嗚呼、インドネシア |
第85話 ワリソゴとその先祖たち |
ワリソゴの時代の人たちとジャワの歴史ばかりに話題が集中したので、彼らの先祖たちと民話に残っているワリソゴについて語ることにする。 Babad Tanah Jawi「ジャワ年代記」とSerat Kanda「物語の本」は18世紀初頭に流行したジャワ語の作品である。史実と物語が入り混じっているので、すべてを史実として受け入れることはできないものである。両著にあるおとぎ話とスマランの三宝壟華人編年史(三保洞廟資料)、塔蘭華人編年史(チレボンのタラン廟資料)をもとに人物別に語ってみよう。 この人たちは混血華人であったために、現地名、イスラム名、華人名、幼名、地位などで呼ばれていた。 主な参考資料はSlamet Muljana著Runtuhnya Kerajaan Hindu-Jawa dan Timbulnya Negara-negara Islam di Nusantaraである。 |
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目次 |
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1. | ラデン・ラフマッ、スナン・ガンペル、ボンスイホー (Raden Rahmat, Sunan Ngampel, Bong Swi Hoo・彭瑞和) この人については以前にワリソゴのページで触れたことがあったが、これに書いていない物語を含めて紹介する。 |
1.1 | Babad Tanah Jawi (ジャワ年代記) スナン・ガンペル(彭瑞和)が生まれる前に、マクドゥム・イブラヒム(Makdum Ibrahim)がチャンパの人たちをイスラム化した。この業績でマクドゥム・イブラヒムはチャンパ王の婿として取り上げられ、ドゥワラワティの妹の王女と結婚した。この二人の間にラデン・ラフマッ(Raden Rahmat・彭瑞和)とラデン・サントリ(Raden Santri)と呼ばれる息子を得た。ラデン・ラフマッは腹違いの兄弟であるラデン・ブレレ(Raden Burereh)とラデン・サントリを伴い叔母のドゥワラワティに会うためにマジャパヒトを訪問し、一年間マジャパヒトで暮らした。ラデン・ラフマッはトゥメングン・ウィラワティクタ(Tumenggung Wilawatika)の娘と、とラデン・サントリとラデン・ブレレはアルヤ・テジャ(Arya Teja)の娘たちと結婚した。 |
1.2 | Serat Kanda (物語の本) ムスタキム(Mustakim)の王子サイド・ラフマッ(Sayid Rahmat=Raden Rahmat)がメッカ巡礼から戻ってきた後、母から叔母のドゥワラワティがジャワに住んでいることを聞き、母親の死後にチャンパ王の王子のいとこであるジャナルカビル(Janalkabir)と共にジャワに向かった。彼らはジェパラに上陸し、その後クドゥスに向かった。クドゥス滞在中にチャンパから連れてきた息子のサイド・セ(Sayid She)が病気になり、病気療養中にサイド・ラフマッはニャイ・ラロ・グンジュン(Nyai Laro Ngunjun)と結婚した。息子の回復後、彼らはマジャパヒトにむかいアンカウィジャヤ(Angkawijaya)王に歓待され、サイド・ラフマッはガンペルに住むことを許された。その後サカ歴1308年(西暦1386年)にアルヤ・テジャの孫娘と結婚した。 |
1.3 | スマランの三保洞廟資料 チャンパにいた東南アジア華人の支配人であるボンタクケン(Bong Tak Keng・彭コ強)の孫であるボンスイホー(Bong Swi Ho・彭瑞和)が1445年にパレンバンに赴任中のスワンリョン(Swan Liong・孫龍)の補佐として赴任した。トゥバン太守のガンエンチュ(Gan Eng Cu・顔英裕)はマジャパヒト地域での華人の利益に対する支配力を有しておりマジャパヒト王国とも太いつながりがあったため孫龍は使者として彭瑞和を翌年ジャワに派遣した。同年、彭瑞和は顔英裕の娘と結婚した。 翌1447年に彭瑞和は顔英裕の指示でブランタス河口のバギル(Bangil)に華人イスラム社会を構築し、華人をはじめとしてジャワ人にイスラムの布教を行おうと努力し1451年まで同地の首長を務めた。1448年にはトゥバンの太守であったガンエンワン(Gan Eng Wan・顔英旺)がトゥマペルのジャワ・ヒンドゥー教徒に暗殺され、その後も半世紀にわたりハナフィー派華人たちはトゥマペル人に多数殺された。