慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第15話 マナド 箱庭の街 - O, Inani Keke -
広いインドネシア列島のほぼ中央に、奇妙な"K"の字の形で横たわるスラウエシ(旧セレベス)は、多様性での調和を国是とする広大なインドネシア共和国のなかでも、地質学はもとより生物、民族学の分野で最も変化に富み、世界でも特異な注目を集める島です。
 その昔、創世のとき、神が人間に'それぞれの岬の方向に散りそれぞれの国を造れ'と命じ、今の世になったとゆう昔噺ロンタラ
@があるように、四方に岬を伸ばして総面積189,216平方km、日本本州の八割の広さのスラウエシの活発な地殻変動が、このような特徴ある島を形造っていて、これは狭いマカッサル海峡を挟んだお隣のカリマンタン大島の安定さとは極端な異なりがあります。その北の岬回廊は幅が20`たらずで長さ700`も大洋に突出して東端チップ、プロテスタントの牙城ミナハサ州は共和国最北で、日本に最も近い距離に位置しているのにシンガポールからもジャカルタ経由でも、バリからでも二日はかかる遠い国なのは直行便がないからです。
 この辺境ともいえるミナハサ地方は、植民時代から現在に至るまで、特別な地位を得てきたのがむしろ不思議な感じがします。
 此処はインドネシアの中で違いが目立ちます。
 「私達は(ジャワとは)違うのよ」と、オランダ第12番目の州を自任して、この間までまともな家庭はオランダ語を常用し、サロン腰巻きをしたがらず、男はソフト帽、女はレースで着飾って日曜ミサを欠かさない植民が最も成功した地域で、植民地時代に多くのマナド人がオランダ中間行政官に登用され、南のマカッサル・ブギス人から「太平洋の水ぜんぶ飲んでもお前達の血は変わらない。ブランダ(オランダ)の犬」とまで罵られてもオランダ流に憧れたのも、ミナハサ族がおおらかで楽天的性格を生む豊かな自然環境があったからかもしれません。

Wallas Line
 この地を訪れる人々の大半は西から来て西に帰る。ここから先東は何もありません。
 スパイスナッツ争奪戦の主役テルナテ・テイドレは指呼の間ですが忘れられて幾世紀、暗黒のパプアも遠く、その先は茫漠とした大海原が南米エクアドルまでの水球が広がります。

 千切れ雲を通して、乳房のようなマナドトウアが蒼い湾に起立し、緑の絨毯に白い家並みが散在するのが俯瞰できるのは、このサムラトランギ空港
Aが、2000bのクラバット山をかわす難しいアプローチで、機が大きく傾いているのだとゆうのを忘れさせてくれる程美しく、空も風もジャワやバリとははっきり違うと感じられるのは、近代自然科学の門戸を開いたダーウインの種の起源(Charles Robert Darwin (1809~1882) The Origin of Species by Means of Natural Selection 1859刊行)に多くの示唆を与えたA.ウオーレス卿(1823~1913)が、アジアとオーストロネシア生物境界線ワラスラインをこの地で想定した事で一躍世界的となり、この海峡の東にアジアを代表する虎や象などは生息せず、有袋類の世界で、そう言われればマカクー猿の顔も違って見え、ウオレシアの生物相はこの島だけの始祖牛アノアやバビルサ(豚鹿)、世界最小猿タルシウス、有袋類クスクス、巨大卵を地熱で孵化させるマレオなど昆虫や蝶の新種は多く生物学者垂涎の地で、茶色のジャワから藍色のミナハサに来たのを知るのです。
 1998年夏、それまでコモロ諸島沖でしか発見されなかった一億年昔の生きた化石魚シーラカンスが、なんと此処の魚市場で売られていてセンセーション
Bになりました。 もしかしたらタスマニアン・タイガー(袋狼)もまだひっそりと息ずいているかもしれません。まさにスラウエシこそアジアの終点で、この地から東に新しい異なる世界が展開するとも言えるでしょう。

