慢学インドネシア 庵 浪人著
第二章 歌のふるさと
第4話 Irama Melayu
 シンガポールがまだトゥマセックと呼ばれていた時代に、狭いマラッカ海峡を挟むスマトラ、マレー半島両岸からリンガ、リアウ多島海域には、その後この地域を決定づけるといっても過言でないムラユ文化が息ずいていました。イスラムを深く信奉する人々で、文化は言葉(ムラユインドネシア語)習慣、服装から芸能まで幅広く深い影響を持ち、その後インドネシアと呼ばれる大列島国の人々の心の拠り所となってゆくのです。
 ラッファルズが先見の明で、シンガポールをこの地域の要石としてから、西洋の二国が割拠した経緯で、その後マラッカ海峡に国境が出来て二国に分割されても、ムラユ語はそれぞれの国の国語であり続けます。
 しかし今、それは呼吸するのに空気の存在を忘れるように、興味を持つ人も語れる人も少なくなりましたが、余りにも深く人々の心の底流になっているからなのかも知れません。
 古代、スマトラには数々の王国が誕生しました。
 狭いマラッカ海峡を挟んだマレー半島は深い密林だったので、そこにスマトラから移住したのがミナンカバウ族で、マレーシア、ネグリスンビラン州はいまだに祖先は彼等だと公言し言葉も受け継いだのがインドネシア語のマレー祖語だといわれます。
 歴史はくだってインド洋を渡って東進したイスラムはこの狭い海峡の両岸を教化しながらマラッカ王国を創ります。
 東西海上交易の重要な関門がマラッカ海峡で、商品を通して多民族と文化が交流しました。スマトラアチェからミナンカバウ、パレンバン、ジャンビ地方から海峡を挟んだマレー半島先端部のリアウ、バンカ諸島が最初にイスラム教に入信し堅固な信仰を広めます。
 有利な取引をするには売り手の考え(宗教)に入信するのが手っ取り早かったのでしょう。
 イスラムは太い一本の道をジャワ海を通り、マカッサルから遥かテルナテに伝えます(ほんとうはテルナテが先)。
 歌謡は無形文化で、形がなく消えてゆくものですが、形ある物より深く人々の心に刻み込まれます。
 イスラム、オリエンタル風の芸能はこうして伝播していったのです。もう誰にも奪うことの出来ないこの地の人々の心の糧となったのです。
 インドネシア歌謡の黎明は、殖民都市バタヴィアからはじまったのは定説です。
 ポルトガルラスカル達(船乗り)が運んだ西洋リズムで、コロニアルシテイの気風にあって愛され、風土に適合するように変わっていきながら、クロンチョンとして一世を風靡します。
 時代が変っても、クロンチョンは洋風曲に姿を変えながらポップスセリオサとしてインドネシア独自のメロデイで人気を博しています。

 ムラユはmeLayu(しぼむ)枯れてしまったのでしょうか。
 ある年、突如として耳慣れないリズムを奏でる若者があらわれます。そのプロテストソングは直情煽情的で、優雅なクロンチョンからみれば下級な大衆芸能と陰口も聞かれました。
 私たちの音感は好むと否とに係わらず、明治維新からの学校教育で習い覚えた洋風唱歌から出発しています。故郷の空(スコットランド民謡)、旅愁(オードウエイ作曲)などなど。
 音頭と呼ぶ在来曲は古い大衆曲だとされた頃もありました。首都ジャカルタでも なにか共通するフィーリングが感じられました。
 大衆に愛されてこその歌謡であれば、このニューリズムダンドウットが容れられるのは時間の問題で、爆発したように全土を席巻してしまいました。
 30年たってもダンドウットは衰えを知らずにインドネシアを象徴する歌謡で成長します。
 このリズムは西ジャワの地唄ジャイボンガンやジョゲット(踊り)から発しているのは明らかで、それにドラムやキイボードなどのモダンで強烈なリズムが和します。
 流行り歌に理由づけなど要らないのですが、このエネルギーはいったい何処から来るのか興味は深まります。
 ある日、イラマムラユを聴いてハッとしたのです。
 ダンドウットのルーツはここにあったからです。だから息が長い流行をみるのは当然です。そのこ人たちの心に深く宿っているリズムだから。
クロンチョンがバタヴィア殖民都市に咲いた濃艶な仇だ花なら、ダンドウットはジャカルタのムラユ狂い咲きと申しては失礼ですが、ムラユを基盤としたプロテストソングだったのですから。