1450年に明朝が混乱し、中国との連絡が取れなくなり華人イスラム社会が瓦解したのみならず1451年にはチャンパがプノンペンの仏教徒に襲撃されたので、身の危険を感じた彭瑞和はイスラム化したジャワ人たちと共にスラバヤのガンペルに移動して新たにジャワ人たちとイスラム社会を構築した。 ガンペルで彭瑞和は言語を中国語からジャワ語に変え、存在感が低下したハナフィー派華人ムスリム社会を強化するように努めた。このことがジャワ宗教史の転換点になった。 彭瑞和は1475年に親友の孫龍の養子であるラデン・パタ = ジンブン(Jim Bun・陳勁文)をデマッ付近に配置し、実子であるラデン・クセン = キンサン(Kin San・陳金山)をマジャパヒト王宮に送り込んだ。彭瑞和の依頼でマジャパヒトのクルタブミ王は自分の息子である陳勁文に王子の称号とデマッ付近の土地を与えた。 スナン・ガンペル(Sunan Gnampel/Sunan Ampel)と呼ばれた彭瑞和はガンペルで1478年のその生涯を閉じた。 |
2. | アルヤ・ダマル、ジョコ・ディラ、スワンリョン Arya Damar, Jaka Dilah, Swan Liong(孫龍) | |
2.1 | Babad Tanah Jawi (ジャワ年代記) アリッ王子(Raden Alit)別名ブラウィジャヤ二世(Brawijaya II)王はチャンパの姫ドゥワラワティ(Dwarawati)と結婚する夢を抱いていた。王は宰相のガジャマダ(Gajah Mada) を結婚申し込みのためにチャンパに派遣した。このプロポーズは受け入れられてガジャマダはチャンパ姫を連れてジャワに戻り、グレシクで王の歓迎を受けたのだった。王とチャンパ姫の結婚式は盛大に行われた。 この時、王と結婚したいと念願していた森に棲んでいた女鬼がいた。一緒にいた男鬼のあきらめるようにとの説得を女鬼は聞き入れず、ニ・エンダン・サスミタプラ(Ni Endang Sasmitapura)という美しい女性に化けてマジャパヒトの都に現れた。都の人たちはその美貌に驚き、この話は王宮にまで伝わった。ガジャマダ宰相は彼女を連れて王に引き合わせたところ、王は彼女を大層気に入って妻とした。ある時、彼女は堪えきれずに生肉を食べたいと言い出して、生肉をほおばったところたちまち鬼女に戻ってしまった。これを見た王は彼女を殺そうとしたが、彼女はまんまと逃げおおせて森に戻った。九か月後にこの女鬼は男の子を産み、ジョコ・ディラ(Jaka Dilah)と名付けられた。息子が成人した後男鬼から自分の父親がブラウィジャヤ王であることを聞き出して、都に上り王に直訴したところ、王に仕えることを許された。 とある日、王は森で狩りをしたいと言い出した。ジョコ・ディラは王に「なあに森に行く必要はありません。王宮前広場に私が森のけものを集めましょう」と申し出た。ジョコ・ディラはさっそく森に戻り母親の女鬼に獣を王宮前広場に集めさせた。王はこの狩りの成功を喜びジョコ・ディラにアルヤ・ダマル(Arya Damar)という称号と大臣の地位を与えた。やがてアルヤ・ダマルはパレンバンの王に昇格してグレシク港で赴任のための船を待ったのであった。 陳勁文が生まれる前に、マクドゥム・イブラヒム(Makdum Ibrahim)がチャンパの人たちをイスラム化した。この業績でマクドゥム・イブラヒムはチャンパ王の婿として取り上げられ、ドゥワラワティの妹の王女と結婚した。この二人の間にラデン・ラフマッ(Raden Rahmat・彭瑞和)とラデン・サントリ(Raden Santri)と呼ばれる息子を得た。ラデン・ラフマッは腹違いの兄弟であるラデン・ブレレ(Raden Burereh)とラデン・サントリを伴い叔母のドゥワラワティに会うためにマジャパヒトを訪問し、一年間マジャパヒトで暮らした。ラデン・ラフマッはトゥメングン・ウィラワティクタ(Tumenggung Wilawatika)の娘と、とラデン・サントリとラデン・ブレレはアルヤ・テジャ(Arya Teja)の娘たちと結婚した。 |