箱庭の町 マナド
 サム・ラトランギ空港を後にゴルフ場を右に見ながら長い坂道を下れば、そこには小さな英雄像が立つ小さい広場、小さいバスが群がり散ってゆく。ガリバーの小人の国に紛れ込んだ気持ちにさせられ、可愛いい箱庭の町マナド。
 オ、イナニ ケケ(ちょっと、お嬢さん)は甘い曲で、地方歌としても国民みんな知っているナショナルソングになりましたが、はじめ、それだけのもので大した感慨はなかったものが、ひとたびそのふるさとの、遠くフィリピンに近いミナハサはマナドに降り立って、改めて歌はその地によることを実感し、謡い継がれる歌には何かが宿っているようで、以後この名曲を聴けば、港に通じる坂道を、可愛い女の子が若い衆に冷やかされ、ニッコリ笑いながら、転ぶように駆け下りてゆく後ろ姿が想像できるし、そんな美しい風景がマナドの街のあちこちで見受けられたのです。少女のような、ミナハサなのです。
 この曲はマナド市の中心ウエナン語の詩で、言葉すべてで韻を踏む素晴らしさです。
 マナド娘は共和国最高の色白美人とつとに名があるのは、長い外国混血のなせる技で、それは長大な半島が大洋を二分して海原に突き出ている土地ですから、西洋人が渡来する以前も、香料や南海産物を求める華人商人の海上航路の拠点として、多くの人々が往来し、ミナハサの人達の姿を見ればマレー人とは異なる血が歴然としています。
 古い南海航路の物語は地下から夥しい陶器が掘り出され、人の皮膚の色に表れているに過ぎず殆ど消滅してオランダ介入からこの地の歴史が始まったといっていいでしょう。
 多分、此処はミンダナオ系のネグロイドが先住したカルバニスト(食人)国だったのでしょう。シナからモンゴロイドが南下して血を残し、イベリア人がコーカソイドを与え、オランダと移民インド人が神のお手伝いをしたのでしょうか、がっしりした短躯色白な人と長身痩躯彫りの深い容貌の人が己の血の謂れも知らず暮らしています。

 トルデシリャス条約で地球を二分したイスパニアとポルトガルは
C、スパイスを求めて西と東からこの地域に殺到し、フィリピンから南下したイスパニアがミナハサに侵入しました。香料諸島テルナテ、テイドレは此処から眼と鼻の先だったからです。
 ある期間の横暴に耐えたマナド人達は、力を付けた新興勢力オランダに助けを求め、1673年にロッテルダム要塞を造り(日本軍の爆撃で焼失)、VOC(オランダ東インド)の庇護をうけることになったのです。
 以後の親蘭は変わらず、植民地反乱民族主義のリーダー達はこの地に流刑になったのです。ジャワを追放されてこの地に流されたデイポネゴロ王子に従ったジャワ人達(1830年)の子孫はいまもカンポン・ジャワ村に暮らし、宮廷人の優雅さとマナドの西欧風が巧みに融和して最高の女性といわれているのもそれなりの理由があるようです。

 オランダは殖産に力を注ぎ、独立時ここには千人の児童にひとつの学校がありましたが、ジャワのそれは五万人だったのをみても、独立後半世紀でその格差が解消できるとは思えず、彼等がジャワや他の地域の人に対し知的優越感を持っているのが感じられます。
 マナド人はラマイラメイ(お祭り好き)で見栄っ張りで、身上を潰すと陰口も聞かれますが、マナド人は遊ぶお金もない人(ジャワ)の僻みと意にも介しません。こんなちっぽけな町に競馬場が四つもあるなんて。
 ミナハサは現在は輸送交通環境の変貌で低迷していますが、それでも共和国一の教育医療環境を保持して、今もって一番の富裕県なのです。なんといってもコプラ油脂、チェンケ(丁子)、ゴム林、コーヒー、米、野菜、水産などないものはない豊かな土地だからです。チェンケ市場が暴騰した時テイノール村は景気に沸き立ち、電気もないのにGEの電気冷蔵庫を庭先に飾って見栄を張ったといいます。

 太平洋戦争でダバオを飛び立った日本軍は、マナド・トンダノ飛行場に落下傘降下し激戦の後制圧し、空の神兵Dとゆう歌まで唄われた時代、兵士との混血児もスマトラアチェより多いのはこの地方の寛容さを物語るのではないでしょうか。
 マナドぼけの日本人は多く、マナドはミナト、ミナハサは皆様、トンダノ トンシェ トモホンの村名のトンは人、東のゴロンタロは五郎太郎入植の地と日本との関連をなんとか結び付けたい気風がある程、大和撫子に見まがう美女も希ではありません。
 マナド人がオランダの犬でなかった証拠に、植民地時代の民族主義の知的指導者サムラトランギを生み、統一国家実現に貢献しました。


