嗚呼、インドネシア |
第 6話 ジャカルタ 1942年 |
「描点ヤシネドンイ、編バヤジ著世和橋高」という本を数年前に偶然にも古本市で入手しました。 え! 題名が変だ!って? ああごめんなさい。だって下の写真を見てくださいよ、そう書いてあるんですから。 |
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現代表記に直すと「インドネシア点描 ジャバ編」なんです。この本は昭和17年2月8日に、「部版出社聞新国愛」から発行されています。紀行記風につづられたこの本の中に何枚かの写真が挿入されていて、まだ面影をとどめている、あるいは「えーっこんなことしていたのか」という写真ばかりを集めて、原著にある記事の内容を簡単にまとめて説明します。 原文は青文字で現代表記に直してあります。度欲のコメントは赤色で示してあります。 |
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バタビア(現在のジャカルタ)は旧名ジャガタラで、これは欧州人一般の間に用いられてきた。華僑はカラバと称していた。日本人の間ではジャガタラ芋とか、ジャガタラ文などで古くから知られ。十六世紀の徳川御朱印船時代から三百年以上の親しみ深いところである。 バタビアはジャバ島北岸の西部に位し、公園の街、森の街と言われているほど樹木の多い市街であり、南北九マイル、東西四マイルに細長く広がった海抜十メートル以下の大体平面の街である。バタビアを距る60km「バイテンゾルフ(今のボゴール)」の山辺から流れてくるチリウォン河が貫通し、また、水の街、運河の街を形成していて、その河口が、バタビア旧港となっている。 バタビアは蘭領印度政治、教育の中心、蘭印第一の大都会であり、首府として和蘭総督府の所在地である。輸出入金額また蘭印中第一位にあり商業の都でもある。 バタビアは商社の多い「旧バタビア」と新市街、住宅の多い「中央バタビア」と、近年編入せられた隣接市街「ミステルコルネリス(現在のジャティネガラ付近)」とに分かれ、街の中央には一個キロ平方の大広場、コーニングスプレン(現在の独立広場)および約半キロ四方の広場、ワーターロープレイン(現在の国立モスクか?)があって、「旧バタビア」と「中央バタビア」とを区画している。なお、接続市街にはバタビアの外港「タンジョンプリオク」がある。 以下の地図は1935年当時のものである。 |
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1930年の国勢調査による人口は、以下の表のとおりである。
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歴史 |
1522年 | マラッカから派遣されたポルトガル船のキャプテン、エンリケ、レメがチリウォン河の右岸河口に近いところに石柱を建つ。 |
1596年 | 和蘭から南洋航路探検のため初めて派遣された。コルネリウスで、ハウトマン引率の四隻の船入港。 |
1610年 | 石造商館を建築する敷地その他に関する契約をジャガトラの領主と締結す。 |
1611年 | 和蘭最初の印度総督ピーテル・ボット石造家屋を建て商館に当て、蘭人、葡(ポルトガル)人、印度人等住居するもの漸次増加す。 |
1618年 | 英国艦隊大挙来襲 |
1619年 | 総督ヤン・ピーテルスゾーン・クンは、ジャガトラ港内の蘭印船七隻を率いて、優勢な英国艦隊の鋭鋒を「アンボイナ」に避けていたが、ジャガトラに引き返す。 |
1621年 | 以来ジャガトラの町と城とを和蘭民族のバタビ(Batvi)にちなんで「バタビア」と称す。 |
町の紹介写真 | |
さあ、最初から難しい場所です。どこでしょうか? 本の説明ではライスウエーク通りとあります。 1921年ジャカルタ生まれのPrawotoさんから聞いてわかりました。この写真はパサールパルーの東側にあるJuanda駅南端の踏切り(今は連続立体交差になっている)付近から西の方角を撮影したものでした。写真奥に続いているのが、Jl. Veteranで、右角にある商店の裏側は川です。 また左角にあるのが由緒あるホテルでしたが、いまではショッピングモールに変わってしまいました。(2006-5-13 Mr. Prawoto) S6 10'05", E106 49'50" |
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Pasar Senen 駅の近くは立体交差などができてきれいになりました。 |
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カリ・ブサール。 日本人会館と日本人小学校はソーランウエにある。 現在の地名ではJl. KH Hasyim AshyhaiのKali Krukutにかかる橋の西詰めの南側です。(2006-10-02 石居日出雄さんから) 同氏のご母堂がここにあった日本人会の建物を1935年に改築して小学校を開校し、同氏はこの学校に1941年まで通学していた。S6 09'56", E106 48'55" この建物はLindetevesと呼ばれていたもので、再開発のために壊されてしまいました。場所は、ジャカルタコタ駅から北西に約500mの付近です。「ソーラン・ウエ」の「ソーラン」はChaulanと綴ります。 (2006-5-13 Mr. Prawoto) 「ソーラン・ウエ」のウエは道を意味するオランダ語のウエイのようです。 |
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ビトゥン・クイチイル(旧バタビアの旧跡) 最初、こういう地名は聞いたことがないとMr. Prawotoはおっしゃっていたのですが、写真を見ているうちに、Pintu Kecil = ピントゥ・クチール(小さな門の意)に違いないという結論に至りました。この近くには「Pintu Besar (大きな門)」という地名もあります。なお、Pintu Kecilの内側は華人の居住地域で今ではインドネシアの金融の中心になっています。 場所は、ジャカルタコタ駅から真西に約300mの付近です。(2006-5-13 Mr. Prawoto) |