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2.2 | Serat Kanda (物語の本) アンカウィジャヤ(Angkawijaya)王はニ・ラセクシ(Ni Raseksi)という側室をめとった。この側室は生肉を食べたために化けの皮がはがれてもとの女鬼に戻ってしまい、王宮から追放されてしまった。この女鬼はやがて男の子をタユ(Tayu)で産んだ。この子は成人して王に仕え、やがてパレンバンの土地を与えられた。 王妃は側室にチャンパの姫を入れるように王に忠告し、ドゥワラワティ(Dwarawati)という名のチャンパ姫をめとった。王はチャンパ姫と結婚したが、チャンパ姫はなかなか懐妊しなかった。神のお告げによると、懐妊するためには華人の女性を妻にすることが条件であった。チャンパ姫はしぶしぶそれを認め、王の親友である華人の富豪キアイ・ボンタンの娘が側室に入った。この華人姫は大変な美貌の持ち主で、王の寵愛を受けて懐妊したためにチャンパ姫の嫉妬の対象になってしまった。 王は困ってしまい、ガジャマダ宰相にこの華人姫をグレシクの港に連れて行かせ、チャンパ姫が嫉妬しないように、同地のアルヤ・ダマルに下賜した。これにはこの華人姫が出産するまでは肉体関係を持ってはならないとの王の条件が付けられていた。月が満ちてアルヤ・ダマルの赴任地のパレンバンで男の子が生まれラデン・パタ(Raden Patah)と名付けられた。この姫とアルヤ・ダマルの間にはもう一人の男の子ラデン・クセン(Raden Kusen)が生まれた。この二人の息子が華人イスラム国建国の立役者となる。 |
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2.3 | スマランの三保洞廟資料 スワンリョン(孫龍)はマジャパヒトのウィクラマワルダナ王と華人女性との間にモジョクルトで生まれた。 1403年に鄭和がジャワを訪れた後、東南アジア華僑を支配するために鄭和はチャンパ(現在のベトナム中南部にあった王国)にいたボンタクケン(彭コ強あるいは彭コ慶)を1419年にハナフィー派東南アジア華僑の総支配人に任命した。彭コ強はマジャパヒト国内の華人の統制のためにマニラにいたガンエンチュ(顔英裕)を1423年にマジャパヒトの国際港であるトゥバンの商館長として派遣した。この当時パレンバンも繁栄して華人が多かったので、顔英裕は1443年にモジョクルトにいた砲兵隊の勇者である孫龍をパレンバンに華人イスラムの惣代として派遣した。さらに1445年に顔英裕はチャンパにいた彭コ強の孫のボンスイホー(彭瑞和)を孫龍の補佐としてパレンバンに派遣した。この彭瑞和はジャワではアルヤ・ダマルと呼ばれ、後日ワリソゴの一人であるスナン・ガンペルあるいはスナン・アンペル(Sunan Ngampel/Sunan Ampel)として知られるようになる人である。 孫龍には、華人の姫と一緒に押し付けられたクルタブミ(Kertabhumi)王の御落胤であるラデン・パタ(Raden Patah = Raden Jimbun・陳勁文)という養子と、この姫との間にできたラデン・パタより一歳年下のラデン・クセン(Raden Kusen = Raden Husain・陳金山)という実子がいた。この二人が後日デマッ(Demak)サルタン国を建国することになる。 |
3. | ラデン・パタ、パネンバハン・ジンブン、アル・ファタ (Raden Patah, Panembahan Jimbun, Al-fatah, 陳勁文) |
3.1 | Babad Tanah Jawi (ジャワ年代記) 息子の陳勁文をパレンバンの王に、陳金山を宰相にしたいと孫龍は思っていたのだが、この二人はまだ年若く政治能力もなかったので、この父親の望みを重荷に感じていて父親にこの旨を告げた。この件で父親の孫龍が激怒したので、兄の陳勁文は王宮を抜け出して密林に入った。この王子の逃亡で都の中は大騒ぎとなり、その隙をついて弟の陳金山も兄を追って王宮から逃げ出した。彼らは湖のほとりで出会いジャワに向かうことを決心した。 ジャワに向かう船はなかなか見つからなかったので彼ら二人はラサムカ(Rasamuka)山で修行をしながら船を待っていたところ、ちょうどジャワに向かう商人に出会いことができスラバヤに向かった。スラバヤについてすぐこの兄弟は父親の親友である彭瑞和の家に立ち寄り、彭瑞和の塾生となった。弟の陳金山は兄の陳勁文と共にマジャパヒト王に仕えようと誘ったが、兄は異教徒の王に仕えたくないとのことであったので兄はそのまま塾にとどまり、彭瑞和の娘と結婚した。 その後、彭瑞和の指示で兄の陳勁文は現在のデマッ付近のビンタラ(Bintara)の原始林を開拓し、その地にモスクを建ててイスラム法学者となった。 一方、弟の陳金山はマジャパヒトで宮廷使用人として召し抱えられ、Terung(モジョクルトとスラバヤの間のKrian付近)の領主になった。