 共和国の腫れ物の華僑同化問題でもこの地は昔から融和していて、マナドチナと呼ばれて違和感がないのも土地柄でしょう。



@ 最も古いルウ王国−現在のパロポ−の天孫降臨神話叙事詩ラ・ガリゴは、ロンタル椰子にブギス語で刻まれた膨大な写本ロンタラで、
13世紀以前の最大級の文学資料といわれる。
A G.S.S.JRatulangie (1891-1949) ミナハサの伝統的支配者層出身、オランダ留学、チューリッヒ大学理学博士。帰国後民族運動を指導、評論に健筆を振るい統一国家実現に貢献した。マナド空港、大学、道路などにその名を冠す。大の親日家。初代スラウエシ州知事。
B ミナハサの沿岸はいわゆるドロップアウト(急深)で、リーフから一挙に深水2千米に達する。昔から化け物魚の噂は多かった。
シーラカンスが発見されて、この地域の特異性が再びクローズアップされた。海だけではなく陸にも新種発見のチャンスは多い。
C 1494年 イスパニアとポルトガルで結ばれた海外領土分割条約で教皇子午線で両国の領地権を東西に二分した。
イスパニアは東インド経営を諦らめ南アメリカに専心、ポルトガルはブラジル領有の根拠となった。
D ♪ 藍より蒼き大空に大空に、たちまち開く百千の、真白き薔薇の花模様、見よ、落下傘空を往く、空を往く♪


ブナケン リーフ
 アメリカでの医学留学を終えたドクトルバトウナは、郷里に広がる珊瑚礁を初めて紹介したのが世界有数のドロップアウトを持つブナケンリーフで、ダイバー仲間では"ブナケンを潜らずダイビングを語るなかれ"と言われる程のスポットになりました。
 マナド沖に富士山ミニチュアのように海上に聳えるマナドトウアとマンテハゲに囲まれるブナケンは、町と指呼の間にありイスタナドウユン(竜宮城)もかくやの美しさです。

 マナド人は「ブナケンも数あるもののひとつ」といって驚きもしないのは、複雑な海岸線を持つ岬の至る所に小島や入り江が散在する'箱庭'なのです。
 山上湖トンダノから少し入った山の麓にワトウ・ピナベテンガンの霊岩が鎮座します。
 少し昔に一人の農夫がお告げを受けて、ロットレ(数字当て富籤)を当て続け、それを元手にマカオに繰り出し、胴元を破産させて凱旋し連日新聞に書き立てられました。挙げ句自分の死期も予言して、あぶく銭をすべて教会に寄進して予言通りそうなった逸話と、この存在感のある巨岩の信者たちの幸運がしばらく続いたのです。政府高官もしばしば卦を立てに訪れるそうで、もしかしたら夢は珊瑚礁だけではないようです。

 マナドの街もスパイスナッツのチェンケ時期には一帯がえもいわれぬ香気に覆われ、コリンタン木琴の音もまことにに女性的で、西からひしひしと寄せるイスラム圏から訪れると、行き交う人々チャペルの鐘の音、なぜかほっとさせる気分になります。
 狭い岬には港町特有の坂道に花が乱れ咲き、肥えた馬車の鈴の音、ドウアスダラ、タンココ、バトウアングス、グヌンアンバン、ドウモガボネなど自然保護区は共和国一、山頂湖トンダノ(標高600b、)とあわせて公園の中に住む趣き、町内のロコン火山や郊外のソプタンは時に噴火(1986・89)しても随所の温泉の湯気で帳消しになるようです。
 ブトン港は水深、良水で対岸のレンベ島が風を遮り、浅瀬だらけの南海では最上の船溜りで、イスラムではなく飲酒は自由、美女が侍れば船員には忘れない港でしょう。

 箱庭の岬は何処に行くのにも車で半日もかからず、砂浜で火照った身体は少し丘を登れば涼風吹く高原で、住民のホスピタリテイも含め、観光ポテンシャルは高いと予感されます。マナドでは蝙蝠や犬、椰子鼠までおいしく料理しますが、それもエスニックフッドになるのでしょうか。

 外来文化受け入れに何の抵抗もなく、中央志向は非常に強く首都ジャカルタに憧れ、デイスコもダンドウットとロックしか聞けず、すばらしい韻を踏んで優雅に唄われる地歌の消滅した速さで、この小民族文化も消えてしまうだろうと大きな不安があります。マナドの20万人も外来人で純血は減少しているらしく、なにか華奢で壊れ易い箱庭都市の姿に見えます。
 ミナハサは犯され易い限りなく女性的な印象が拭えません。歌にもキリスト教会の影響が強いいい子ちゃんで、グレジャ(教会)聖歌グループも盛況ですが、コリンタンの音と同じでパンチに乏しく、マナドは限りなく女性的なのです。

