嗚呼、インドネシア
32話 トロウラン遺跡
遺跡めぐり その10


3.10 チャンパ姫墓地 Makam Putri Campa S7 33'20.5" E112 23'05.7"
 この墓地はスガラン池からそう遠くない場所にあり、地域住民が祀っているこの墓は縁日、特に金曜日のレギの前の晩、にはトゥロウラン以外からも沢山の参詣者がある。
 サカ暦1203は菩提樹を植えた事件があった。

円柱の手前に見える穴がこの菩提樹が植わっていた場所である。この菩提樹は数十年前に枯れてしまった。
 遺跡の説明書にはこの事件が何であったかかかれていなかった。 一般的に言うと「菩提樹を植える」ということは何かの悲劇が起こったことを意味している。
ウエブサイトで探索した結果、この年にベトナムにあったチャンパ王国が蒙古の軍隊に占領されたことがわかった。チャンパとジャワは別なページに記したように海のシルクロードで深いつながりがあった。それゆえこの元寇で大量のチャンパ人がジャワに避難民として流れ込んだのだろうと思われる。避難民のほとんどは王朝の貴族たちとその従者たちであり、その中には技術者も含まれていたはずである。この技術者たちが祖国チャンパの建築様式とジャワ固有の建築様式を混ぜて、トロウランのチャンディなどを建設したと思われる。

 チャンパの姫の名は民間伝承に現れる名前であり、ジャワ古代数字で書かれたサカ暦1370年(1443)の数字が入った墓石は遺跡の価値の対象となっている。墓標は主墓と第二庭の二箇所に分かれ、主墓のものは高62cm、幅32cm,厚13cmであり、もうひとつは高32cm、幅22cm、厚11cmである。この墓所はおしむらくはイスラムに改宗したマジャパヒト王家の一族のものと思われる。

墓所の入り口の門。ジャワ風ではなく、アラブ風でも中国風でもない独特のスタイルである。

入り口の門から入ったところにある内門。

チャンパ姫墓所からみた最も奥の門。

手前がウィジャヤIIIのお妃、奥がチャンパ姫の墓

同じ墓所を反対側からみたところ

チャンパ姫についてきたという従者の墓

この墓所の管理人。写真はお断りといったが隙を見てパチリ
左の写真の女性は、代々この墓所を守っている人の奥さんである。
どういうわけか、旦那さんではなくてこの夫人が墓所を守る運命にあるとご本人が言っていた。
ごらんのように「鄙にはまれなる」容貌を備えているので、チャンパ人の末裔ではなかろうか。
 
 このときもいつものとおり、墓所で故チャンパ姫に話しかけたところ、彼女はベトナムの生まれではなくジャワで生まれたといっていた。管理人さんの話では故人はベトナム生まれだとのことだった。まぶたに現れたチャンパ姫の面影は気品を備えたかなり高齢の女性であった。
 最初に故人とコンタクトを取ろうとしたときに現れたのは、おかしなことに隣に埋葬されているウイジャヤ三世のお妃であった。この方は40代と思われるふっくらした色白の美人で、「チャンパ姫に話しかけるなら反対側に回りなさい」というメッセージが届いた。そういえばこのお妃のお墓を飛び越してチャンパ姫に話しかけていたのであった。
 写真を見てわかるように、この墓地は全てイスラム式で埋葬されていて墓標にはジャワ文字で何かが記されている。マジャパヒトといえばヒンドゥー教と深い関係があるが、その初期からイスラムが伝播していたことがこの墓地から見て取れる。ジャワでのイスラム布教に力を貸したのは皮肉にも蒙古人であったのである。 

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2007-05-19 作成
2015-07-10 修正
2016-08-23 更新

2016-09-09 修正


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