嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
1. なぜ、スリヴィジャヤがパレンバンにあった、ことになっているのか
なぜこんなことになっちゃったのか
Page 69から
20世紀のはじめころから、かの有名な大学者ジョルジュ・セデス先生が打ち立てたところの揺るがしがたい「定説」で、これに異を唱えるものは「異端者」であるという。
Page 68から
インドネシア共和国にいたっては世界の通説がシュリヴィジャヤ=パレンバンだとなっていることに対して「国の誇り」と信じきっているようである。一昔前の大和民族=天孫降臨のごとき有様である。
インドネシアの小学校で使われている国定教科書には確かにスリウィジャヤはパレンバンにあったと書いてある。

しかし、インドネシアに足掛け30年実質15年間滞在した筆者(度欲)には歴史的遺構に関してこの地域ではジャワとは違った感触がある。
ジャワでは古い遺跡といえどもいまだに崇敬や信仰の対象になっていたり、瞑想などに利用されていて、国家の管理になる前から管理人がいて遺跡がしっかり管理・整備されていた。一方、スマトラ南部にあるランポン州のプグンラハルジョ(Pugungrahajo)遺跡は1954年になってはじめて開拓民によってその500年にわたる永い眠りから眼を覚まされた。この遺跡はジャワから移民した開拓民が熱帯雨林を開墾している時に発見したものだった。ということは周辺の現地人には知られていなかったことになる。
なぜ現地人には知られていなかったのだろうか。それは現在の現地人とはまったく連続性がないからである。この遺跡に住んでいた人たちはこの土地を放棄して他の土地に移動したのだろう。事実、ランポン州の人口のうちに占めるスマトラ人の割合は低く、さらには彼らの祖先はパレンバンのある南スマトラ州に住んでいるムシ族などであるとのことであった。かれらが移動してきたのもここ百年程度のことであり、このプグンラハルジョ都市遺跡の建設とは関係がないらしい。
遺跡集落の栄枯盛衰はクラカタウ火山活動とは大いに関係があるだろう。
この遺構は土塁に囲まれた集落であり、その内部には土盛りのマウンドや、ストーンサークルが見られる。さらには発掘された遺物として観音像などがある。この遺跡の紹介はこちらにある。
Page 70から
日本ではこの分野の学問では先駆者に当たる藤田豊八博士(1969[=1869の誤植だろう]から1929)が大正2年(1913年)に発表された論文『室利仏逝三仏斉旧港は何処か』(中略)冒頭にこのように述べておられる。
「室利仏逝、三仏斉、旧港は今のPalembangであるといふ。殆ど東西の学者に異論がないやうである。ここに改めて何処かなどといえば失笑する人もあるであらう。しかも予はまだ研究の余地が綽綽としてあるやうに思ふ」
藤田先生は三仏斉はジャンビであるという結論に達し、室利仏逝については賈眈の「皇華四達記」により(は)スマトラ島東南部であろうということに落ち着いてしまわれた。しかし、パレンバンではあまりに南に偏していることを指摘されている。
筆者(度欲)も上記の意見に賛成である。しかし、ジャンビには行ったことがない上にジャンビの遺跡に関する情報がないのでなんともコメントできないのが残念である。

《2013-05-16追記》
2012年2月19日にムアロジャンビを視察してきた。訪問記はこちら。
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2008-11-08 作成
2008-11-09 追加
2011-11-09 リンク追加
2013-05-16 リンク追加
2015-03-16 修正
 

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