嗚呼、インドネシア
24話 パテ・ジョノト(Pateh Honoto)

 出張先である、東ジャワ州、マラン県、スンブルプチュン郡カランカテス村(Desa Karang Kates, Kec. Sumberpucung, Kab. Malang, Jatim)の宿舎の側にガネッシャの像があるので訪ねてきました。
実はこの宿舎には約20年前に一年間住んでいたことがあり、まだ小さかった子供たちの手を引いて夫婦で訪ねたことがありました。
像 の管理人ともしばらく話をしましたが、時間が迫っていたので、次回詳しくお話を聞くことにしました。

 この像はパテ・ジョノト(Pateh Jonoto)と呼ばれていて、数十年前までは村人の信仰の対象になっていましたが、イスラム化が進むにつれ、参詣者も段々と少なくなってきているとのことでした。
 また、国や県の指定文化財にはなっていないため、補助金もでず、管理人が浄財を集めて維持管理に当たっているとのことでした。
敷地内はきれいに清掃されていて、どこに腰を下ろしてもよいくらいでした。

正面から

左前から

右前から

斜め後ろから

 石像の前にある線香たてはこの管理人が自分で作ったものであるとのことです。
 管理人の話によると、この像は墓所の上に立てたものでもなく、昔々、自分で歩いてきてこの場所に立っているとのことでした。オランダ時代とその後、博物館に二回ほど運ぼうとしましたが、作業員が犠牲になったり、輸送途中でトラックから消えて元の場所に歩いて帰ってきたと村人たちは信じており、その後は移送することがなくなったようです。
 ガネッシャはヒンドゥー教の神様ですので、ムスリムが多い政府が指定する国や県の文化財にはなかなかなりそうにありません。
 以前にはあった牙はいたずらで折られてしまい、牙を折った本人は急死してしまったとのことです。さらに、若い無鉄砲な警察官が、肝試しとして、台座の裏側に小便を掛けたところ数日後には腹部がはれ上がってそのまま死んでしまったとのことでした。それからは、観光客もこの不気味な石像には近寄らず、いまでもこうやってしっかりと立っているのだそうです。
 一般的にはガネッシャ像は座っているのですが、この石像はまれに見る立っているガネッシャ像だとのことです。

 この石像は近くにあるスタミ水力発電所の庭に鎮座している自然石と反対方向にあるカゥィ山と同じ種類の石だそうですが、鉱物学的には発電所にある石は礫岩なのに対してこの石像は砂岩のようですから、科学的におなじものではないでしょう。宿っている精霊のことを管理人は言ったのではないかと思います。
 発電所の庭にある自然石は直径約3mの球形をしていて、発破を掛けてもブルドーザーで引っ張ってもびくともしないので、不思議な石としてそのままの位置に置かれ、周りには池を巡らしてあります。

 頭蓋骨があちこちにちりばめられているところを見ると、この像はカーラチャクラ派と呼ばれるヒンドゥーと仏教の混交したものではないかと思われます。
 この石像と台座を比べてみると、台座の風化が激しいのに対して雨がかからない石像下半分には微細な彫刻が残っている。

 次回、この場所を訪ねるときに管理人にもう少し詳しい話を聞いてきましょう。 (現地踏査2006-10-18)

 と、突然その「次回」の話になります。
 年が明けて2007年1月7日にカランカテスに用事があった際に再度たちよって管理人からもう少し詳しい話を聞いてきたのと同時に、石像の向きや大きさなどを調べてきました。もちろんお線香をあげるのを忘れませんでした。

 石像の概略寸法は下の図の通り。 また図に示してあるように、この石像は北から東に40°に向いていた。


 さて、管理人であるMualimさん(72歳)はこんなことを言っていました。
Pateh Jonotoの横に立ってもらったMuliamさん。

 私の五代前の先祖がここに移ってきた約150年前にはこのあたりは原始林で、竹がそこだけ生えていない場所を見つけた。それは像の現在位置から南に数メートルの位置にあった。不思議に思って掘ってみるとこの石像の上の部分が見つかり、像を掘り出そうとしたが像の肩から胸にかけてまでしかどうしても掘り進むことができなかった。そのときは石像は現在の向きよりも数十度西に向いて立っていたという。そのときにはガネッシャの牙はちゃんとついていた。
 その直後に、その石像が礎石と共に動き出して、現在の位置で止まってそれからずーっとこのままで立っている。

 1930年代にオランダ軍が射撃の訓練で牙を折ってしまい、それからは牙のないガネッシャ像になっている。

 昔から、この村では疫病が流行ったときでも周りの村に比べて死者が出ることが少なく、それはこのガネッシャ像が守護しているからだと言い伝わっている。今でも村で結婚式があるときには必ずこのガネッシャ像に祈りをささげることになっている。つい最近も像のすぐ側にある公共事業省の官舎で行われた結婚式の際にこの風習を無視したら、新郎が家に入るときに足をくじいてものすごく腫れたとのことであった。