 正統ムラユを信奉する人には、ダンドウットはヒンデイ映画を真似したタブラだと軽蔑(あまりの爆発でやっかみ?)という時もあるほどですが、ムラユの家族に変りはないのです。
 ムラユ芸能はイスラム伝播の波に乗ってやってきたリズムで、アチェ州のIramaTablaが発祥といわれています。
 タブラとはインド伝統打楽器で、この地のグンダンと呼ばれる太鼓に似ています。ふたつペアになっていて、皮の張りをアジャストでき、音程を変えられます。
 アラブの、オスマントルコの、インドデラジャートの、それは私たちには遠いばかりでなく まったく知らない世界から湧き出る抑揚で、不埒にもイスラム唱和の不協和音にも似た旋律は、聴くほどに今までに無い興奮を齎しました。オリエンタルの血なのでしょうか。
 ムラユ文化は西欧列強の圧力があっても、しぶとく生き残っているからこそ、私たちには突然としか映らないダンドウットの爆発もムベなる哉、当然の帰結なのでしょう。
 ムラユ芸能を聴いていると、マラッカの細海から連綿として繋がり東に至る道が見えます。
 ポップ歌謡曲として好んだスマトラミナンの曲も、マカッサルの歌も、テルナテの節も、その底辺にムラユ節が巧妙に隠されていたのです。作曲者も気ずかない空気のような。
 私には異質でしかも心地いいインドネシアポップスの旋律は、ムラユが基盤にあったのを知って、畏怖の念すら覚えたのは、そこに私が知らない明らかな偉大な文化があったからです。
 イラマムラユはこうしてこの地域に根ずき、種族の大小を問わず、部族音楽としてボルネオの少数民族にも淘浸しました。
 ボルネオサバ州のMenbakutの漁師の歌Adoi, Mahihilangはムルット族の首狩り祈願、Mongigolはクダット、クウイジャワ族の竹竿踊りに、Limbai,Kudaなどなど。
 サラワク州にはイバン、カヤン、ビダユ族のNgajat,Painaなど独自のリズムを持っています。
 本場マレー半島ムラユアスリ(オリジナル、オーセンテイック)は、本来はスローテンポで優雅な宮廷曲ですが、これにInangと別名Tarian Sikumbang Cinta(番茶も出花の恋の歌?)が人気を集めて、彼ら自身がニューリズムを探し求めたのでしょうか。
 タイと国境を接するブルリス州には多くの芸能が息ずきます。幼児の髪剃り儀式のBerendoi, Canggung, クランタン州の掛け合い唄Dikir, カスタネットを打ち鳴らすBolakBolak, アルラーの栄光を詠いあげるHadrah, ガンブスと呼ぶ打楽器を使う有名なQuasidah, 聖戦ジハド賛歌Dabusはルバブを鳴らします。
 ジョホールのインドコミュニテイで歌われるGhazalはウルドウ語です。いま観光客にエキゾチックなオリエンタル風情を醸す Zapinもやはり19世紀にペルシャからリアウに伝わったといわれます。
 そんな中で、この地の伝統のスンダ地唄、マレーイスラムのリズムからダンドウットが生まれて大流行していまが、これも原形はイナンだといいます。
 極く最近、若い人たちの間にNasyidとゆうイスラムコーラスが爆発的流行を始めたといいます。これはそれまであったクアシーダハンのようにイスラムの教条を歌に託して歌い上げるものだそうです。 流行に敏感な若者は、それはともすればアメリカ文化の受け売りのようなわが国とは違って、イスラム文化が根強く影響している証しで、日本にはまったく達しなかったオリエンタルの大きい流れがあるようです。

 インドネシア歌謡は、15世紀のポルトガル系リズムに南国の風情が調和したバタヴィアコロニアル風リズムクロンチョンが リードしたのが定説ですが、 Dondangは同時代マラッカで生まれたラブバラードで、それはクロンチョン初期のパントン四行詩を用いる小品群と酷似しています。Jogetとはジャワでは踊りを意味しますが、これは本来ポルトガル起源のBranyoが前身で、歌(ポルトガルクルウニー語)はRonggengと呼ばれています。
私たちはともすると、その出生や系統だてた正統性を談じますが、ここにはそんな懐ろの狭さは微塵もなく、洋の東西が渾然として重層する文化を産み出してきたのでしょう。
 クロンチョンを決定づけたのが歌聖マルズキなのは申すまでもありませんが、彼の佳曲Lambayan Bungaは当初ムラユで歌われ、そのほかにも作品があるのです。
