慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第13話 イースト・オブ・バリ -ヌサテンガラ-
 川の流れはバリで終わっているような、これより東はファーリモート(遙かな辺境)レッサースンダ列島、ヌサ・テンガラの島々が繋がる。 Nusa Tenggaraとは東南の国とゆう意味で,トウンガラとジャワ訛りで云う人がいるが、土地の人は eはエと発音する。 行政的に東と西の区分があり、1300kmの海域に 566の島(42島に居住)。 LombokからSumbawa,Komodo,Flores,Solor,Adonara,Lombelen(Lembata),Pantar,Alorが、Sumba,Sau,Roti それに物議を醸したチモールが重なるように横たわる。 ちかごろは一体感醸成の為か、頭文字をとってFlobamoraと呼ぶ。  乾燥、活火山、人口希薄、赤貧、因習とあまり芳しくない島々だが、それ故にインドネシア列島の原風景が色濃く残っている地域として興味は尽きない。
♪♪Flobamora♪♪ ヌサテンガラはひとつ 古里を愛す
Flobamora tanahairku yang tercinta Tempat beta dibesarkan ibunda
Muski beta lama jauh dirantau orang Beta inga mama janji pulang e
Biarpun tanjung teluknya jauh tapele nusaku Tapi s'lalu terkenang dikalbuku
Anak Timor main sasando dan menyanyi Bolelebo Rasa girang dan dendang pulang e
Hampir siang beta bangun sambil menangis Mengenankan Flobamora lelebo
Rasa dingin beta inga dipangku mama Air mata basa pipi sayang e
  フロバモラ わがふるさと 母なる地  たとえ長く遠く離れていても 母との帰る約束は忘れない
  故郷の岬や湾も遠くても私はいつも友を思う
  チモールの子供達がササンドを手にボレレボを歌う 愉しく帰ってと唄う
  昼近く泣きながら眼がさめフロバモラ子守唄を懐かしい 寂しく母を思い出し涙頬を伝う

 交通や設備の不備から訪れる人は真珠養殖業者、学者か酔狂な観光客と、近頃やっと知られはじめたイカット(紬ぎ)布だけの貧しい辺境と云われても、多様性を象徴するように島々は多彩な姿で横たわり,狭い水道で隔てられているだけなのに佇まいはまったく異なる。
 住民は東に行くほどいわゆるマレー系人からパプア的な縮毛、黒褐色の皮膚を持つオーストロドイドが増えるが、島嶼単位でなく、同じ島でも言葉や慣習の違いから没交渉、敵対集団で暮らしている処もあり、その意味では多彩以上だ。  バリの西から僅かな情報を頼りに書いてみよう。

♪♪Nacage 恋の歌♪♪ 赤貧の地に傑作曲が生まれる サックスまではいって
Tung Nacage Tung ta naige Toe holes kole Toe poe ngoeng belot naige
Yo Nacage Eie I somba somba ta Somba lading momang nacage idede
Aram hitu wadah naige Wada kukuk lata nawagta
Idede naige Comole bomba beli Nacage Idede naige Comole bomba beli Nacage

ロンボック   5000平方キロ   200万人
 火山列島の名に恥じず、それぞれの島に代表する巨峰があり、ロンボクは島の大きさとは裏腹なインドネシア列島最高峰リンジャニ 3726米が聳える。
 絶え間ないバリ王国の圧迫を受けて奴隷労働に呻吟したササック族の歴史を知ると、バリを溢れ出た観光資本が、この島にバリ風のホテルを建設しても、刺すようなササック人の眼、急深で黒いサンドビーチとロンボック海峡の高いうねりに遭うと、投資額だけでは成功を危ぶむ何かが欠けているような気がする。海峡の深さ以上にバリとの距離を感じる。昔ラッファルス卿も此処がアジアの終点とした(ワラッカライン)のが頷ける。
 島の西側はバリの影響があるが、東側はササクイスラムの姿を残している。独特の家屋が点在するが近来はむしろ観光資源に近づきつつある。