ビンタラの森で厳しい修行をしている新しい住人がいるとブラウィジャヤ王が聞きつけ、陳金山に尋ねたところ、自分の兄であると申し述べたので、兄の陳勁文を連れてくるように命じた。兄の陳勁文と陳金山がデマッからマジャパヒトに向かう途中で王に出会った。王は陳勁文を見て鏡に映した自分の顔と見比べよく似ていることに驚いた。そこで陳勁文は自分が王の御落胤であることを告白したところ、王は陳勁文をビンタラの領主とし、後日豊かな土地になり初代のイスラム王になるように祈願したのであった。また毎年王に謁見するように命じた。 陳勁文はこの命令に背いて謁見しなかったので、王は陳金山を使者にたててその理由を問いただしたところ、異教徒の王には謁見できないとのことであった。それなら、マジャパヒトに反旗を翻すときには必ず協力するという条件で兄弟そろってブラウィジャヤ王に謁見することにした。このような経緯で二人はイスラム教徒の太守たちの軍隊と共に王都に乗り込むことになった。デマッの軍隊がマジャパヒトの都近くまで来たことを知ったブラウィジャヤ王は攻撃を恐れて部下たちを連れて都から脱出した。空になった王宮を見て陳勁文は号泣し、失意のままデマッに帰還したのだった。 |
3.2 | Serat Kanda (物語の本) 陳勁文には正妻との間にラデン・スルヤ(Raden Surya=ヤッスン=Yat Sun逸孫)とラデン・トレンガナ(Raden Trenggana = Tung Ka Lo)、二番目の妻との間にラデン・カヌルワン(Raden Kanuruwan)、三番目の妻との間にはラデン・キキン(Raden Kikin)とラトゥ・マス・ニャワ(Ratu Mas Nyawa)を得た。後日この子孫たちの間で覇権争いが起きるのである。 スマランの非ムスリム華人の惣代であったガンシチャンは、ブラウィジャヤ王が一度としてイスラムの布教を禁じたことがなかったので、マジャパヒトを攻撃しようとするデマッ人たちを牽制していたがこの忠告は無視された。 陳勁文はブラウィジャヤ王に刃向うという気持ちはなかったが、彼の部下たちはマジャパヒトに対して反乱を起こしてしまった。サカ歴1399年(西暦1477年)のこの戦いでデマッ側は勝利しブラウィジャヤ王はガジャ・マダ宰相 とともに都落ちしスングル(マランの南方)に避難した。 その後陳勁文はパネンバハン・ジンブンと名乗り、ブラウィジャヤ王にイスラムへの改宗を迫ったが断られたため、スングルを攻撃するために部下をサカ歴1400年(西暦1478年)に派遣した。この戦いに敗れたブラウィジャヤ王はバリ島に逃げ込むこととなった。 |
3.3 | スマランの三保洞廟資料 上述のように、孫龍は陳勁文と陳金山を1456年から1474年まで育て上げた。この二人の息子がガンペルの彭瑞和に会いに行く途中でスマランに投宿した。スマランのモスクの中に鄭和の像が立っているのを見て陳勁文は落涙し、未来永劫変わらないモスクをスマランに建てられるようにアッラーの加護を祈った。 彭瑞和は1475年にスマランの東側に隣接する陳勁文の希望する無人の地域(ビンタラ=現在のデマッ)に配置した。この地はジャワ島北岸航路を支配する重要な位置を占めていた。この地でジャワ人イスラム社会を構築するようにと彭瑞和は陳勁文に指示した。 1477年に陳勁文はデマッ軍1000騎を率いてスマランの町を攻略した。この時、陳勁文は将来を見据えて、背教した華人たちを殺戮しなかったばかりか、三保洞廟の破壊も行わなかった。彼は背教した華人たちの持つ航海術や造船技術を利用したかったからであった。 同年、陳勁文はマジャパヒトに出向きクルタブミ王の御落胤であることを述べたが、ムスリムであるが故に王を拝むことを拒否した。(当時には王がデワの生まれ変わりと信じられていた)。 彭瑞和が1478年に亡くなるとすぐに陳勁文はマジャパヒトの都に攻め入り王宮から馬七頭分の財宝を持ち帰った。マジャパヒト王のクルタブミは捕囚となりデマッに軟禁された。この戦争でマジャパヒトの都を脱出した非ムスリムのジャワ人たちは都が焼かれなかったのですぐに戻って住み着いた。戦いの後で、スパイとしてマジャパヒトに送り込まれていた陳金山を陳勁文はスマランに連れ帰り、スマランの太守とした。その後、デマッは発展に次ぐ発展をした。 この戦い以降、マルク諸島産の香料貿易を独占していたマジャパヒト商人の活動が、デマッのイスラム華人商人に奪取された。そこで、マジャパヒトの最後の王であるギリンドラワルダナ(Girindrawardhana)王は折からマラッカに進出してきたポルトガル人と結託してマジャパヒトの再興を目指そうとした。これを聞きつけた陳勁文は1517年に二度マジャパヒトを攻略したため町と王宮は空になってしまった。しかし、ギリンドラワルダナ王の妻が陳勁文の末妹であったというだけで、同王のマジャパヒト太守という地位は奪われなかった。 1518年に陳勁文は63歳でその波乱万丈の生涯を閉じ、デマッのモスクに埋葬された。 |
