嗚呼、インドネシア
53話 ワリ・ソゴへの突撃妄想インタビュー
編集後記

 これは前のページで掲載したウエブ記事をもとに作成したワリソゴの系譜である。スナン・ギリとスナン・カリジョゴはワリソゴであるが、改革派といわれているので枠の種類を変えてある。
 この図からマウラナ・マリク・イブラヒムの家系を中心にしているのがわかるだろう。
 スナン・ボナンの弟子であったスナン・カリジョゴとスナン・ムリアの二人が記されており、残る二人、スナン・グヌンジャティとスナン・クドゥスとの関係は不明瞭である。
 これはタジク人であったと伝えられるマウラナ家の人々がジャワの人たちの中に溶け込んでいった歴史ともとれる。最初は自分たちでイスラムの布教を始め、そのうちスナン・カリジョゴなどの豪族を巻き込んでいったともとれる。
 マウラナ家はもともとがタジク人であるから、彼らの信仰の中にはイランにたくさん存在したスゥフィーの影響によるイスラム神秘主義の傾向が強かったように思われる。それを一家の一人であるスナン・ギリがイスラム正統派の信仰に正したようにも思われるのである。

 スナン・ギリはヒンドゥー教の国の姫との間の子であったといわれている。この当時の情勢を考えると、この国とはチャンパであった可能性が高い。チャンパ国はこの時期にイスラムとヒンドゥー教との確執があり、このすぐあとに滅亡している。いまでもベトナムに残されているチャム人には古くからのヒンドゥー教を信仰している部族と、イスラム神秘主義とアニミズムとを混交したバニ教、正統派イスラムがいる。10世紀ころからジャワ島の北海岸には海上交易に従事したチャンパ人の居住地がたくさんあり、彼らはそこを頼っていったのだろう。

 一方スナン・グヌンジャティは、目だった宗教活動の記録がないようだが、パジャジャラン王国の末裔であり、軍事的にすぐれていて外敵を破った英雄であるがゆえにワリソゴに数えられているのかもしれない。

 スナン・クドゥスは宗教活動というより、イスラムを最初に受け入れたデマク国内の政治に手腕をふるったのだろう。この二人はイスラムの伝道者というより、国内の英雄ととらえたほうが良いかもしれない。

 この記事はここで終わり。

 と思ったら大間違い。追加がある。

 インドに長いネパール人の同僚に写真を見せてどこの地方の人か尋ねたところ、マウラナ・マリク・イブラヒムの子孫たちが被っている帽子はインダス河沿いの地方の人たちの服装であり、今ではほとんど見かけないが、老人が正装に使う被り物であとのことであった。また、顔つきから見るとアーリア系であり、少なくともイスラマバード付近のパンジャブ人でも、ラジャスタン人でもないから、グジャラート付近の人たちではないだろうかとのことであった。

 タジク人では?と尋ねるときっぱりと否定された。タジクとキルギス地方はモンゴルの血が濃いために目が細く、彼らの肖像画とはまるで異なる容貌を持っているとのことだった。ではフビライ汗が侵略した結果で、混血が進み目が細くなったのでは?という疑問が残るが、彼らは15,16世紀の人たちであり、モンゴルの西進は13世紀のことであるから、時間的にこの仮定は否定できる。

 さあて、彼らは一体何族の出身だったのだろうか?さらに不思議は増えてゆく。
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2008-08-31 作成
2008-09-01 追加修正
2008-09-09 追加
2015-03-16 修正
 

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