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タイルヘルミナ公園 これもなかなかわかりませんでした。というのも「タイルヘルミナ」が「ウィルヘルミナ」の誤植だったからです。原稿の字がよほど汚かったのでしょうかねえ。多分「ゐ」と変体仮名の「た」との読み違いかもしれません。出版後65年もたっているのですから、著者も編集者も鬼籍に入っていて真実は不明です。 現在は国立モスクであるIstiqlal寺院になっています。(2006-5-13 Mr. Prawoto) |
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ジャカルタコタ駅 これはご存知。今でも変わらず「そのまま」汚くなっています。 詳しくはこちらを |
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バタビア・ファクトライト拓殖会社。ジャカルタコタ駅の前。 この建物は駅前にまだあり、Bank Mandiriが入っています。写真の右隣のビルにはBank Indoneisaが入っています。(2006-5-13 Mr. Prawoto) |
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この記事は面白いからすこし詳しく紹介します。 カステー・プレーンに古色蒼然としたペナン門というのがある。パサルイカンの近くで、旧バタビア城壁のひとつの門である。城壁はなくなって門だけが残っている。 四メートル長さの砲身の根元に鋳銅の握りこぶしがあって、その恰好は写真をよくよくご覧になれば判る。砲身にはラテン語で何か書いてあるるそれを日本語に訳すると、「余は余の体内より再生す」という意味なる由で、この大砲を聖砲と称し、これを抱けば懐妊するとの迷信があって、土着民や華僑の間に参詣者が絶えない。 この砲は男性であって、いまひとつの女性の砲はバンタムにあるが、昔これらの二砲は一緒であったが、今は夫婦別れをしているのだという伝説もある。 見物に行くとインド人のようなのがいて、金をくれという。金をやらないと肝心のところをトタンで覆っておいて見せてくれない。山のように積んであるのは紙製のお花と言うべきであろう。 この大砲は現在は博物館に収納されています。(2006-5-13 Mr. Prawoto) |
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バタビアの魚市場の一部 写真中央の尖竿ある建物は現在入港船の見張り所に使われているが、そばに行ってみると、昔をしのぶよすがの建物である。壁の厚さ三尺もあろうか。処々に銃眼を設け壁土には番兵小屋らしきものの跡がある。これらはジャガタラ市の四周にめぐらされていた城壁の一部である。 |
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これもご存知。いまだにそのままの博物館。 ただし写真の右側に新しい建物が増築されています。 場所はJl. Murdeka Baratです。 (2006-5-13 Mr. Prawoto) |
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バタビア市の中央にある河での水浴と洗濯。 ということは、現在のハヤムウルクとガジャマダ通りの間にある河のことだろう。1970年代まで、真っ黒なくさい水でマンディーをしている人がいたが、護岸工事がおわってからは見かけなくなった。 昨年からのジャカルタ大洪水は上流地域の保水性が宅地開発などで損なわれたこと、たまたまエルニーニョの豪雨が海ではなく陸に降ったこと、低地帯での地下水汲み上げで地盤沈下していること、人口増加で危険な地域にも住宅が建つようになったこと、丘から出たばかりの地域に貯水用の沼がたくさんあったが、都市化のために埋め立てられてしまったこと、などなどがあります。 ジャワの田舎でも今では川でマンディーしている人をあまり見かけなくなりました。所得の増加に伴い各家庭に井戸が普及したからとのことです。 |
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洗濯屋の洗濯風景 これも興味あるので記事を紹介します。 市内に村があるということは私たちの常識では腑に落ちない。が、簡単に想像できるのは東京の新市域に下肥溜が現存している事実を考えると良い。立派な国道ができ、その両側に新式の建築物が櫛比しても、すぐ裏には昔ながらの百姓家が藁葺きで残っているのと同じである。 洗濯屋のは男が洗っている。大量だから女ではやりきれない。竹の組み立て架を設けて掛けてある。洗板も使っている。すべてが大掛かりであるが、使う水は同じであり、そのにごっていることも寸分違わない。もっとも欧人や日本人は全部水道を使っているからご安心なさい。 川の中で大小便はする。洗濯はする。マンデーはするので、ちょっと考えると流行病がここを媒介所として多く伝染しはしまいかと思うのであるが、そんなことはない。直射日光が強烈なためだという。政府では一年のある時期を選んで水をせき止めて、川底を強烈な日光で直射させ、一種の消毒法を行っている。 しかし、それだけというよりも、そんなことは問題ではない。だからといって回教の信奉だけできたない水が清くなるとも考えられない。勇敢に濁水に飛び込みうるのは回教のおかげと見たい流行病の少ないのは免疫性と見るべきであろうか。南京虫に対する華僑のように。 |
ジャカルタの古い写真 Tempo Doeloe tahoen 1954 "Djalan Hajam Woeroek & Djembatan Harmonie"という古い写真がGoogle Earthにのっています。6° 10' 5.02" S 106° 49' 13.94" E http://www.panoramio.com//photo/14468517でも見られます。 |
2003-03-13 作成
2003-03-14 修正
2006-05-13 修正
2009-05-04 修正
2010-09-23 修正
2011-05-11 修正
2015-03-01 修正
2015-04-03 修正