4. | ラデン・クセン、キンサン(Raden Kusen, Kin San 陳金山) |
4.1 | Babad Tanah Jawi (ジャワ年代記) 上の2.1項を参照。 |
4.2 | Serat Kanda (物語の本) 上の2.2項を参照。 |
4.3 | スマランの三保洞とチレボンのタラン廟資料 陳勁文と陳金山に共通して関係する記事は上の2.3項を参照。 陳金山がマジャパヒトに王にその能力を買われたのは、陳金山が父の孫龍から火薬の製法と利用法を学んでいたからであった。 1478年に陳金山がスマランの太守になって、非ムスリム華人の専門的能力を活用するために、顔英裕の息子のガンシチャン(Gan Si Cang)をスマランの非ムスリム華人惣代に任命した。陳金山はガンシチャンとともに、鄭和提督が三世代前に作ったチーク材の製材所と造船所を再建した。この年から亡くなるまでの51年間、陳金山は有能でかつ寛容なスマランの首長であった。 1481年にガンシチャンがデマッのモスクの建設に参画し、集成材による柱を建てた。 1509年に陳金山が兄陳勁文の長男のヤッスン(逸孫)とともにスマランの造船所を訪問した。ポルトガルがマラッカを占領する前にデマッが占領しようとしていたので、艦船が急ピッチで建造されていた。 1513年にジャティクスー(査コ旭)所有の高速船が修繕のためスマランでドック入りした。この船の形状に倣って、陳金山とガンシチャンはデマッ国艦隊のジャンクの形状を変更した。なお、この査コ旭はクドゥスにとどまったため後日スナン・クドゥスと呼ばれるようになった。 1521年のマラッカ攻撃の際には火薬の専門家の陳金山が作った大砲を艦隊に乗せた。 1526年にスンダクラパを攻略するためにスマランから西に向かった艦隊に陳金山が乗り込み、チレボンの華人ムスリム社会との連携を図った。この時陳金山は70歳であった。この時、陳金山はチレボンの華人ムスリム、陳英発(Tan Eng Hoat)の客人としてセンブン(Sembung)に一か月滞在した。 1529年に陳金山は74歳で死去し、その後を陳勁文の二男のトアボの息子のムッミン(Muk Ming 陳木明)が引き継いだ。ムッミンは陳金山に教育を受けたということが書かれているので、陳金山に養子にもらわれたのかもしれない。 |
5. | ラデン・スルヤ、ヤッスン、スルタン・ユヌス、パンゲラン・サブラン・ロー(Raden Surya, Yat Sun 逸孫, Sultan Yunus, Pangerang Sabrang Lor) |
スマランの三保洞廟資料から 陳勁文の正妻の長男であるラデン・スルヤ(Raden Surya、ヤッスンYat Sun・逸孫)は1509年に叔父の陳金山と共にスマランの造船所を訪問した。この時、マラッカ攻略のために造船量が従来の二倍になっていた。 1512年に逸孫がマラッカを攻撃したが失敗に終わった。 翌1513年に査コ旭が所有する高速船がスマランの造船所に修理に入っていたので、これを手本としてデマッ艦隊の高速化を行った。 1518年に陳勁文が亡くなり、逸孫がそのあとをついでデマッのサルタンに即位した。 1521年に逸孫は再度マラッカを攻撃したが失敗に終わり、逸孫はこの戦いの中で肺腫瘍のため病死した。子供がいなかったので、その後、弟のトゥンカロがサルタンに即位した。 逸孫についてはあまり多くの記事が見当たらなかった。 |
6. | トゥンカロ (Tung Ka Lo) |
6.1 | Babad Tanah Jawi (ジャワ年代記) トゥンカロの異母兄弟には陳勁文の二番目の妻から生まれたカンドゥルワン(Kanduruwan)と、三番目の妻から生まれたラデン・キキン(Raden Kikin)別名パンゲラン・セダ・レペン(Pangeran Seda Lepen)がいた。逸孫の死後、だれがサルタンの後継者になるかで抗争が起きた。この当時、年長の子が王権を相続することになっていた。ラデン・キキンはトゥンカロより年上であったため、より高い継承権を有していたので、父親が王権を掌握するためにトゥンカロの息子のスナン・プラワタ(Sunan Prawata・ムッミン・陳木明)がラデン・キキンを暗殺した。 |
