嗚呼、インドネシア
53話 ワリ・ソゴへの突撃妄想インタビュー
第九章 スナン・グヌンジャティSunan Gunungjati
スナン・グヌンジャティ。フセイン・ジョヨディニングラット教授によれば、アチェの北にあるパサイで生まれたファレテハンである。没後、スナン・グヌンジャティと呼ばれるようになった。
インタビューアー お答え
- 失礼します。スナン・グヌンジャティさん。お休みのところをお邪魔して申し訳ございません。えー、私、度欲と申します日本人で、インドネシア、特にジャワに思い入れをしている者で色々とウエブサイトに記事を掲載…………。
誰じゃ!
- 度欲と申します、この世からのインタビューアーです。ワリソゴとしてご活躍だった時代のことをお尋ねしたく参りました。
ちょっと待っておれ。
- …………(このインタビューが終わりに近づくにつれ横柄な人がおおくなるなあ)、あ、やっとお出ましになった。
待たせたな!
- 早速ですが、お生まれはどちらですか。
西スマトラ州のパダン付近だ。
- アチェのパサイだと伝わっていますが、それは違うのですか。
そうだ、違う。田舎のパダン付近より昔からの有名なプサントレンがあるパサイのほうが格好よいから後世の人がでっちあげただけだ。というのもジャワ人とミナン人は歴史的に言っても仲が悪いから、ワリソゴが西スマトラ生まれじゃ格好がつかなかったのかもしれない。
- 容貌から拝見すると現在の西ジャワ州のスンダ人に似ていらっしゃるようですが。 分かったか。ワシは西ジャワ州にあったプリアガン国のパジャジャラン王家の末裔なのだ。だからスンダ人ににていても不思議はない。ジャワとスマトラ間の交通ルートは当時海路が多かったが、季節風の都合で海路を取れない場合は陸路をたどった。ジャワには南北海岸に街道が通っていて、それを通ってジャワ島の西端にあるメラクかラブアン(Labuan=「港」の意味)まで行き、スマトラに渡る。今のトゥルクブトン(Teluk Betung=「大きな湾」の意味)に上陸しあとは陸路でパレンバン、ルブクリンガウ。それから山を越えてブンクルに出たあと海路で西ジャワ州のパリアマンに上陸した。ルブクリンガウの北側にあるムアラブンゴ(Muara Bungo=「花の港」の意味)とブキティンギ(Bukittingi=「高い丘」)の間は熱帯雨林で、度欲君の勤めていた会社の人たちの努力で30年前に道路が開通するまでは通れなかったのだよ。ブキティンギ・パヤクンブを経由してスマトラの東海岸に出た。そのあとは海岸沿いにメダン、ロスマウェを経由してアチェに入ったものだった。パリアマン付近では11世紀にはイスラムが入っていてワシが生まれたときには布教が終わっていた。
- 大変な長距離旅行だったんですね。いまなら飛行機で一日でいける距離ですのに。 さて、ご活躍の時期はマウラナ家の人たちが活躍していなかった時代ですね。この時代には何があったのですか。 戦乱に続く戦乱の世であった。マジャパヒト王朝の残党たちやイスラム化を拒否する者どもたちとの戦いであったのだ。新興イスラム勢力をつぶそうとする保守派との戦いであったし、別な観点からは脱カーストという近代化への革新的事業であったとも言えるだろう。
- 一説にはポルトガルがスンダクラパを襲ったときに防戦されたのもあなたであると伝わっていますが、もしそうだと120歳のときに戦争の指揮を取ったことになりますね。 それは同名異人だ。日本でも商人たちは父親の名前を名乗っていたことがあったろう。我々も同じような習慣があったのだ。いまでも子供命名するときに歴史上の有名な人たちの名前を付けたがるだろう。昔もそうだったから、名がとどろいていたワシの名前を別人につけたのだ。名前というものは社会的なものだから、自称よりも他称の方が歴史に残るのは止むを得ないのである。それが今になって誤解の元になってしまったのだ。
- そうでしたか、わかりました。 最後の質問です。今はどこに生まれ変わっていらっしゃるのでしょうか。
西アフリカのガボンにいる40歳台の男性で宗教に関する仕事についている。
- もう少し詳しく教えていただ………
ダメだ。
-そうですか。本日はどうもありがとうございました。
 スナン・グヌンジャティ(Sunan Gunungjati)はデマクとバンテンで活躍し、チレボン市の創設者とも言われている。多数の説では彼はアチェのパサイの生まれであると言われているが、別な説によると彼は西ジャワ州にあったパジャジャラン(Pajajaran)出身であるとも言われている。彼はデマクのスルタン・トレンガノ(Sultan Trenggano)の娘と結婚し、当時ヒンドゥー教であったバンテンへデマク王国の軍事力を展開した。またファタヒラー(Fathillah)である、1527年に現在のジャカルタであるスンダ・クラパ(Sunda Kelapa)をポルトガルが攻略した際にポルトガルを打ち破ったことでも知られている。
 彼については諸説があり、一説では活躍時期はヒダヤトゥラー(Hidayatullah)と呼ばれた1470から1480年代であったとあるが、他説では活動時期はファタヒラーとよばれる1520年代であるともある。1480年代彼はパジャジャラン王の孫として、1520年代後半にはポルトガルと戦った。多数の説によると彼は1568年に没したとあるが、そうであると死亡年齢が120歳になってしまうので、学者たちは複数のスナン・グヌンジャティが存在したのではないかと考えている。(度欲註:英語の原文が分かりにくいので日本語も理解しづらいところがある。ご容赦を。)

(度欲の余計な註)
スンダ・クラパとは現在小型船の同名の港があるジャカルタ北部にある地域の名前である。大ジャカルタ市を貫通するチリウン川の河口でもある。
16世紀まではバンテン港が国際貿易港として栄えていたが、理由は不明だが西洋諸国と中国は交易所をスンダクラパに移転し、オランダはここをバタビアと名づけ大日本帝国軍が1942年に占領してからはジャカルタとよばれるようになった。スンダクラパ地区にはオランダ時代の建物が多数残存し、ジャカルタの古い姿を見ることができる。その一部は別ページに掲載してある。1942年ころ1978年ころ
ワリソゴの表紙へ 次へ進む

目次に戻る

2008-09-01 作成
2015-03-16 修正
 

inserted by FC2 system