嗚呼、インドネシア
35話 チャンパとマジャパヒト Champa and Majapahit 
 このサイトの別ページにインドシナにおけるインドネシア語族の分布について書いたことがある。

 2007年6月末から一ヶ月間ベトナムに行く機会があり、上記のページにあるようにベトナムにインドネシア語族に属する言語を話す人たちがいることを思い出した。上記の地図をよくよく見ると、この言語はサイゴン市北東の海岸とカンボジアカンポンチャム(Kamoung Cham)のチャム(Cham)語、ベトナムの山岳部のラグライ語であった。なお、ラグライ族は山岳チャム族とも呼ばれている。
 この地図は1956年のものであり今までの約60年間のベトナム戦争やカンボジアの内戦などで分布が大きく異なっているだろうことは想像ができる。
 興味を引いたベトナムの遺跡をウエブサイトで見ていたところ、ダナン市郊外にあるMyson(ミーソン)の遺跡とモジョクルト市西郊のトゥロウランにあるマジャパヒト王朝の遺跡の構造物が似ているのに驚いた。建設された時代は数百年から千年異なるがその形式は下の写真に示すように似ている。特に建築材料が低温焼結レンガであるところに大きな特徴がある。

Shrine(寺院)
Myson B5 Vietnam

Myson
Vietnam

 このミーソン遺跡は四世紀から建設が始まり、途中何回も破壊と再建を繰り返し13世紀に最後の修復が行われた後、チャンパ王国が滅亡したこととチャンパ人たちがイスラム化したために20世紀初頭まで放置されたいた。ベトナム戦争の時にはベトナム軍がこの遺跡に隠れていたため米国の爆撃も受け、現在の姿になっているものである。
(上記My Sonの写真は2007-08-14撮影・磯部沙耶氏提供)

以下はマジャパヒト遺跡の復元構造物である。詳しいことはこちらをごらんください。

Wringin Lawang,  East Java - Indonesia

Candi Brahu, East Java - Indonesia
 さて、この二つの遺跡の写真を見て、同一部族による地理的にもそれほど離れていない建築物であろうと思われる方が多いであろう。そう、筆者も同感である。
 ところが、お互いに直線で2000kmも離れた所にある。そう。ジャワ島といってもチャンパ寺院建築の影響が極めて強いのである。ただ、ミーソン遺跡の建築物がアールデコ調であるのに対して、トゥロウラン遺跡のものはアールヌーボー調に見える。

 他の土地ではなく、なぜジャワにチャンパ風な建物があるのだろうか。それは紀元前後頃からの東南アジアの歴史をひもといていかなくてはならないのである。まずは下の東南アジアの地図を見てください。
マレー半島横断陸路は鈴木峻氏著「シュリヴィジャヤの謎」による。
 知己の帆船専門家によると、古代の帆船の巡航速度は好条件下で5ノット、すなわち時速9.2kmである。船は24時間進むから、一日の航続距離は220kmとなる。上の地図上の距離から計算するとTuban - Hoi anが約4000kmであるから、単純計算では4000/220 = 18日となる。しかしながら積荷の入れ替え、風待ち、補給などを入れると約一ヶ月の航海になると思われる。
 なお、この計算ではOc-eo(オケオ)からファンティエットまではメコンデルタの内陸水路を利用するものとしている。千年前にはメコンデルタはもっと小さかったであろうからである。上記Oc-eoはN10 14'54", E105 08'54に位置する標高約140mの低い山であるが、平坦なメコン河口では格好の目印になったろう。

 中国では長い混乱の後、隋が589年に中国を統一し、さらには619年には唐がその地域を引き継いだ。この平和な超大国は海外貿易を振興したため、マラッカ海峡を通る交易ルートが活発化した。その証拠として南スマトラ〜西ジャワあったといわれる「赤土(せきど)」国が607〜610年に遣隋使を送り、「摩羅游(まらゆう) 」国が644年に遣唐使を送ったことがわかっている。
 その直後に、672年にインドに向かう途中スマトラ島のパレンバンを義浄(ぎじょう)が訪れた時には「室利仏誓=シュリーヴィジャヤ」と呼ばれる国が栄えていた。

 平和な公益国家であったシュリーヴィジャヤや東南アジア諸国の脅威になったのは、崑崙闍婆(こんろんじゃば)の賊と呼ばれたシャイレンドラ王国だった。シャイレンドラの軍隊がカンボジアとベトナムにあった王国に侵入し、さんざん悪さを働いた。「インドネシア歴史探訪」にはこう記されている。
 ジャワ島中部に強大な統一勢力として突如出現、周辺各国へ侵攻を開始する。
767  「崑崙闍婆の賊」がベトナム北部に侵入、放火・掠奪を働く。
774  「死の如く恐ろしく、悪性で船に乗ってきた人々」がチャンパーを襲撃、シヴァ神殿を掠奪。
787  ジャワ軍がチャンパーを襲う。
同じ頃  ジャワ軍はカンボジア(水真臘)の都をも攻撃、クメール人の王を殺害。