6.2 | スマランの三保洞廟資料から 上述のように兄の逸孫が1521年に病死した後、デマッのサルタンに即位した。 トゥンカロには正妻との間にムッミン(Muk Ming・陳木明)とトアボ(Toh A Bo・杜阿波)と名付けられた二人の息子がいた。 またこの時代に香料の交易のために侵入してきたポルトガル人とマジャパヒトが秘密裏に連絡を取り合っており、これがデマッ国の商売の障害となったので1527年にトゥンカロの息子の杜阿波がマジャパヒトの王宮に攻め込み、マジャパヒト王はジャワ島東部のパスルアンなどに逃れ、マジャパヒト王国はここで滅亡した。 商業ルートの安全を確保するために大量の艦船を建造し、マルク諸島の覇権をポルトガルから奪おうとし、1546年に東に向けて出撃したが、途中でトゥンカロが死亡したため遠征は中止になった。 |
7. | スナン・プラワタ、ムッミン (Sunan Prawata, Muk Ming・陳木明) |
スマランの三保洞廟資料から ムッミン(陳木明)はトゥンカロと正妻との間の長男である。陳木明には同腹の年の離れた杜阿波という弟がいた。 陳金山が1529年に死去したあと、陳木明がスマランの領主の地位を引き継いだ。 1541年から、父のトゥンカロとともに艦隊の増設に貢献し、1546年のトゥンカロの死後、デマッ・サルタン国を引き継いだ。同年、軍隊が東方に出動している隙をついて、陳木明に暗殺されたラデン・キキンの息子のアルヤ・プナンサン・ジパン(Arya Penansang Jipang)が復讐のためにデマッを攻撃したため、大モスク以外はすべて灰燼に帰した。スマランに退却したデマッ軍に対してジパン軍は追撃の手を緩めずスマランの造船所に立てこもった陳木明以下のデマッ軍は殲滅され陳木明は戦死しスマランの町も灰燼に帰した。この時スマランでは非イスラム華人の大量虐殺が行われた。 これで1475年に建国されたデマッサルタン国は71年間の命脈を保っただけで滅亡した。 ペギン(Pengging)太守のジャヤニングラ(Jayaningrat)のお妃であるレトナ・アユ(Retna Ayu)はウィクラマワルダナ王の王女であり孫龍の腹違いの妹であった。この二人の間に生まれたクボ・クナガ(Kebo Kenanga)はマジャパヒトに忠誠を誓っており、デマッに反乱を企てているのではないかと危惧した陳勁文はスナン・クドゥスを派遣してクボ・クナガを暗殺した。この敵討ちとデマッの主権を奪取するためにクボ・クナガの息子のジョコ・ティンキル(Jaka Tingkir)、後日のサルタン・ハディウィジャヤ(Sultan Hadiwijaya)、がアルヤ・プナンサン・ジパンを打ち破り1552年にジャワでの覇権がデマッからパジャンのサルタン・ハディウィジャヤの手に移った。 |
8. | シャリフ・ヒダヤッ・ファタヒラー、ファレテハン、スナン・グヌンジャティ、トアボ(Syarif Hidayat Fatahillah, Faletehan,
Sunan Gunungjati, Toh A Bo杜阿波) 杜阿波はチレボンのサルタン代々の墓所であるGunung Jatiに葬られた。ここはチレボンには珍しく海岸に近い低い丘の続きにあたり、今ではチーク(jati)の木が生い茂る広大な墓地となっている。当時、航行のためにこの丘の上に灯台を建てたという。他は全て平地の湿地帯だった。 |
トアボ(杜阿波)は陳金山に軍事教育を受け、1526年のスンダクラパ攻略作戦と1527年のマジャパヒトの壊滅作戦の司令官となった。このスンダクラパ攻略作戦の前に杜阿波は陳金山と共にチレボンの華人ムスリム、陳英発を訪れて、マウラナ・イフディル・ハナフィの称号をデマッ・サルタンから与えられた。これはムスリム華人同士の連携を深めデマッへの協力を求めるためであった。 1526年のスンダクラパ攻撃の数日後にポルトガル艦隊の内の一隻が転覆して海岸に打ち上げら、その乗組員全員が杜阿波の軍によって殺されてしまった。このスンダクラパとポルトガル軍に対する二回の勝利を記念して杜阿波は自分をFathanと呼ぶようになり、それをポルトガル人が聞き間違えてファレテハンと記載してしまった。 杜阿波はその後ポルトガルに対する守備を固めるためにスンダクラパとバンテンのサルタンになった。 1527年に杜阿波の指揮のもとでデマッ軍がマジャパヒトの都を攻撃し、グリンドラワルマン王以下一族は都を出てイスラム化していなかったパスルアンやパナルカン地方に移動した。 