スンバワ   15600平方キロ   80万人
  近世の世界三大火山噴火は、1883年に爆発したジャワ西端のクラカタウ、1902年マルチニク島ペレー火山、1985年コロンビアのネバド・デル・ルイスで,ラハー(火砕流)はアルメロの二万三千人を埋め尽くした。クラカタウは島一つを跡形もなく吹き飛ばし原爆の50倍、爆発音はマダガスカルにまで聞こえ、40米の津波、核の冬現象の冷夏が数年にわたり世界を覆い世界中の注視を浴びたが、1815年に大噴火したこの島のタンボラ山2851米がクラカタウほど知られていないのは、人口希薄地であったことと電信がまだなかったからである<1>が、勝るとも劣らない最大級の大噴火で、噴火前の標高は3960米もあったものが爆発で上部1000米が跡形もなく吹き飛んでしまった。
 過去の火山活動を示すように東西300`のスンバワの海岸線は複雑を極め平地はない。
 多分二つの島が造山活動で繋がったと思われ、東のスンバワ(ササック系)と西のビマでは住民は言葉も異なる。
 マカッサルの影響が強いせいかイスラム信仰が強く、毎年のハッジ巡礼では最大数の参加がある。

コモド
 オラと呼ばれる世界最大のとかげコモド・ドラゴンが生き残れたのだから、この木も茂らない不毛の乾燥ではほかのもの(人間)には住めない土地だったのだろう。
 1911年オランダ兵士ファンヘンスブラックが怪物を'発見'した。現在乾燥した裸島に600人の島民が2000匹のドラゴンと住んで物好きな観光客の相手をしているが、1979年にスイス人老観光客ルドルフビベレグ卿が、1987年に12歳の少年と婦人が喰われる事故があった。ドラゴンは肉食で泳ぎも達者なのを忘れてはいけない。

フローレス
 イベリアンが血眼になってスパイスアイランドを捜していた時代、サンダルウッド(白檀香木)を求めてチモールに来航するポルトガルが隣りのソロール島に砦を造り、彼らとの混血トッパセス(黒ポルトギス)が力をつけてゆく。船乗りがCabo das Flores 花咲ける岬とこの島を呼んだのが島の名で残った。群雄割拠していた島民はひとつの島とは意識していなかったし花も咲かない岩手県ほどの東西360`、南北10〜70`のサヴァンナ気候の島に150万人が住み、うち85%がその歴史からローマンカソリック(1570年最初のミッションが上陸)だとゆう。 
 カトリックはひどい苦労をしながら布教に務め、今では貧しいながら150のグレジャ(教会)900の学校、医療など地域社会に貢献している。この地域ではインドネシア語が最も通じる島だ。
 太平洋戦争時、日本軍によって百人以上の宣教師が拘留されたが、守備隊長佐藤海軍大佐、山口司教の理解で信仰は続けられた美談がある。
 カソリックは島の東部のマウメレ、ララントカで盛んだが西部のラブハンバジョ、ルーテン、バジャワはアニミズムが優勢で、ンガダ県の陰陽石ンガデユ、バーガ信仰は根強い。
 2002年ルーテン在リアンブア洞窟で1bに満たないこびと完全骨格が発掘された。
 色々物議を醸したが、結局ピテカントロプスフローレシエンシス、ジャワ原人に劣らない大発見になる。チンパンジイ以下の脳容量で道具や火も使って新人類が来る一万5千年前まで生きてきた。
 この近在はエブゴゴなる野人が住んでいて老人や子供が襲われたりした噺があるし、住民は背の低い人が多い。
 その隣りバジャワは精霊信仰に凝り固まった旧態依然の村々だ。

レンバタ
 8万人ばかりが沖縄本島ほどの不毛の地で暮らす。 島の南ラマレナに南スラウエシから移住(逃亡?)した子孫が、命がけで回遊する鯨を捕り、女が一日かけて山を越えてただひとつの'町'レオレワに行き物々交換する。日本の学者やカメラマンが日参して暮らしを記録したりしているが、興味本位ではむしろ迷惑だろう。 与えられたエンジン船は使われず朽ちかけている。発動機は油がなければ走らない。

アロール
 最果ての島に巨大なドンソン(銅鐸)が残っている。 紀元前後にヴィエトナムが残したともいわれるが、交易人は利があったからこれを置いていったのだろうが、それが何だったのか誰も答えられない。
 2800平方`といえば四国+淡路島より大きいが、そこに14万人が住んでいるとゆうが、外人が訪れるのは年間で20名以下だとゆう。 キャサバ芋などが主食なのだろう。