郷土楽器コリンタンのバックでIDナンバーを。ナショナルソングのテープには必ず出てくるヒットナンバーです。
O Inani Keke ちょっとお嬢さん NN Ermy Kullit
Oinani keke Mangewisako, Minange aki Wenang timeles waleko 「オ、お嬢さん 何処行くの」「ウェナンの町にテメレス菓子買いに」
Weane, weane, weane toyo, Daimo siapa kotare makiwe 「ちょうだい、ちょうだい少しだけ」「 ないといってるのにまだ欲しがるの?」


O Minahasa ミナハサ NN Ermy Kulit
Oh Minahasa tempat lahirku, Sunggu bangga rasa hatiku Memandang keindahanmu おお、ミナハサ 生まれし地 美しい景色は心の誇り
Namamu masyur dinusantara Karena cengkeh pala dan kopra Kagumkanpasaran dunia チェンケ パラ コプラ国で名高く世界の驚き
Danau Tondano dan sawah ladangmu Asapi Lokon dan Soputan Menghias alammu トンダノ湖 広がる稲田 煙あがるロコン ソプタン
Oh tempat lahirku Minahasa Aku rindu setiap masa Aman damai dan sentosa 生まれしミナハサ静かで安らか この地を永久に愛す

ご当地ソングなのに頭にSapa suru datang Jakarta(ジャカルタへ来ないか)と中央志向をだすなどいかにもマナドらしい。


MamaOsi Papa Anna Wendur Onna Singal
Mapalus Traditional NN Onna Singal
ミナハサプロテスタント国は西洋メロデー、ワルツが実に多くまた似合っている。
ここの詩には多くインドネシア語が混入したりする。


So Nyanda Parduli おせっかいはやめて Maramis Thomas Obet Mahino
Pulang lebe bae mo, Apa le lama lama はやく帰ってこ、どうしてゆっくりしてるの
Hidup susah so kurang jaga babajalang kasana sini 暮しが大変で あっちへ行ったりこっちに来たり
 Mo pi kasudara dorang so badiang akang Apa le mo minta tolong pa tamang
So datang Jakarta mocari hidup sanang ジャカルタよいとこいちどはおいで、家も車もテレビもバイクも思いのまま
punya rumah punya oto punya tipi punya sepeda motor
Nyanda ja basangka jahanya diIbukota lebe jaha dari torang pemama tiri 姐さん そう考えてるでしょ 都にはワルがいっぱい
Pulang lebe bae mo apa le lama lama はよ帰ってこ なんでゆっくりしているの
Usah susah hidup di kampung punya sudara ja babantu 田舎はなんにもなくて苦労がおおくても 友達が待ってるよ
Hidup diJakarta so nyanda jaga parduli Biar itu masih basudara 街の暮しはね 気を付けて 友達がいる方がいいよ
たわいない歌だが、マリアッチの風が吹いているのも此処らしい。

O, Papa Ja NN Rita Zahara Orkes Tetap Segar
O, o, o, papa ja, Nona sarung so pakai kaus tah robeh Halo Halo O, papa ja, Nona sarung so pakai kaus tah robeh
O, o, o, Nona jangan permainkan kita O, Nona お嬢さん いいお着物着てね ハローハロー
Mari kita pergi memberi kaus yang baru, O, o, papa ja いいお着物買ってね
Jangan lupa besok malam ada pesta, Halo, Halo,kawan saya Mari kita bermai pergi disana 明日はパーテイ ハローハロー
O, O, O, mari kita bersatu dan bergirang giranglah Jangan lupa Hai! 一緒になって 楽しみましょうね 忘れちゃいやよ
マナド人の遊び好きは身上を潰す。西洋式でなんの屈託もない


Seni Budaya Minahasa ミナハサ郷土芸能
lagu katrili BabT Cakalele Mars Musik Bambu Seng Harapan Nada Selatan
 イスパニア風兜に赤い戦闘服の衣裳で公式行事で踊り唄うCakalele War Danceは各部落に伝えられています。
龍騎兵の行進を思わせる吹奏マーチは独特で、同じパートを延々と演奏し飽きることもありません。
 自作トランペットをマリアッチ風に吹く祭り(CaKarere War dance)に、彼等自身も忘れ去ったスペインの残映はインドネシア広しといえ此処だけでしょう。

 次の三曲はいずれも古い曲で、ウエナン語の韻を踏む素晴らしさで選んだ。演奏は64年にKroncong Beatとして発表したLP集から。いずれも当代一のシンガーだがジャワ人で方言にはやや難があるのは致し方ないが歌唱は光る。
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Esa Mokan (あなただけ) NN Isnarti Orkes Tetap Segar
Esa Mokan genangku wianiko, Tia mo marua rua genang e karia,
焦がれるは ただあなただけ、あなた、ふた心をおこさないで、
Mangalei ngalei uman wia siOp.Wailan, Paka tuan pakala wiran wiani ko,
添い遂げられるよう、神さま祈りましょう
Mangalei ngalei uman wia siOp.Wailan, Paka tuan pakala wiran wiani ko,
幸せを、 末永く、、