上述のように、1546年に陳木明がアルヤ・プナンサン・ジパンに殺された後、ペギン国のジョコ・ティンキルがアルヤ・プナンサン・ジパンと戦ってこれを滅ぼした。ジョコ・ティンキルあらためサルタン・ハディウィジャヤがジャワの覇権を握った。サルタン・ハディウィジャヤの妻は杜阿波の姉であり、また殺されたアルヤ・プナンサン・ジパンは杜阿波のいとこであった。陳勁文の男子系子孫がデマッサルタン国のサルタンを継承するはずであったが、それもならなかった。さらに、サルタン・ハディウィジャヤはシーア派のムスリムであったために、ハナフィー派の杜阿波はハディウィジャヤへの服従をこころよしとはしなかった。 このような背景で、1552年に杜阿波はチレボンの陳英発を26年ぶりに訪ねた。バンテンのサルタンになっていた杜阿波が守備隊も連れず単身で訪れたことに陳英発は驚いた。上記の状況を見た杜阿波は世を捨てて陳英発の元で余生を静に送りたかったのであった。しかし、時代はそれを許さなかった。 明朝が海外に目を向けなくなって雲南との連絡がすでに四世代になったので、陳英発は福建人の非ムスリム華人の力が極めて強くなっていたチレボンで独自のイスラム社会を構築しようと杜阿波に持ちかけた。この計画で、チレボンにハナフィー派華人サルタン国を作ることで華人イスラム社会の発展の礎にしようとしたのであった。そのためには、人望も厚く、政治的、軍事的に優れた杜阿波にすがるしか方法がなかった。杜阿波は1552年にチレボン・サルタン国を華人イスラム社会の支援を得て建国し、初代のサルタンにおさまった。彼は直ちにセンブンのイスラム華人から構成される軍隊を編成したので、非ムスリム華人たちはこれに従わざるを得なかった。 杜阿波は1553年に陳英発の娘と結婚し、陳英発の甥の陳三才(Tan Sam Cai)がにぎにぎしく執り行った。この陳三才はイスラムの名前を持っていたにもかかわらずイスラムの礼拝は行わず常にTalang廟に詣でて線香をたいていたのみならず、ハーレムも作った。しかし、彼は財政的な能力が高くチレボン・サルタン国を短期間に自立できるまでに財政を強化したという功績があった。 Cirebon市内にあるTalang廟 杜阿波が1570年に亡くなるとその息子がサルタンに即位したがまだ若かったので、事実上陳三才がチレボン・サルタン国を仕切ったのだった。この陳三才に対抗したのがクンウーヒン(Kung Wu Hing・公??)提督の子孫のクンセンパッ(Kung Sem Pak)であった。 陳三才は1585年にハーレムで毒殺されたが、サルタンの墓守であるクンセンパッは陳三才の遺体をサルタンの墓所に埋葬することを拒否したので、その遺体は自宅の屋敷内に葬られた。 |
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スナン・グヌンジャティが活躍したのはチレボンサルタン国の発展期であり、その前からチレボンにはサルタン国が存在していてKasepuhan王宮にはその系譜が展示されていた。 |
9. | スナン・ギリ (Sunan Giri) |
9.1 | Babad Tanah Jawi (ジャワ年代記) マウラナ・ワリ・ラナン(Maulana Wali Lanang)はイスラムの布教のためにブランバガン(Blambangan)にガンペル経由で向かった。ブランバガンに到着した時、同地では伝染病が蔓延しており同地の王の姫も伝染病にかかっていた。マウラナ・ワリ・ラナンはその姫の病気を治したため、褒美として王からその姫を下賜された。しかしマウラナ・ワリ・ラナンは同地での布教に失敗してマラッカに戻った。 月が満ちてこの姫は男の子を産んだが王はそれを喜ばずその子は河口に捨て子にされたが、キ・サンボジャ(Ki Samboja)に拾われマジャパヒトに連れて行かれその後グレシクに移った。キ・サンボジャの死後彼の妻がこの子を育て上げ、スナン・ギリと呼ばれるようになった。ガンペルで彭瑞和の実子であるスナン・ボナン(Sunan Bonang)とともにイスラム教育を受けた。長じて彼ら二人はメッカ巡礼を行うためにマラッカにとどまりマウラナ・ワリ・ラナンからさらにイスラム教育を受けた。その結果、メッカにはいかずジャワに戻されてしまった。その時にスナン・ギリはセッマタ(Setmata)王、スナン・ボナンにはニャクラクスマアディ(Nyakrakusmaadi)という名を与えられた。 