嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
2. 古代の東西交易ルートはどうなっていたのか
古代の交易ルート
Page 72から
西暦前において、すでにペルシャやエジプトとインドとの間でしきりに海上交易が行われ、ローマ帝国にはエジプトやペルシャ経由で、インドから香料や宝石や綿織物、中国産の寄付織物などがもたらされた。(中略)メコンデルタに本拠地を置く、古代の貿易国家「扶南」の港のオケオ(現在はベトナム領)の遺跡からローマ皇帝アントニヌス・ピウス時代の(在位AD138〜61)とマルクス・アウレリウス(AD 161〜80)の像を刻印された金貨が発見されている。


在位の年代の数値が間違えている!

Page 73から
インドとローマはいかにしてつながっていたか? それは陸路と海路両方があったが、海路のほうが圧倒的に多かったと考えられる。

海路利用だと外洋船が必要になってくるが、中型船までは外洋船の造船技術と航海術はその当時にすでにあった。
Page 74から
ペルシャ、アラブ、インド、東南アジアなどと中国の貿易の多くは「朝貢」という形で漢籍に残されている。もちろん、記録に残らない貿易は膨大なものがあったに相違ないが、中国の各王朝の歴史書はその骨格部分を後世に伝えている。『漢書』(地理誌)にはすでにインド(黄支という国=カーンチープラムKahchipuram,マドラスのやや南という説あり)までの航路上の主要な国名が記されている。また注目すべきはこのときすでにマレー半島横断路と考えられる記述が見えることである。「ェ離国から十日余り徒歩で甘都慮で国へ出て、そこから船に乗り二ヶ月余りで黄支国に着く」といった記述がそれである。


なぜ途中で上陸したか。それは当時の航行動力であった「貿易風」の向きが季節によって変わるからである。この貿易風こそが中継貿易拠点を育て上げたといえる。いまでは動力船なので季節にかまわずどこへでもいけるが、つい200年前までは「風まかせ」だったのである。これは筆者(度欲)の定年後の生活を予想しているようである。

インド人の役割
Page 75から
マウリア王朝(BC317〜)以降のインドでは経済発展とともに、貿易を行う商人階級が形成され、カースト制度の最上位に位置するブラーマン階級の中からも商人のリーダーに現れたといわれる。(中略)
インド人が大挙して東南アジアに移り住むきっかけを作ったのは、マウリヤ王朝の名君アショーカ王(BC272〜232)であるとも言われている。アショーカ王はBC261年に南インドの東岸(現在のオリッサ州のあたり)のカリンガ王国を滅ぼした時、多くの支配者階級層、商人などが東南アジア各地に亡命したと言われている。その後。カリンガ地方のインド人の亡命者、植民者が後に東南アジアでは一大勢力を占めるようになった。
Page 76から
仏教徒になったアショカ王は東南アジアに亡命したカリンガの民に対しても寛大な態度で接したものと思われる。そうなると、亡命したカリンガの民はインド本国との交流・貿易にも従事することが可能になり、後々までカリンガの影響が東南アジアに深く刻み込まれることになったものと考えられる。マレー半島の羯茶(ケダ)という地名をはじめ、訶陵(カリョウ)・干打?利などもカリンガ由来の前である。


 うーん著者の鈴木さんは東南アジアの王朝の先祖はインドから来たといっているようだ。確かに、インドシナとマレーシアとインドネシア付近の王朝の名前はサンスクリット語であるし、インド人はフィージーまで移民しているから、この主張は一概に否定できない。
 一方wikipediaによれば、紀元前1000年ころからアーリア人がガンジス河流域に展開し農耕を始めたとある。ということはその地域にあったマウリア王朝はアーリア人の王朝であったのかもしれない。しかし、どこで見たかは忘れたが、チャンドラグプタは半分以上モンゴロイドであるように肖像画からみえた。アーリア人がガンジス流域に入る前は南インドのドラビダ人よりも、ネパールから南下してきたモンゴロイドのネワル人が住んでいたのではないだろうか。またオリッサ州にあったといわれるカリンガ王国の人たちもモンゴロイドだったのかもしれない。