Luri Wisa Ko (ルリ鳥よ、どこに) NN M.Rivany Orkes Tetap Segar
Luri wisa ko, Luri wo dumendenne, Luri kayu jati Luri rurendeman ルリ鳥はどこに行ったの、囀ってちょうだい
Diwaganku un rende rendemku wianiko, Maesa 'mbanua kita dua lenso, ルリ鳥よカユジャテイ、いとしのルリよ
Maerende rendeman kita dua lenso, Lenso mu man putih taan si nujian わたしはあなたに愛を捧げます、添い遂げられる日を祈って、
あなたのハンカチは白く奇麗で美しい 末永くお互いに愛しあう事を、

Sa'aku Sumengkot 決意の時 NN Rita Zahara Orkes Tetap Segar
Karia niaku e mangemo, mange sumengkot dou dou
Maimo tumu daumo, pedeng o pedeng ni kamu
Ung kapal Salumenggango mangemo maweneto
Tumu dau moum pante Wenang
Due mohan merago ragos tiakan kaliuliuran tiakan kaliuliuran
My love, I'm going away sailing to a far off land. Let me be lost to your sight.

ボランモンゴンドウ
 岬を西にゆけばボランモンゴンドウのイスラム国、バリのグヌンアグン大噴火で、此処に移民した彼等が稲作を成功させただけでなく、金まで発見して、里帰りは飛行機では共和国移民地ではここだけの繁栄で、町コタモバグはマスジャヤ(金の勝利)とも呼ばれます。周辺の高地は広大な野菜畑、コーヒー園、ゴム林が続き、農耕に秀でたバリやジャワ人の勤勉の賜物です。今は移民の多い新興地ですが、あとしばらくすると押しも押されもしない地域に発展するでしょう。
 ここを舞台にしてKalelon selatan Groupの兄弟姉妹が活動していました。質素なバンドでしたが血の繋がりのハーモニイは素朴で味わいがあります。
 Weta Nasibku 定め Tampaso Baru Yansen Kewas Family
 Sematuari Goodwill Tompaso Baru Henny Kontu

サンギール、タラウド
 マナドの北には海流の中にシアウ、サンギール、タラウド諸島がフィリピン・ミンダナオ島まで続いています。移民インド人が多く、顔つきはコーカソイド的で褐色です。
 マナド人は広大なコプラ椰子林の管理をこの出稼ぎサンギール人にまかせて、「儂の仕事は日陰で、椅子に座って奴等が登って落とす椰子の実を勘定するだけサ」とうそぶいているうちに、勤勉な彼等は街に多くの商権を作っていったといいます。
 マナド人のパーテイ好きで怠け者、傲慢で見栄っ張りの噂は、この土地の裕福さからでた羨望も混じっているのでしょう。
 忘れられたような小島群ですが、全国キリスト教コーラスコンクール(Lomba Masamper1992)で第一位の栄冠を手にしたこともある上手揃いと聞いています。

Mang Tetahendungang Group Masamper Tampungang Lawo
Mang Tetahendungang, Elo Hebi Nenaungang Oh Hapi, Mapia Sarang ini mambeng takawulenang
Maiang suwowone, Suwatu pinentale Kowowong pinetiki
Supang makaipi Ore makatahendung Mang tawe makawule Ore naungku mang tebe sikau

Pujaanku 憧れ
Pujaanku, Oh , kekasih Oh , kekasih tak kulupa sampai mati bahkan matamu yang sepi
Bulan purnama tempatlah lari kiranya indah dah dan permai
Eloknya rupa Eloknya rupamu hai adinda Engkaulah permataku yang amat indah
Bagaikan teman cincin baginda harum baumu seakan akan taman bunga bungaan dihalaman ditanah raja soleiman
Semurbak nan wanginya yang teramat sangat bila dicium tambah semangat tanbah semangat

ゴロンタロ
 ゴロンタロ、リンボト湖の先は徐々に乾燥して人口希薄、長大な半島に人家まばらな最果ての地と変わってゆき、赤道を横切ってお隣りの州都パルーまで森の黒檀や鉄木などの貴樹探しの山男のほか、土地の人も踏み込まない過疎が続きます。
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作成 2018/08/28
追加 2018/08/30

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