嗚呼、インドネシア
第32話トロウラン遺跡
第1節 マジャパヒト王国

序文

 約200年にわたり栄えたマジャパヒト王朝は各種の考古学的遺物を残している。これらの工芸品は、そのモニュメントであるチャンディや池・沐浴場などの水を使った施設、門などの一体になっているものと、神像、浮き彫り、素焼き製品、陶器、建物の一部など元あった場所から切り離されたものから成り立っている。
 マジャパヒト王朝と関連する考古学的地域はこの地域はモジョクルト県トゥロウラン郡とソオコ(Sooko)郡にまたがったTrowulan (トゥロウラン)に存在し、その広さは10 x 11 kmに達する。
2007年1月31日午前10時頃、トラワス大仏を出発してMojokertoのTrowulang遺跡博物館に向かった。

 遺跡博物館の入り口は南緯7度33分35秒、東経112度22分54秒、標高44m。

 遺跡博物館に着いたのは11時頃であった。内部を見学しようとすると博物館の Puspita Agustinaというガイドさんが案内してくれた。
 彼女はクリスチャンだが、輪廻転生を受け入れていて、友人にも数人同好の士がいるようであった。その一人が数日前に「もうじき日本人が博物館に来るから案内しなさい」と彼女に言ったが彼女は半信半疑であった。
 ところが突然降って湧いたように日本人である筆者が訪問したものだから、その言葉に驚き遠いカリマンタンにいるその友人に電話をかけたほどであった。

 Trowulanには遺跡博物館がある。八十万点の収集物があるが展示場がせまいため部分的にしか展示されていない。吹き抜けの展示場には東ジャワ州各地から収集した神像がたくさん展示されている。これらの神像は元の場所に安置しておくのが現状維持として最適なのだが、周辺のイスラム系住民による破壊が進むので博物館に収納している。

博物館の連絡先は
Musium Archaelogi Trowulan
Jl. Mojapahit No. 141-143, Trowulan, Mojokerto
Tel/fax 0321-495515
 この博物館には第23話でお話したパテジョノトの写真もあったが、寸法や位置が記載されていなかったので、訪問の翌日データを郵送しておいた。役立てばいいのだが。