 オランダ時代に、博物館に収納しようとマランとスラバヤに送られたが、トラックに載せたはずの石像は到着地は二回とも消えていて、それに気づいたときには既にもとの場所に立っていたとのこと。

 この石像と「兄弟」と呼ばれている石(Watu Tempuh)が現在のスタミ(カランカテス)発電所に残っている。この石は数トンしかないのにブルドーザーで押してもびくともせず、発破をかけてもなんともなかった。この石を動かしてはならないということでダムの位置を当初計画の位置から数百メートル上流に移動されたとのことであった。

 この種の像はバリとインド、オランダ、西ジャワ州にあるがこれらは坐像であり、カランカテスのパテジョノト像だけが立像であるのが特徴だ。

 以前はただの土の上に立っていたのだが、1970年代に行われたカランカテス(現スタミ)ダムの建設工事の際に写真で見られるようにきれいに整備された。

 この石像は第29話でお話しするGunung Kawi(カウィ山)のCandi (kraton)に向いてたっている言われている。この場所からカウィ山を望むと、地理感覚からみてどうしても納得できなかったのでここで、検証してみる。こういう余計なことをしたがるのが筆者の喜びなのである。へそ曲がりと呼ばれれば呼ばれるほど本人は喜ぶというところからみて、これは「趣味」の領域であろうと考えるのが順当な線だろう。

 さて今回の調査にはカウィ山調査の時とは異なりGPSを持っていかなかったので、この石像の位置はGoogle Earthで調べた経度と緯度を用いた。

カウィ山のCandiの上のお堂は南緯08°00' 11.6"、東経112°29' 09.2"、下のお堂は南緯08°01' 28.4"、東経112°29' 31.8"、パテジョノトの像は南緯08°09' 11"、東経112°26' 37"に位置している。図示すると以下のようになる。


 今回の測量結果からみると、この像は150年前に自分で移動して来た上、向きまで変えている。確かにMualimさんが言っていたように数十度西に向けばカウィ山に向かうことになるが、下の地図を見ると分かるようにマランからパスルアンの方角に向いている。とするとこの方角で近い将来何かが起きるのかもしれない。
 現在問題なっている熱泥土噴出の問題は赤線で示した街道と鉄道に沿ったPorong町の付近で起きているので、パテジョノトが向いている方角とは約15°異なるのである。
 この方角は古い呼び方では丑寅の方角なので風水になにか関係しているのかもしれない。


 150年前に見つけたということなら、それまではこのあたりは人が近づかなかった土地であったということになる。
 確かに東のSumberpucungから続く水田がこの村の東側で終わり、そこからはカウィ山麓がブランタス河に落ち込む急斜面が連続している土地であり、灌漑農業には適していないので最後まで放置されていた場所であると考えることができる。 
 しかしながらこの地域はブリタール経由でトゥルンアグンとバニュワギを結ぶジャワ島の南岸の街道が貫通していることから、昔から人の行き来はあったと考えるのが普通であろう。現在の自動車道路は丘の南側を迂回しているが、昔の街道は、ブリタール県とマラン県の境になっている現在の橋の東端から北上していたのではないだろうか。この道を辿るとパテジョノトの前を通ることになるからだ。Mualim氏が指し示したこの付近のいくつかの石像の場所は旧街道沿いの位置にあるようであった。
 石像の下半身の彫刻はかなりきれいに残っているから、露天に長らく暴露されて表面が腐食されたものではなく、乾燥した土に埋もれていたと思われる。これだけの大型の石像を作ってお祭りしいるということは、この地点には人の往来がかなりあり、これだけの石像を作る資力があったはずである。小さな国がこの地域にあったのかもしれない。 
 パテジョノトは立ったまま数百年間土に埋もれていたということは、大きな地震がないかわりに大量の火山灰で埋もれたものであろう。詳しいことは調べていないのでわからないのだが、石像が埋もれる時にはスメルかクルドあるいはカウィ山塊で大きな火山噴火があったのかもしれない。その後、数百年は不毛の土地と化し、以前の歴史を全く知らない人たちが石像を「発見した」ということになるのかもしれない。
 ジャワにイスラムが持ち込まれたのは16世紀であるが、この地域でイスラム化が進んだのはここ数十年であるとのことだから、パテジョノトは不幸な時代に地上に顔を出してしまったといえるだろう。

 2007年1月7日に尋ねた時に、ガネッシャの牙はオランダ人に折られたとMuliamさんは話していたが、もともとガネッシャは牙が折れているのが本来の姿であるそうな。
 上に書いた話も伝承であり史実に基づいているかどうかは疑わしい。

 この石像に関して何かご存知の方がいらっしゃったら、下記へメールいただければ幸いです。
(2015-03-07記)

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2006-10-20 作成
2007-01-07 追加
2007-12-28 緯度経度の修正
2015-03-07 追加修正
 

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