さらにシャイレンドラに関して「フロリアンチッチ」の中部ジャワのページによると、ソジョムルトで発見された7世紀初頭とされる碑文には古代マレー語で「セレーンドラ」王という記述があり、これが8世紀の中部ジャワで有力となるシャイレンドラの始祖にあたると考えられている。このSailendraがSaila(=山)とIndra(=王)の意味を持つため「山から来た王」となり、扶南がカンボジア語のPhnom(=山)であることから、シャイレンドラは扶南の継承国ではないかとする説もある。さらに中国史料にある「訶陵」という国はシャイレンドラの音写であるとされ、640年から666年と、766年から873年まで唐に朝貢していたされる。このシャイレンドラの朝貢が途絶えていた間の732年のものとされるジャワ島最古の碑文には、ヒンドゥー教を信奉するマタラム王朝のサンジャヤ王が中部ジャワを支配していたことが記されている。

 それまで世界史には登場しなかったジャワが歴史の舞台に突然台頭したのはなぜであろうか?ジャワ島では長期間に亘り火山の噴火がなかったのであろうか?あるいはジャワ島とスマトラ島の間にあるクラカタウ島が噴火したからなのであろうか?Wikipediaによるとクラカタウは535年に大噴火したという説があるとのことである。ということはシャイレンドラの勃興と火山噴火は関係が無さそうだ。
 「カンボジアの歴史wikipedia」によると6世紀に勃興した北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)は扶南の属国であったが、7世紀には扶南を滅ぼし、ジャヤーヴァルマン1世(657年 - 681年)の治世の頃に最大となった。
 ということはジャワに逃げ込んだ扶南の王族が失地回復のために勢力を蓄えシャイレンドラ王国を作りカンボジアとチャンパに報復戦争をしかけた可能性が出てくる。ジャワ島では13世紀まではヒンドゥー教徒の王朝が続いたが、シャイレンドラ王国だけが仏教徒であったのが不思議である。すなわち「フローリアンチッチ」にあるように、カンボジアかベトナムにいた部族がジャワを支配していたという可能性が高い。

 スリウィジヤヤはスマトラのパレンバンに貿易港でもある王都があった。現在の河口からパレンバンの町までは約80kmの距離があるが、この当時は今より数メートル海面が高かったのでこの町は河口付近にあったものと思われる。ではなぜパレンバンが交易地として栄えはじめたのであろうか?それは交通の要衝の位置にあったこととパレンバンを流れる大河、ムシ河の水運を使って運ばれてくるスマトラ山中で算出される砂金が有名だったせいなのではないだろうか。
スリウィジャヤ王国パレンバン説に批判を加えたものが別ページにある。

 時代は下り、13世紀になると中国では元朝が成立し、元寇で有名な海外侵略が盛んになった。日本に来襲したのは文永の役(1274年)、二度目を弘安の役(1281年)であった。ベトナム方面への進出は1281年から始まり、同年から1289年=Saka 1203〜1210まで元朝の支配が続いた。蒙古軍を追い払ったのはチャンパのヴィジャヤ王朝であった。元朝の侵略でチャンパ国が一時的に断絶した。これがTrowulanに残されたSaka1203年の悲劇の記念の菩提樹植樹と関連しているのではないだろうか。
 その後ジャワでは1292年に元朝軍を策略にかけて追い払った宰相ガジャマダがマジャパヒト王国を作り上げたのだった。マジャパヒト王都の建設にはチャンパからの大量の避難民が協力したに違いない。

 というわけで、海を隔てたベトナムにあったチャンパ王国とマジャパヒト王国とは深くて長いつながりがあり、マジャパヒトの遺跡にはチャンパの建築技術が多用されていることがわかったのである。

Baked-earth Kala
at Myson, Vietnam
Kala at Gapura Bajang Ratu
East Java, Indonesia
 下の写真はベトナムのホイアンにある有名な「日本橋」の橋詰の建物である。屋根かわらの装飾が中部ジャワのジェパラ地方の屋根飾りと似通っている。ジャパラはいまでこそチーク材家具の有名な産地であるが、数百年前までは有数の貿易港であり、交易民であるマカッサル人の植民地でもあった。ということは当然のこととしておなじ交易の民であったチャンパ人がジェパラには住み着いていたことだろう。
 さらに、13世紀に入るとチャンパ国はイスラム化が進んだため、ミーソンなどのヒンドゥー・仏教の施設は徐々に見捨てられていった。ジャワも同時期に海岸諸都市から徐々にイスラム化が始まっていったということであり、イスラム化もチャンパ人たちの影響が強いのではないかと思われる。
 チャンパとインドネシア、マレーシアは昔から良きにつけ悪しきにつけ関係が深いのである。

参考文献
My Son Relics by Ngo Van Doanh
「風景のない国」・チャンパ王国
文中に引用したウエブサイト

2008年10月に鈴木峻著「シュリヴィジャヤの謎」という本を購入した。著者はスリウィジャヤ王国の都はスマトラのパレンバンではなく、マレー半島のケダ(Kedah)ではあろうと述べている。

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2007-09-01 作成
2008-11-17 追加修正
2009-10-06 追加修正
2010-06-05 地図を変更
2015-03-xx 修正
2016-08-24 追加修正
2017-03-01 リンク修正
 

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