左がチャンドラグプタ、右がアショーカ王

チャンドラグプタ王
 著者(鈴木さん)の研究対象外であるインドから東に向かうルート上の地域は地勢的には亜熱帯の多雨山岳部であり、インドからベトナム北部まで約2000kmの間は似た風景である。インドの平地から、山越え谷越えの陸路をたどって亡命した数万から数十万人の人たちが、その優れた技術と芸術性などを用いて各地で王朝を築いたとしても違和感は感じない。彼らが東南アジアに移住しても、顔つきが現地人と似ているのでそれほど違和感はなかったのかもしれない。各王朝の築いた寺院の彫刻を見ると、顔つきや体つきはコーカソイドのアーリア人ではなくモンゴロイドであることからそう思うのである。上の写真はウエブサイトから入手したもの。ちょっと「イケメン」のモンゴロイドとしか思えない。
 著者はマレーシアのケダを「羯茶」、別項目ではインドネシアのパレンバンを「旧港」と表記されているが、一般的にはそれぞれ「羯荼」と「巨港」と表記している。これは誤植ではないかと疑ったが、全文この表記で通しているので、失礼とは思いながらも、著者に尋ねたところ、古代には「茶」と「荼」の文字は区別されておらず、考古学の本にはこう記されているので「その筋」の表記に従ったとの回答を得ました。ちなみにウエブサイトで探してみると、小生の記憶の表記の方が圧倒的に多かったのである。でも「羯荼」と「巨港」は現代表記であるから、古代にはどう書かれていたかは研究の結果に従わざるを得ないが、なんとなく承服しかねる。「茶」と「荼」は似ているから書写時の間違いがあるだろうが、「旧」は「巨」に似ているから書写時の間違いかと思ったが、「旧」の旧漢字は「舊」であり、巨とは似ても似つかない。シンガポールを星港と書く感覚からすると、パレンバンを「巨港」というからには「巨」の発音に意味があったのかもしれない。パレンバンは河口からかなり入った地点なので、巨大な港があったとは思えないのである。

Page 78から
インドの文化的影響を無視しては現在の東南アジアを語ることはできない。ラーマヤナ物語を題材にした古典舞踊は多くの国で演じられているが、これもその実例である。


 しかし、東南アジア全域かというと、そうでもないのである。この文章を書いているベトナムは、京族が人口のほぼすべてを占めている。彼らに自由に踊らさせると、インドシナ独特のくにゃくにゃした体の動かし方になっている。骨格と筋肉がそのように付いているからなのだろう。しかし、文化的には中華文明に支配されている。名前も韓国と同様、中国式である。ベトナムは東南アジアの「ママっ子」といえるだろう。
Page 78から
古代においてインド商人は交易先を東南アジアから先の中国まで足を伸ばし、豊かな文化的な先進国であった中国との交易に大きな利益を見出したことはいうまでもない。(中略) しかし、インドと中国のと間にはマレー半島という大きな「障害物」が横たわっていたのである。夏季の季節風に乗って南インド・セイロン方面からベンガル湾を横断し、マレー半島北部に到達しても、そこからマラッカ海峡を南下していくには逆風になるという障害と海賊の襲撃というリスクがあった。それを避けるためにマレー半島横断通商路が開発されたが、それがインド人のマレー半島全体に浸透する原因にもなったのである。


 動力船が開発されるまでは、風を見て出港日を決めることが船頭の大きな技量とされていた。15世紀ころには風上に向かって斜めに進んでいける儀装と操船術が開発されたが、波やうねりを船腹に受けるため揺れがひどく、積荷が崩れることが大いにあったろうから一般商船にとってはこの方法はとれなかったようである。現在でも小型船舶の場合には波を横に受けながら航行することは転覆のおそれがあるためやらないようである。

 海賊というとやはり八世紀にあった「崑崙闍婆の賊」の一味だったのだろうか。いまでもこの海賊はマラッカ海峡に頻々と登場している。スマトラのメダンで網元をしていた友人の話では、乗組員の金品だけではなく船体も拿捕してしまい、恐喝してくるのだそうな。昔も今もあまり変わらない。

 もしスリウィジャヤがパレンバンにあったのなら、自分の交易ルーを守るために、その眼と鼻の先にあるリアウ諸島の海賊たちを平定しなくてはならない。ということは他の国の舟でも安全な航海ができたはずである。にもかかわらず、海賊が頻々と出没したということは治安が不安定であったということを暗示している。すなわちパレンバンにはスリウィジャヤの都はなかったともいえるだろう。

 パレンバン付近の現地人は華人に似ているが、リアウの人たちはもっと華人に似ていることから、今ではほぼ全員がムスリムであるリアウ諸島の人たちは自分たちのことを華僑の末裔と呼んでいる。リアウ州のイスラムの歴史を調べないとなんともいえないが、ひょっとすると、彼らは先にイスラム化したチャム族の末裔なのかもしれない。
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2008-11-08 作成
2008-11-25 追加
2009-09-26 追加
2015-03-16 修正
 

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