運命の分け前を受け取る」という言葉のとおり、与えられた分を受け入れなければならない。

 こういう割には、責任転嫁があまりに多い。仕事が失敗したのはあいつがああ言ったからだ、と、いつまでも覚えている。ジャワ人は「内省はするが、反省はしない」のである。だから進歩が遅い。
[36]  ここまで考えられることのできる人はすでにスメレ、つまり「自分が置かれた状況に自分を合わせていく」ことができるのであって、神に対してなぜこのように悪い運命を与えたのか、と嘆くこともない。どのような運命もウンドゥハン「自分が蒔いた種の刈り取り」だからである。

 うまい表現を使ってはいるが、早い話、状況に流されているだけなのである。率先して状況を改善しようとはしない。改善によって生じる損失が改善による利益より優先されるからである。
 ジャワ人の精神の底にあるクジャウエン(kejawen)について著者はあえて論述を避けているように思われる。クジャウエンは日本の密教と考え方が極めて近く、日本人には受け入れやすい「宗教」であるが、上述のように一神教とは相容れないために、密かにあるいは堂々と行われている。イスラムの教えに抵触しようがどうしようが「赤信号。みんなで渡れば怖くない」神経の持ち主なのである。
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2008-07-11 作成
2008-07-15 追加修正
2008-07-17 追加修正
2015-03-15 修正
2021/05/19 修正
 

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