スナン・ギリからイスラムの知識を学んだマジャパヒトの人たちはイスラムに改宗し、スナン・ギリの下に集まった。これを見たブラウィジャヤ王はスナン・ギリが反乱を起こすのではないかと恐れ、ガジャマダ宰相に命じてスナン・ギリが隠れている場所を攻撃しようとしたが、スナン・ギリと部下たちはマジャパヒト軍と一戦を交えることを恐れておらず、結局この作戦は失敗したのだった。マジャパヒト軍との戦いの中でスナン・ギリの部隊の多くが重傷を負い、生きていたものは散り散りバラバラに逃走した。この報告を受けたスナン・ギリはペンを置きアッラーに祈った。スナン・ギリはマジャパヒト軍に向かうと、だれにも見えない亡霊のようになって暴れ、マジャパヒト軍の兵士が将校たちを刺し殺すように仕向けた。スナン・ギリの秘密兵器であるカラム・ムニェン(Kalam Munyeng・回るペン)は投げられるとクリスに代わり勝手に動いたためマジャパヒトの兵隊たちは恐怖におののき、ついには統制が取れなくなりマジャパヒトに逃げ帰った。この後スナン・ギリは亡くなり、孫のスナン・パラペン(Sunan Parapen)があとを継いだ。 ブラウィジャヤ王は反乱を鎮圧するために再度攻撃を行い、スナン・パラぺンの防衛線は突破された。復讐にはやる心に追われ、スナン・ギリの墓地を暴こうとしたが、遺体から数千匹の蜂が飛び出して空を覆いマジャパヒト軍は都まで逃げ帰った。その後ブラウィジャヤ王は二度と攻撃しようとはしなかった。 |
9.2 | Serat Kanda (物語の本) 1329年に完成したデマッの大モスクの建設にはスナン・ギリも参画した。この時スナン・ギリはヤギの川に包まれて天から落ちてきたアントラクスマという名の服をスナン・カリジャガ(Sunan Kalijaga)に授け、スナン・クドゥスは戦場で着用するためにそれを借用した。 スナン・ギリの娘はラデン・パタと結婚し、ラデン・スルヤとラデン・トレンガナの二人の息子を得た。ラデン・スルヤはレッナ・レンバ(Retna Lembah)と結婚し、ラデン・トレンガナはアルヤ・ダマルの娘と結婚した。 ラデン・パタの部下たちは日増しに増え、ついにマジャパヒトに反乱を起こした。スナンたちの中で戦いに加わったのはスナン・クドゥスだけであった。マジャパヒト軍はガジャマダ宰相とテルン(Terung)の太守、ペンギン(pengging)の太守のジャヤ・ニングラッに率いられていた。デマッ軍の司令官のラデン・イマムにスナン・ギリは「真実のクリス」をスナン・グヌン・ジャティは胸飾りを渡した。真実のクリスは抜き放つと強風と大雨、蜂をもたらし、胸飾りは多数のネズミを生み出してマジャパヒト軍の糧食を食い尽した。この恐怖はマジャパヒト軍をマジャパヒトまで押し戻したのであった。テルンの太守はイスラムに改宗していたので彼の家だけは破壊から逃れえたが、ブラウィジャヤ王はガジャマダ宰相と共に都落ちしてスングルに避難した。この戦いはサカ歴1399年、西暦1477年のことであった。その後パネンバハン・ジンブンとしてデマッの太守になったラデン・パタはブラウィジャヤ王の処分について部下たちと話し合い、ブラウィジャヤ王にイスラムへの改宗の機会を与えることになった。が、同王は改宗を拒否したためサカ歴1400年、西暦1478年にスングルが攻撃されブラウィジャヤ王は部下共にバリ島に逃げ込んだのであった。 |
9.3 | スマランの三保洞廟資料 1479年に彭瑞和の息子のスナン・ボナン(彭コ安)とスナン・ギリがスマランの造船所と三保洞廟を視察に来たと記している。これは彼らがマラッカへの往路か帰路の途中であったのであろう。 |
10. | スナン・ボナン(Sunan Bonang・彭コ安) |
父親の彭瑞和が?英裕の娘のニ・グデ・マニラ(Ni
Gede Manila)と結婚した1447年にスナン・ボナン(彭コ安)は四歳であったから、1443年生まれということになる。スナン・ボナンは華人社会ではなくジャワ人のイスラム社会で育てられたので、中国語は得意ではなかった。 彭コ安がスナン・ギリと共に1479年にマラッカへの往路か復路の途中でスマランの造船所と三保洞廟を視察した。彭コ安はスナン・ギリと同年齢であり、スナン・ギリとともに父親の彭瑞和の教育を受けた。 ジャワ年代記によると、ジャティ・スカル(Jati Sekar)の森で悪党のジョコ・サヒド(Jaka Sahid)に出会った時に、魔術を使ってジョコ・サヒドを悔悛させたとある。 |
2015-11-10 作成
2016-10-13 修正
2024-01-19 修正
2024-02-05 修正