慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第25話 スパイス小史
 スパイス(香料)とは芳香をもつ木の実、葉の総称で、古代より医薬、葬祭、祈祷占術、消臭防腐、焚香、調味料として珍重された。
東洋(支那)では料物と称し、ハジカミ、サンショウ、ミョウガ、ニッケイ、カラシ、ニラ、ニンニク、シソ、コエンドロ、西洋では月桂、ア−モンド、サフラン、ハ−ブ、フェンネル、パプリカ、コリアンダ−などが用いられ、それにシナモン(肉桂)、クロ−ブ(丁字)、ナツメグ(肉蒄)、メイズ(豆蒄花)、カルダモン(小豆蒄)、ジンジャ(生姜)、ペッパ−(胡椒)が加わる。
 これら香辛料の多くは南アジアの原産で、7〜10世紀の唐、宋時代にコンパスの発明、緯度計算式の確立など渡洋航海の技術革新で、南海交易が可能になるに及んで、珊瑚、真珠貝、べっこう、極楽鳥、海鼠(なまこ)、黒檀、白檀(サンダルウッド)、チ−ク材などとともに重要な商品となっていった。
 ベトナム、カンボジアから、南支那海を横切りボルネオ北部のサバ・サラワクより南下して、セレベス東岸からスパイスアイランドのバンダ海に至る沿岸各地から発掘される夥しい陶磁器、銅鐸、鉄器類は、数世紀に亘った南海貿易の証しである。
 当時南方産香料は香瓜 Tkeng-hisとよばれ、この語が現在インドネシア語でのCengkehの語源だとも、漢朝(AD618〜906)には、現在のマルク諸島を指してMILIKU(幸運、財産)と呼んでいたのがそのまま地名になった説もある程関係が深かった。

 一方、アレキサンダー大王の東征(BC300)で、東洋(インド)が初めて西洋の知るところとなり、その後のロ−マ帝国の繁栄(パクスロマーナAD10)は、嗜奢品の需要を飛躍的に増加させ、アラビア(アダナ後にコンスタンチノープル)中継で扱われる南海産品(棉布、絹織物、胡椒、象牙)は、ヒッパロスの風(貿易風)の発見で東西貿易の黎明となった。
 13世紀になって、元はフビライハンの膨張政治で、内陸の4ハン王国の統合などにより、シルクロ−ドの安全通行が可能となり一層需要を喚起し、供給も活発となり、希少価値と絶対需要に支えられ、スパイスは名だたる商人達(シナ、インド、アラブ、ペルシャ)の手を経て西洋に到着する時には、金と同価の価格となった。
 しかしスパイス、とくに最高のクロ−ブ、ナツメグの生産地は謎に包まれ、幾世紀もの長い間容易にその姿を表さなかった。
 スパイスナッツはかの船乗りシンドバッド(Sindbad of sailor AD1001)にも、マルコポ−ロの東方見聞録(AD1271〜1293)にも書かれている程貴重な幻の木の実であったのだ。
 その時代には大帆船、昆論船(ジャワ、ボロブド−ル石版に唯一実証されている)は、今のアセアン地域を縦横に航海し広州や泉州に至り、バラモン船(インド)やアラブイスラムは波期船(ダブ船)で遠く、アフリカ東岸にまで商権をもって活躍していた。

 クロ−ブ(丁字)は当時世界で唯一ヶ所、東インドネシア、ハルマヘラの西岸に点在するテルナテ、テイドレ、モテイ、マキアン、バチャンの小島にしか自生していなかった。
 テルナテには1257年に早くも強大なサルタニ−ズ Zainalabin 王が誕生していたことは、イスラム教国がスパイスを求めて東進するアラブイスラム商人達の辿った道と期せずして一致(スマトラアチェ、パリアマン、デリ、ムラユ、バンテン、マカッサル、バンガイ)しているのは興味あるところである。

 中国の南方貿易は、かの永樂帝に認許された鄭和(AD1405〜1431)の七次に亙る朝貢航海が、その驚異的規模で類をみない。記録によれば船団は大船62隻(最大600トン)乗組員27,000人、宦官イスラムである鄭和の影響力は強大であったと言わざるを得ない。彼の航海はチャンパ、シアム、スマトラ、ジャワ、インドからペルシャ湾、アラビア・ジッダ、アフリカ・モカデシオにまで及んでいる。
 ほぼ同じ時期の1498年、エンリケ航海王の命で、キリスト教徒として初めて喜望峰をかわしカリカットに入ったバスコダガマのサンガブリエル号は僅か100トンと170人とでは比較にならない。
 それでもガマに「余はキリストとスパイスの為にここに来た」と言わしめた程、ポルトガルスペインの香料の直貿と独占への欲望は並々ならぬものがあった。
 その意欲が「地理上の発見」から植民時代として人類に多大な影響を与える事になったのだ。