 これ以降は2007年5月17 & 18日にこの遺跡群を再訪した時の記録も合わせて提示する。
下記のパンフレットを丸のまま訳したら読みにくくなったので、再構成したしたものである。ご希望により以下のページへジャンプされたい。
1.1 マジャパヒト王朝史
 古代の東ジャワの歴史は三つの期間に分けられる。第一期はクディリ(Kediri)王朝であり、10世紀から1222年までである。第二期はシンガサリ王朝に引き継がれ、1222年から1293年までである。第三期はマジャパヒト王朝による支配の時代であり1293年から16世紀までつづいた。
 マジャパヒト王朝の創始者はウィジャヤ王でありクルタラジャサ・ジャワワルダッナ(Kertarajasa Jayawarddana)として初代の王位についた。当初の都はマジャの木がたくさん生えていた地域のトリック(Trik)にあったがゆえにマジャパヒトと呼ばれるようになった。ウィジャヤ王はカラグモト(Kalagemet)を子供にもった。学者によればカラグモトはウィジャヤ王とジャワのスマトラ遠征の際に同行したメラユの女性との間に生まれた息子である。とある碑文ではカラグモトの母はウィジャヤ王の第一王妃と言われている。ウィジャヤ王はその王国を1293年から1309年まで統治した。
 カラグモトは比較的若いときに王位を譲られ、ジャヤネガラ(Jayanegara)王と称した。1309年から1328年までのジャヤネガラ王の統治下では、父王に従ってジャヤカトワン(Jayakatwang)の反乱を鎮圧した人たちや父王とともにマジャパヒト王朝の成立に尽力した人たちをジャヤネガラ王が軽視したことから、彼らの不満がつのり、反乱や暴動が相次いだ。遂には同王は1328年にタンチャ(Tanca)という名前の王族の医師に殺されてしまった。
 ジャヤネガラ王の死後、治安維持のために、シンガサリのクルタネガラ王の王女であるパトゥニ王がウィジャヤ王の妃、ジャヤネガラ王の継母となった。宰相ガジャマダ(Gajah Mada)とともに、パトゥニはマジャパヒト王国の権威を取り戻すことに成功した。パトゥニ王が退位し僧籍にはいった後、依然として政治はパトゥニ王の支配下にはあったものの、王位はその王女であるトリブアナ・ウィジャヨトゥンゴ・デウィ(Tribhuana Wijayotunggo Dewi)あるいはブレカフリパン(Bhrekahuripan)に継承された。
 宰相ガジャマダの援助を得たトリブアナ(Tribhuana)は、その統治の間にマジャパヒトをインドネシアの列島のみならず外国にまで知られるような大国に育て上げた。トリブアナの治世は同王が没した1350年に幕を閉じ、その後は王子であるハヤムウルク(Hayamwuruk)が王座についた。
 マジャパヒトは、ガジャマダが没した1365年までハヤムウルクの治世で黄金期に達した。ハヤムウルクが没した1389年以降は兄弟の間の紛争で王国は揺れてしまった。
 ハヤムウルクに交代したのは、ウィクラマワルダッナ(Wikramawarddana)と結婚したクスマワルダッニの娘であった。一方、ハヤムウルクの妾腹の子であるウィラブミ(Wirabhumi)は王位継承を強く要求した。この問題を解決するためにマジャパヒトはその王国を二つに分割し、東半分をウィクラマワルダッナに、西半分をクスマワルダッニとウィクラマワルダッナの統治地域とした。その後もこの両王国間における軋轢は続き、パラグレグ(Paragreg)の悲劇という名で知られている兄弟戦争が、1403年から1406年まで継続した。最終的にはウィクラマワルダッナ派が勝利し、ウィラブミは一旦は捕まったものの逃走した。その後、王国はウィクラマワルダッナによって再統一がなされ、ウィクラマワルダッナは1429年まで王国を統治した。
 ウィクラマワルダッナはスヒタ(Suhita)王女に王位を継承し、同王は1429年から1447年まで統治させた。スヒタは妾腹の第二子であった。スヒタの母親は多分ウィラブミの王女であったと思われる。 スヒタの王位継承で将来発生する問題の芽を事前に摘んでしまうことを希望していたようである。スヒタ王が1447年に没したあとクルタウィジャヤ(Kertawijaya)が王位を継承した。クルタジャヤウィジャヤもウィクラマワルダッナの王子であるとともにスヒタ王の腹違いの兄弟であり、王位は1451年までと短命であった。
 クルタジャヤウィジャヤ王の後はブレパモタン(Bhre Pamotan)がスリ・ラジャ・サワルダッナ(Sri Raja Sawarddana)として王位を継承し、カフリパン(Kahuripan)に王都を定めた。同王の統治は1453年に没するまでの短期間であった。同王の没後の三年間マジャパヒトは空位期間となった。歴代のマジャパヒト王族間の対立の影響によってその統治力は王都のみならず地方でも弱まった。
 1456年になって、ブレウァンクル(Bhre Wengker)がマジャパヒトの統治を始めることになった。同王はクルタウィジャヤ王の息子であったが、1466年に没し、ブレ・シンハウィクラマワルダッナ(Singhawikramawarddana)として即位したブレパンダンサラス(Bhre Pandan Salas)が継承した。1468年になってクルタブミがマジャパヒト王の権利を主張した。クルタブミはトゥマペルを支配していたが、シンハウィクラマワルダッナはダハ(Daha=クディリ地方の地名)へ退いたにもかかわらず直接統治を続けた。
 シンハウィクラマワルダッナはラナ・ウィジャヤ(Rana Wijaya)王子があり、この王子がダハで行っていた父王に代わり1447年から1519年まで統治した。1478年に同王子はクルタブミ(Kertabumi)への報復戦争に勝利し、兄弟戦争でばらばらになっていたマジャパヒト王国を再統一した。ラナ・ウィジャヤはグリンドラワルダッナとして即位した。
 それにもかかわらず、マジャパヒトの権威を脅かしていたジャワ島北岸地域の発展により内部から崩壊していたマジャパヒトはついには存続を続けることができなくなってしまった。
 マジャパヒト王国の芽生えから栄華を極めるまでの詳しい解説は Slamet Muljana博士が著書"Menuju ke puncak Kemegahan"「栄光の頂点をめざして」で述べている。この本の和訳をお読みになりたければこちらのページへどうぞ。
1.2 マジャパヒト時代の経済
 農業がマジャパヒト王国の収入源のひとつであった。それゆえ、王国は農業に多大な注意を払っていた。マジャパヒト自体に建設された二つの構造物、すなわちジウ(Jiu)とトゥライロヤプリ(Trailoyapuri)ダムである。ジウダムはkalamasaの天水田であった地域に灌漑を行い、トゥライロヤプリダムは下流域(Prasasti Jiu)に灌漑を行っていた。
サルトノ・カルトディルジョ氏によれば、マジャパヒト王国は、マジャパヒトの社会経済は農業に依存しているだけではなく特にジャワ島北海岸にの諸都市における商業にも依存している半商業的農業国であったとのことである。マジャパヒト内で重要ないくつかの港湾都市とはチャング(Canggu)、グレシック(Gresik)、シダユ(Sidhayu)、トゥバン(Tuban)、スラバヤ(Surabaya)、パスルアン(Pasuruan)であった。これらの港湾都市にはアラブ、ペルシャ、グジャラート(インドの古名)、中国、マラッカとも双方向の通商があった都市があった。
 マジャパヒト時代に通用した通貨は何種類かあり、それらはウアン・ゴボク(Uang Gobog)、ウアン・クペン(Uang Kepeng=中国通貨)、ウアン・マ(Uang Ma)がある。マジャパヒト時代の貿易品目は、三種類に分けられる。ひとつは日常生活物資、二つ目は工業分野での製品、三つ目は島嶼産品であった。商業はマジャパヒトでは極めて重要な経済活動のひとつを構成していた。余剰農産物は生活物資としての交易物となっていた。

