慢学インドネシア 庵 浪人著
第三章 処変われば
第22話 旧宗主国としてのオランダ
 インドネシア共和国は1945年8月17日(日本敗戦の2日後)オランダ植民地の領地を国土として独立した。
 その後オランダは各地に傀儡政権を作り侵攻を繰り返し1949年ハーグ円卓会議で主権を移譲するまで混乱が続いた。

 オランダ帆船が西ジャワに訪れた植民地時代の他国例えばメキシコ、ラテン諸国、インド、ミャンマーに比較して、長年の収奪を行った期間の割には現在インドネシアにオランダの陰はまことに少ないのが大きな疑問だった。
 東チモール問題もそこのトッパセス(混血児)に旧宗主国の影響が強く土地に浸透していて問題を一層複雑にしているのに、インドネシアに旧宗主国であるオランダは混血児も殆どおらず言語も消滅して僅かに機械法律用語に残っているだけで生活習慣は殆ど皆無である。

 オランダはヨーロッパ大陸西端、北海に面してドイツとベルギーに囲まれた小国である。
 4,150万平方`、九州ほどの面積に一千五百万人が住む世界最高の超過密国で、ネーデルランド(低地国)の名のように国土の七分の一は干拓による人造地である。
 「神は土地を与えた給うた。オランダは人が造った」

 総合電気産業のフイリップス社、石油メジャーのロイアルダッチシェル、航空機のフォッカー、トラックのダフ社、食品のユニリバーなど有名だが地の利から物流拠点産業で発展しているが、基本的には豚牛の数が人口より多い農業国なのだ。
 「神は人間を造ったが、土地は人間が造った」
 営々と築いてきた干拓地も台風に襲われれば一瞬で失う海抜ゼロの地では山河に畏怖を感じる感性は育たず、最も早く中世カソリック宗教束縛から解放された人々でベルギーと分離したのもそれが原因だったが、統計ではカソリック36%プロテスタント27%なのは多くが拝金教なのだ。

 バイキングの攻撃以外に食指をのばす国もないほどの不毛地で、ナポレオンも避けて通ったと揶揄されるほどだ。それは逆に強大な権力に屈服した経験もない反面、隣国の豊かな農地に嫉妬する性格から自分勝手でケチ、偏屈で執着心の強い狭量な原形が出来たと云われるからダッチと付く喩えに良い言葉はない。

ダッチアカウント−Go Dutch 割り勘ではなく相手に払わせる会食、ケチの意
ダッチワイフ: 結婚費用倹約の為自慰する、ケチ 我が侭で勝手なオランダ娘よりいい。
Dutch Courage 酒の上での空元気
Dutch Auction ごまかし、せこさ。値段を下げて行く落札法、叩き売り。
Dutch Uncle 自分は棚にあげて人を批判する人
Dutch 賭方を誤る、台無しにしてしまう。
16世紀にこの地は80年戦争で独立(1609)するまでイスパニアとハプスブルク家の手に帰した。その後も3回のイギリスとの戦いやベルギー分離など紛糾したが毛織物製品はじめ南北商業の会合地で都市自由気風が盛んだった。
 王制封建で住みにくいスペインやヨーロッパ各地から多くの識者が集まってその後の海外覇権競争を突っ走る事になる。

1635年 日本鎖国。
1639年 日本にポルトガル人来航禁止。
1641年 オランダ人を出島に移す
1596年 コウネリアス・ハウトマン(1565-99)ジャワ・バンテンに至る。(アチェで殺害される)
1619年  バタヴィアを建設
1816年  オランダジャワを占領
1512年  ポルトガルアンボンを占領