 それまでスパイスは中国とインド、アラブ商人を通じて西洋に運ばれていたものが、オスマントルコの地中海制覇でその他の海上ル−トの開拓が急務となり、赤道は灼熱地獄の噂にもイベリア人はアフリカを南下したのだ。
 最初にクロ−ブの木を見た西洋人はイタリア宣教師ルドビコデバルテエマと言われている(1506年)が、イエズス会宣教師らの個々の情報(オドリコ、ベレグリノ、アンドレア、コルビ−ノなど)は当然知っていたであろう。
 マラッカの役人トレメスピエ−ルの報告書「スマオリエンタル」に、クロ−ブ、ナツメグはジャワの東の小島テルナテ、テイドレで年間約5000〜7000バハル産すると記述された。
 トレメスは「神はテイモ−ルに白檀を、テルナテにクロ−ブを、バンダにナツメグを与え給うたのみ」と述べたのは1512年のことであった。

 1462〜1515年、アルフォンソアルブケルケはホルムズ、ゴア、マラッカ、マカオを次々に手中にし、独占の布石に成功したのは、ガマが最初に東洋の港に着いてから殆ど同時期で、この急速な商権確保はただひとつ、火砲の威力に他ならない。それまでの商人達が誰ひとり強権を使わなかった友好交易は、この日からスパイストレ−ドは、ガンパウダーの轟音とともに新しい時代に突入していったのだ。

マジェランの世界周航  
 マジェランの齟齬は、スパイスは西経180度・赤道の北にあると信じた事だ。
 イベリア人同士が、勝手に世界を区切るトルデシリャリス条約を結んだのが1494年、スペインカルロス一世の信任をえてポルトガル人 Fernao  Magalhaes (Ferdinand Magellan) は1519年9月20日、旗艦トリニダッド110d、サンアントニオ120d、コンセプシオン90d、ビクトリア85d、サンチャゴ75dに234名の編成で西航した。
 新大陸南米は岬で、大西洋から西航すれば、香料諸島に出会うと確信し(コロンブスと同じ考え)、1520年11月27日苛酷な航海の末、テラデルフェゴ島(火の島)の水路から太平洋に出た時には、逃亡、反乱、沈没で船団は3隻を残すのみとなっていた。
 マジェラン海峡である。
 4ヵ月も島影を見ず1521年3月17日、フィリピンのセブ島をランドフォ−ルしたがスパイスは無かった。北に寄り過ぎた為である。そして些細な事でマイタニ島の土民に殺害される。同年4月27日のことであった。
 ビクトリア艦長エルカノ(Juan Sebastian de Elcano) は、スル−海を南下してついに目指すテイドレに投錨した。時に1521年11月27日、故国を出てから2年2ヵ月と28日であった。
 幻のクロ−ブをその手に握ったのも束の間、12月18日ガマラマ火山(1721b)の大噴火でトリニダッド座礁沈没、49名を救助し4名を残し、島をカステイーラと命名して帰途についたが、途中アフリカ、ベルデ岬でポルトガルにより逮捕され、乗組員を見捨てて出航する事件にあいながら、1522年9月6日、セリビアに着いた時には奴隷を含む13名と、バハル(約1d)のスパイスだけだった。
 この43,380海里に及ぶ大航海は、期せずして最初の世界一周の壮挙となり、地球は丸い事を実証した。
 (海軍練習帆船にエンリコの名が誇らしげに掲げられているが、フェゴ島で三隻を手中にした反乱の前歴からマジェラン殺害の疑いもまた消えたことがない)

 マラッカを手中にしたポルトガルは1512年、アントニオデアベルウに3隻の船(50d)と120人を与え、スパイスの自生地バンダ海に突入させた。
マラッカ王はベネチアの死命を制す、覇権競争は分秒を争う熾烈さだった。マラッカに帰港できたのは一隻で、フランシスコセサーロは、アンボン西ヌサテルで座礁(一説にはルチプラ諸島)し、テルナテ王サルタン・アルマンスールに救助され、麾下の軍に加わり1521年客死するが、それはマジェラン隊が来るわずか半年前のことであった。
 イベリアの二つの国が、東と西から、地の果ての香料諸島に殺到するのだ。
 スパイス、クローブとナツメグ、この世にも貴重な木の実が、奇妙なことに生産地では何の価値も見出だせず、あくまで外来者によって価値化されたことだ。当時のマルク諸島の人口は、17世紀のオランダの資料でも、10万人弱(アンボン五千)で文化的にも必要が無かったのだろう。今もって米作地帯ではなく薯、サグ食圏に属し人口増加は微々たるもの、米はイスラム商人がジャワから運ぶもので満足し、文字通りの相互利得の交易だったものが、白人の介入により、それは収奪と管理、殺戮、強制へと変わって行く。
 独占欲にかられたイベリア人は、ポルトガルがテイドレにロサリ砦を、指呼の間のテルナテにスペインが対峙し、住民はローマンカソリックへの改宗を強制され、植民政策の常套手段である諌計と強要恐喝、懐柔でテルナテ王 Sayan Nasirullah とその義父、四百人のハーレムの女達(ベネチア渡来のビーズ玉で飾っていたという)を巻き込む卑劣な闘争(多くは毒殺)を繰り返す。
 1529年ポルトガルのジオアオ2世はスペイン王チャールス5世に三十五万クルセ−ドスを支払い、スペインは南北アメリカの難事業もあってフィリピンに撤収したが、時代は次の主役オランダ、イギリスが牙を研いで待っていたのだ。
 1536年から4年間を、ガルバロが強権をもってこれら小島を統治したが、彼は(アメリカ産の)スイートポテト、玉蜀黍、トマト、パイナップル、パパイア、タバコ、レタス、チリ唐辛子を移植し、この国に広めた事も、特記すべき東西交流だろう。
 イグナチオロヨラの聖フランシスコザビエルも香料諸島を訪問しているが、サルタン・ハイルンの教化に失敗し(一説には毒殺した)勇将バーブラの復讐に続く。偶然にもイギリスの海賊フランシスドレーク(故国では英雄)と組んで、ミンダナオのイスラムを結集してカソリックに対抗したのが、テルナテの輝く日だった。