1.3 マジャパヒト時代の芸術
 マジャパヒト時代にはカカウィンと呼ばれる詩による文学が盛んであり、ムプ・プラパンチャ(Mpu Prapanca)作の「ヌガラクルタガマ(Negarakertagama)」、ムプ・タントゥラール(Mpu Tantular)作の「アルジュナウィジャヤとダルマカタナ (Kunjarakarna dan Dharmakatana) 」、ムプ・タナクン(Mpu Tanakung)、クンジャラカルナ(Kunjarakarna)共著の「ルブダーカ(Lubdhaka)」「ウルッタサンチャヤ(Wrttasancaya)」「バハナ・スカール(Bahana Sekar)」、ムプ・ドゥスン(Mpu Dusun)作の「ダルマカタナ(Dharmakatana)」などがある。その他には歌のような新しい文学が登場した。この歌には、「ウィジャヤカルマ歌(Kidung Wijayakrama)」「ハルシャウィジャヤ歌(Kidung Harsyawijaya)」「ソランダカ歌( Kidung Sorandaka)」などがある。
文学以外では、当時の家屋は外見がよいためにヌガラクルタガマのププ(pupuh)9にあるように建築美術が栄えた。ヌガラクルタガマのププ9には家屋の美しさに関してこんな詩がある。

    全ての家は柱が強く
    美しい彫刻が施され、美しく塗装されている。
    ………………
    屋根瓦は輝き
    ことごとく目にしみいる
    心が惹かれる。

 マジャパヒト王国の遺跡であると信じられているトゥロウランでは、素焼きでできた異物が発見されている。遺物には人の像、動物の像、建物のミニアチュール、レンガ、井戸枠、土管、瓦、棟瓦、柱頭の覆い、花瓶、kemuncuk, 器、神像の鋳型、水がめなどさまざまなものがある。

1.4 マジャパヒト時代の宗教
 「多様性の中の統一(Bhineka Tunggal Ika)」という標語はタントラール作の「スタソマ(Sutasoma)」というマジャパヒト時代の本から採用したものである。この標語の元々は「BHlNEKA TUNGGAL IKA TAN HANA DHARMA MANGRWA」であり、「外見は異なれど同一。両面をもつ真実は存在しない」という意味である。
 この文章は当時の宗教による生活規範を示したものである。というのは当時はヒンドゥー教にしろ仏教にしろ共存していたからである。この記載は宗教上の指導者が、仏教もヒンドゥーも公平に扱われていたことを証明するものである。イスラム教は既にマジャパヒトの黄金時代に存在していた。モジョクルト県トゥロウラン郡セントノレジョ村のトゥロロヨ(Troloyo)墓地にある墓石の先端は丸く、ハスとマジャパヒトの象徴の太陽模様で飾られていて、古代ジャワ文字の年号が入っているのみならず、他の表面にはアラビア語の数字が記されている。この墓石はマジャパヒト時代にはすでにイスラム教がはいっていた証拠である。
1.5 . マジャパヒト時代の法規
 庶民の生活をコントロールするために、マジャパヒト王国は、宗教と呼ばれる法規書にまとめられた法律をもっていた。この法規書には刑法と民法も含まれていた。
この書類において国民各人に有効な法規は宗教第六項にみられる。王の奴隷(高級官僚)といえども、一回でも虚言を吐いたり暴力行為をおこなうなど,秩序を乱したものは死刑に処す。
これ以外にもマジャパヒト法典259と261項にはこうある。水田を放置したり、施設や家畜の世話を怠った場合は罰金の対象とするか、窃盗犯として死刑とする。
これは農業の振興や家畜の飼育は大衆と国家の経済に大きな影響をもたらすということを知っていたハヤムウルク王に影響されているのである。農業と牧畜業以外にはマジャパヒト王国の収入は有形の王への税金と任意の貢物であり、義務的な納税と貢物の量は王への忠誠を示す無形のしるしとなった。
1.6 マジャパヒト時代の政治制度
 大国として、マジャパヒト王国は独自に正規の政府軍を保有していた。王は行政官として多数の官吏を抱えていた。マジャパヒト王国政府のヒエラルキーはつぎのとおりであった。
  1. 王 (Raja) 王国を指導する最高権力を持つ者
  2. ユワラジャ/クマララジャ (Yuwaraja/Kumararaja) 王子と王女
  3. ラキャン・マハマントリ・カトリニ(Rakyan Mahamantri Katrini) 王国の政治を行う官吏
  4. ラキャン・マハマントリ・リ・パキランキラン(Rakyan Mahamantri ri Pakiran-kiran) 官吏
  5. ダルマヒャクサ(Dharmadhyaksa) 宗教分野の議長
  6. ダルモパパティ(Dharmopapati) 寺院の維持管理や祭祀の実施、霊魂に関する宗教担当者

インドネシアの高名な歴史学者Slamet Muljana教授の著書 Menuju Puncak Kemegahan「マジャパヒト王国史」の和訳はこちらに。

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2007-05-19 作成
2015-03-06 修正
2015-03-09 追加
2016-08-26 修正
 

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