オランダ東インド会社 VOC
 南海交易の競合を回避する為、オランダ連邦議会が1602年3月独占的会社Verenigde Oostindische Compagnie(V.O.C東インド会社)を世界最初の株式会社として設立し、外国との条約締結、自衛戦争、要塞設置、貨幣鋳造、特許権限、長官司令官任命権限など準国家的権限を付与した。
 香料独占を目指して1605年ポルトガルをアンボンから追放、21年バンダ諸島住民を虐殺奴隷化、23年イギリスを追い落とし、諸王国の内紛、仲介奸計で香料独占に成功したが領土的野心は薄かったが西ジャワプリアンガン地方を直轄地として強制供出制を強いた。
 インド綿織物、中国絹、日本の銀銅も含めた莫大な利益も地域紛争権益保全戦費出費や高率配当、乱脈経営、私貿易や船の不正使用横行に加え香料木のアフリカへの盗苗で供給過多下落、強制栽培のコーヒーも成果あがらず、オランダ自由主義に基づくバターフ共和国成立でこの前近代的な特権会社は1798年倒産しオランダ政府が引き継ぐ。

 フランス革命の混乱でイギリス統治となるが、復帰した時の外島の領土はマルク、アンボン、南スラウエシ、マナド、パダンなど一部だった。
 1824年純利益政策の下でバンダ(香料)、バンカ(錫)スマトラ将来性以外の切り捨て方針をとる。ブンクルとシンガポールの交換も蘭英の勢力境界を定める為だった。
 帝国主義時代になると白人キリスト教徒による文明化が顕著になり積極的な植民地経営となってオランダ領東インド領域が確定するがこの間僅かに30年足らずでオランダ植民地支配3世紀半というのは当たらない。

日本軍政
 大東亜戦争と呼んだ日本のアジアへの白人植民地解放「大東亜共栄圏」の思想は日本が新しい植民地争奪に参加して資源と領土を確保する戦争だったのは否めなく、その目的地が中国東北部満州とインドネシア列島だった。
 1942年1月タラカン島奇襲に始まる侵攻作戦はマナド、パレンバン落下傘攻撃、3月陸軍2個師団がジャワメラク、エレタン、クラガン上陸、5日バタヴァ、7日バンドゥン、スラバヤを占領、9日には呆気なくオランダは降伏したのは母国がドイツヒトラーによって占領された亡命政権だったことによる。
 日本はアジアの解放を謳ったが戦争遂行の為の資源確保が最優先され厳格な統制経済と強制供出で貿易均衡は崩壊しインフレと貧困が蔓延し、ロームシャと呼ばれた強制労働者徴発や隣組、奉公会、警防団、婦人会などの監視組織を作って行く。
 反面日本文化強要の為の教育重視、インドネシア語奨励、オランダ追放でその穴を埋めた現地住民が重要ポストに就任し大衆相互意志疎通を可能にして国家、民族概念を形成するのに役立った。日本は蘭領インドだけは永久に領土とする計画だったが敗戦によって頓挫し混乱の空白状態の中インドネシアは独立宣言を為した。

 オランダの損に対する執念深さで大切な銭の元植民地を日本に奪われたわけで、戦後東京裁判でのオランダ担当で日本人絞首刑は226人と他戦勝国に較べて段トツに多かった。
 55年経った1991年ヴェアトリクス女王宮中晩餐会答辞でも「数多くのオランダ人が太平洋戦争の犠牲になり十万の民間人が何年もの間勾留された」と発言し物議を醸した。
 オランダには不必要とされた戦争特別賠償四十八億円(現換算で1400億円)を支払っている。


オランダ領東インド総督
1610-14 初代 ポット
1619-23 第4代クーン(1587-1629) 1627-29第6代再任。
モルッカでイベリア勢力を排除、スンダクラパをイギリスを撃退し武力による胡椒交易の集中を画作。ジャワ・マタラム軍に包囲され再任後病死。
1681-84 第14代スペールマン(1628-84)下級職員から総督になり最盛期を現出、マカッサルを平定。テルナテを属領化。
1796-1801 33代ファンオーフェルストラーデン
1811 第37代ヤンセンス
1811年 イギリス統治開始。インド総督ミントー一世兼任、副総督ラッファルズ
1816年 オランダに復帰。
1830-33 39代ファンデンボス
1936-45 最後の植民地総督は チャルダファン・スタルケンボルフ・スタショウエル
1949年まで高等弁務官がいた。
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作成 2018/09/01

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