 1587年、共和国になったオランダには優秀な人材が集まり、それまでリスボンにあった香料取引所はアントワープに移るようになる。
 1595年、最初のオランダ船団ハウトマンがジャワ、バンテンに姿を表す。
 彼は徹底的な暴力と略奪行為で地歩を作った。
 1588年イギリスは、スペイン無敵艦隊を撃破し、1622年にはポルトガルもホルムズ東ジャスク沖海戦で全滅し、植民戦争の主役は入れ替わり、前者にも増して収奪は苛酷さをくわえて行く。ロンドンに線ペストやブロデイフラクスが蔓延しクローブナツメグが薬効があると価格は暴騰しカンパニイが結成され船団が編成された。
 当時スパイサリイへは北東航路で2000海里短縮出来るとゆう噂が執拗に囁かれ、バフィン、ハドソンなどが挑戦し多くの犠牲者をだしたが島や川の名前で残った。オランダはマンハッタン(原住民語Manahactanienk酩酊の島)にニューアムステルダムを建設したが新航路は発見されずビーバー毛皮交易所として残っただけだった。
 1621年コーエン(Jan Pireterson Coen)は、オランダ女王よりVOC長官に任命され交戦権まで与えられた。V.O.C.イーストインデイ、東インド会社の歴史は煉計、威嚇と掠奪、虐殺の歴史で、コーエン自身も彼のナツメグ茂る楽土、バンダネイラの住民全てを抹殺し、移民によるプランテーションを作った。
 コーエンは異常なまでに日本人傭兵の戦闘力を評価して、数次にわたり平戸からの派遣を要請し、香料争奪の先鋒に立たせる。日本人傭兵はバタビアやアンボンの町を二本差しで闊歩し、ネイラ絶滅作戦などでその勇猛果敢な戦闘力を誇示するが、傭兵の常で雇い主の違いから英・蘭の闘争では日本人同士が敵味方で戦う事にもなる。
 彼等傭兵のその後は子孫も残さず砂に滴が沁みこむように埋没してしまう。
 「女王陛下の東」「永久なる契約」、 The Quieen of East,The eternal conpact 1656年、遂にグレートスンダ列島はVOCの膝に屈する。
 当時のスパイス集積地アンボンは、贈収賄、賄賂、汚職、あらゆる忌まわしい悪が華開き、罪人の首切りを肴に、連夜の破廉恥な宴が催されたといわれる。
 しかし、抜け目のないフランス人・ピエールポーブルが1770年、禁制の苗を持ち出して、インド洋モ−リシャスに移植し、以後ザンジバル、タンザニアで栽培に成功すると、地球の果てマルクの価値が脅かされてくる。オランダはこの富を死守する為、価格凍結(生産価格の380倍)減反、蔵出し制限で対抗するが、所詮市場までを押さえる事は出来ず、幻の香料諸島、バンダ海の宝はあっけなく消滅し、植民経営はコ−ヒ−、紅茶、砂糖、綿花の強制栽培へと進む。

 歴史は移り、泣く子も黙るV.O.C.(Vereenigde Oostindische Co.)は、巨大な欠損を清算出来ないまま、1799年12月倒産する。スパイスなどの利益激減、強制栽培の失敗、軍隊経費増大、汚職、放漫経営。

 インドネシア共和国、現在この国は世界最大のクロ−ブ輸入国であり、最大の輸出国でもある。人々が好むチェンケ煙草(Kretek) の匂いが空港に充満して、栄光と挫折のスパイスアイランドに降り立ったことを知る。

第15話 終
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作成 2018/09/02

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