インタビューアー |
お答え |
- 失礼します。スナン・グヌンジャティさん。お休みのところをお邪魔して申し訳ございません。えー、私、度欲と申します日本人で、インドネシア、特にジャワに思い入れをしている者で色々とウエブサイトに記事を掲載…………。
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誰じゃ! |
- 度欲と申します、この世からのインタビューアーです。ワリソゴとしてご活躍だった時代のことをお尋ねしたく参りました。
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ちょっと待っておれ。 |
- …………(このインタビューが終わりに近づくにつれ横柄な人がおおくなるなあ)、あ、やっとお出ましになった。
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待たせたな! |
- 早速ですが、お生まれはどちらですか。
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西スマトラ州のパダン付近だ。 |
- アチェのパサイだと伝わっていますが、それは違うのですか。
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そうだ、違う。田舎のパダン付近より昔からの有名なプサントレンがあるパサイのほうが格好よいから後世の人がでっちあげただけだ。というのもジャワ人とミナン人は歴史的に言っても仲が悪いから、ワリソゴが西スマトラ生まれじゃ格好がつかなかったのかもしれない。 |
- 容貌から拝見すると現在の西ジャワ州のスンダ人に似ていらっしゃるようですが。 |
分かったか。ワシは西ジャワ州にあったプリアガン国のパジャジャラン王家の末裔なのだ。だからスンダ人ににていても不思議はない。ジャワとスマトラ間の交通ルートは当時海路が多かったが、季節風の都合で海路を取れない場合は陸路をたどった。ジャワには南北海岸に街道が通っていて、それを通ってジャワ島の西端にあるメラクかラブアン(Labuan=「港」の意味)まで行き、スマトラに渡る。今のトゥルクブトン(Teluk
Betung=「大きな湾」の意味)に上陸しあとは陸路でパレンバン、ルブクリンガウ。それから山を越えてブンクルに出たあと海路で西ジャワ州のパリアマンに上陸した。ルブクリンガウの北側にあるムアラブンゴ(Muara
Bungo=「花の港」の意味)とブキティンギ(Bukittingi=「高い丘」)の間は熱帯雨林で、度欲君の勤めていた会社の人たちの努力で30年前に道路が開通するまでは通れなかったのだよ。ブキティンギ・パヤクンブを経由してスマトラの東海岸に出た。そのあとは海岸沿いにメダン、ロスマウェを経由してアチェに入ったものだった。パリアマン付近では11世紀にはイスラムが入っていてワシが生まれたときには布教が終わっていた。
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- 大変な長距離旅行だったんですね。いまなら飛行機で一日でいける距離ですのに。 さて、ご活躍の時期はマウラナ家の人たちが活躍していなかった時代ですね。この時代には何があったのですか。 |
戦乱に続く戦乱の世であった。マジャパヒト王朝の残党たちやイスラム化を拒否する者どもたちとの戦いであったのだ。新興イスラム勢力をつぶそうとする保守派との戦いであったし、別な観点からは脱カーストという近代化への革新的事業であったとも言えるだろう。
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- 一説にはポルトガルがスンダクラパを襲ったときに防戦されたのもあなたであると伝わっていますが、もしそうだと120歳のときに戦争の指揮を取ったことになりますね。 |
それは同名異人だ。日本でも商人たちは父親の名前を名乗っていたことがあったろう。我々も同じような習慣があったのだ。いまでも子供命名するときに歴史上の有名な人たちの名前を付けたがるだろう。昔もそうだったから、名がとどろいていたワシの名前を別人につけたのだ。名前というものは社会的なものだから、自称よりも他称の方が歴史に残るのは止むを得ないのである。それが今になって誤解の元になってしまったのだ。
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- そうでしたか、わかりました。 最後の質問です。今はどこに生まれ変わっていらっしゃるのでしょうか。
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西アフリカのガボンにいる40歳台の男性で宗教に関する仕事についている。
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- もう少し詳しく教えていただ………
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ダメだ。
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-そうですか。本日はどうもありがとうございました。
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