♪♪Raja Mauboli♪♪ 人口希薄な辺境にもかくなる古曲が伝えられている

スンバ   1230平方キロ   
 インドネシア列島で最も原初の姿を残している島と謂われるのは、島の位置のせいだろうか。
 モジョパヒトの王、西洋の簒奪者がチェンダナ(白檀)島と名をつけたが、馬と奴隷だけの不毛で閉鎖的な島は忘れられ干渉を受けなかった。
 1839年オランダはアラブ人首長でポンチアナクに住むシャリフ アブドウル ラフマンを派遣したのが島都ワインガプ(三万人)の興りで、良馬の名声と年間五百人の奴隷を輸出して、1886年にはカソリックが、1906年 Pacification Campaign(太平洋化)を図ったがフローレスのようには行かず、1933年まで少数の守備隊を残しただけだった。そのようなわけでオランダ植民の影響も、もしかしたらインドネシア独立、近代化からも最も取り残された(温存された)島になったのだろう。
 300キロほどの楕円形の島に 35万人が西のワイカブバク(8千人)と東のワインガプ25万人と別れるようにして住んで、表向きにはクリスチャンとかイスラムと言っても心中はアニミズムで固まっている。
 マラプの行者の念力は相当なものとゆう。 生け贄とか首狩りは原始的なものではなく、宗教儀式だが1920年に禁止された。
 最近スンバのイカット織り(ワインガプ近在のPrailiu,Kwanguなど)はデザイン配色で高く評価されて、首都の外人間で薬九層倍で取引されているが、この島の魅力は旧弊温存、石造遺構とパソラ騎馬戦だろう。
 島の東は一応ひとつの言葉だが、西側は七つの言葉で喋り未だにラジャが祈祷師とともに支配し、丘の上の村は防御第一に造られている。 巨石遺構は多い。11月の満月にはマラプ新年など独特の祭事が西の町Waikabubakの周辺 Tarung, Wanukaka Lamboya,Anakalang,Kodi はトラデイッショナルMarapuの部落で、七月から十月にかけて Wula Padu(苦い味)祭りがある。
 Purunga Ta Kadonga は二年おきに開かれる。
 Pasola 騎馬戦: 満月の後、2月にランボヤ、コデイ村で始まる'予選'Nyaleが三月にガウラ、ハヌカカ村と進行して、駿馬に跨る古代衣装の騎士が陸続と集結する様はとても現代とは思えない。昔月の王様の娘ニャレーに因む行事とゆうが、騎士は文字通り栄光に命を賭けるから毎年事故者がでる。余りの死傷者に政府も黙視できず、監督官を派遣して長槍の穂先にタンポンを付ける指導をしたが伝統の力で守られない。

Roti, Sau
 スンバとチモールの間に点在するロテイ、ンダオ、サウ、ライジュアの小島群はパーム椰子(lontar)の島とゆうだけで知っている人も少ないが、周りと違うことだけが流れてくる。
 サウにはミステリアスな噺がある。
 1770年かのジェームスクック最初の太平洋調査で壊血病に悩まされながらこの島を'発見'した。そこで彼はマスケット銃で武装した白人に遭遇したのだ。名をAma Doko Djaraと Johan Christopher Langeでサクソニイから来て十年たつと言った。オランダV.O.Cはなぜかこの島々を優遇し島民も兵隊でチモールでの黒ポルトギスとの覇権に参加した。
 ロテイはV.O.Cも旧習を温存したので今でも小さい17の部族社会が海抜350米のこの小さい島にラジャがいるが、1749年にオランダがチモール西半分を領有してから中心はクパンに移ってしまう。
 パーム椰子ロンタルが家から食料の全てを賄うが最もユニークなのがササンドとゆう弦楽器で9本から40弦のものもある。Ba'aの町は3千人ほどか。古くから客人には妻出し接待Tilangga の習慣が残っている。
 隣島のンダオは村民すべてが金銀細工師、宝石行商で暮らすおかしな島である。

【Up主の註】
<1> クラカタウ大噴火の直前に電信網が世界中に張り巡らされ、噴火開始から二時間後にはロンドンのロイド商会に噴火の情報が届いていた。どこの電信局ででどう間違えたのか、西洋ではクラカトアと呼ばれている。クラカタウ噴火の記念碑はこちらに。
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作成 2018/08/28
追加 2018/08/30

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