慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第5話 歌聖の系譜
歌聖 イスマイル マルズキ
1914〜1958


 インドネシアの誇る天才ソングライター Ismail Marzuki は、独立戦争を挟んで多くの傑作歌謡曲を世に送りそしてあっけなく世を去った。

 ジャカルタに生まれオランダ教育を受けた多感な青年は、あたかもラジオ放送開始の波に乗りクロンチョン音楽の秀作を次々と発表しそのいずれもがヒットした。
 独立戦争の最中、国威掲揚歌はたまた軍国歌謡と呼ばれる作曲もこなしたがすべてがシニックなロマンに溢れ勇壮曲がないのも、彼の叙情的センチメンタルな性格を表し、かつそれを強権で禁止しなかったこの民族の懐ろの深さを感じる。

 現在まで半世紀以上が経ち共和国の音楽界もはたまた聴衆も大きく発展して今や音の洪水となっているが彼に並ぶ才能は見出せず、彼の作品が建国と民族自決に果たした役割は計り知れず、将来にわたりその名は語り継がれるであろう。
 彼を記念して市中央にある国立芸術館はタマンイスマイルマルズキ(TIM)と呼ばれている。
♪♪Sepasang Mata Bola, Selendang Sutra, Gugur Bunga♪♪

Gesang Martohartono
 名曲ブンガワンソロ<1>はクロンチョンがそのアイデンテテイを形作る1940年に中部ジャワソロ生まれの竹笛奏者グサンにより作曲された。
太平洋戦争での三年余の日本軍占領時代陸軍宣撫班ラジオ放送冒頭にこの曲が流れて日本兵士に知られ復員帰国時に日本に持ち込まれ日本語訳詩で外国曲としては空前のヒットとなった。
 この叙情的佳曲はたおなやか南国の情緒を彷彿とさせ、インドネシアを表す無二の曲になり両国の架け橋になった。他の国でそのような曲はないからその意味からもインドネシアは本曲があり幸せだ。
 一滴の雨も集まり流れれば舟をも浮かべられると独立心を鼓舞する詩だとする識者もいるがグサンは黙している。彼は政治的な人ではないから只純な気持ちで郷里の川の情景を詩にしたのだろう。

国歌Indonesia Raya
 格調高い「偉大なるインドネシア」はスプラットマン(Wage Rudolf Supratman 1903-37)が民族自決機運が強まった1928年10月、第二回インドネシア青年会議で発表して感銘を与え独立後国歌とされた。この会議は「青年の誓い」として文化伝統言語が異なる各出身地青年が唯一の祖国インドネシアを宣誓した極めて重要な決意表明だった。
スプラットマンはジャカルタ生まれのクロンチョン奏者だったが作家として民族運動に参加するが発禁となり作曲家に転進した。

【Up主の註】
<1> Bengawan Solo = ソロ河
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作成 2018/08/24
修正 2018/08/25
追加 2018/08/30

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