 クロンチョンの始祖トウグポルトガル村(1661年)の編成には必ずレバーナ(大型片面タンバリン)が参加するのも、大きな歴史のうねりを感じます。
♪♪Terang Bulan♪♪ 最古の歌謡曲といわれる  歌詞を替えマレーシア国歌にまでなった
 ここで演奏楽器について少し書きましょう。
Tabla: ムラユ音楽を決定づける音は、ムラユの別称でもある北インドから伝えられた大小ふたつのタブラで、調律出きる太い紐で皮を張っている太鼓です。高度な技法はインドでマレーシアでは地味でガザル演奏で多用されます。
Gendang 両面太鼓の総称で、やはり2セットを用意します。
Kampang 小型太鼓でタンバリンに近く、多人数が違う音程とリズムで全体がひとつのビートを作ります。
Rebana これも太鼓の総称で、直径50aから1bまであり、主に農村で使われます。
Gong 銅鑼 Tetawakとも呼ぶ。各小節の頭打ちに登場します。
Gambus ウードに似た9-12弦弾楽器で、Ghazalに使われる。
Sape ボルネオ山岳地の舟形3-5弦楽器。
Nafiri: 胴長な銀製金管楽器で、Nobatで使われる。
Selumprit 竹四つ穴リード楽器でジャワが起源。
Seruling スウリンともゆう竹笛。Serunaiはリードが複数ありシラット武術の時吹かれる。
Rebab: 中東起源で弦は2-3本。弓を使う楽器には二胡、胡弓もある。
ヴァイオリン 1511年ギターとともにマラッカに齎されたといわれ、その後ルバーブと交代した。
アコーデイオン 19世紀に使われだし人気がでた
:
 マレーシアの俳優で歌手のラムリイがスニムラユを復活させたといいます。
 インドネシアのムラユ音楽は、Husein Bawafie, Said EffendiがリードしてSeroja, FatwaPujangga, Diambang sore、Budi, BahteraLajuなど多くの佳曲をリリースしています。
 Kamariah Nor, Sharifah Aini, Herman Tino, Salomaなどが70年代活躍します。若い歌手NoranizaIdrisはCD Sawo Matang, Iktirafで正統ムラユを唄います。
 インドネシアではBenyamin Sが有名で、ロックが流行る街で、今彼の記念館を作るほどの名があります。NurAinun, A.Kadir, Ida Laila, Rama Aiphama, Muchsin Alatasがヒットします。
 そこには強烈なオリエンタル文明が垣間みえます。単純な短いフレーズを繰り返しながらも歌い手により、その心により、同じ曲でも抑揚はまったく異なり、それでいて歌はそれぞれ完成しているようにみえるのです。
♪♪Makan Sirih N.N♪♪  とても古い歌、歌手により抑揚は非常に違う
Makanlah sirih berpinanglah tidak berpinanglah tidak   Sirihlah ade dibukti piatu
Toleh ke kiri ke kanan pun tidak ke kanan pun tidak   Barulah kutahu dagang piatu x3
Makanlah sirih mohon berhenti
Putra makhta memakan sirih Hai memakan sirih  Datuk panglima bermain pedang
Putusnya kasih janganlah bersedih Hai janganlah bersedih  Kalau bersedih tentunya menangis
Kasih yang putus janganlah dikenang Hai janganlah dikenang  Sudah menjadi hai seorang lain
Makanknlah sirih berlarut malam Makanlah sirih berlarut malam
 シリを噛もう、嫁とりも出来ないのだから、
 振り向いても、右にも左にも誰もいない 俺はひとりぼっちの行商人
 シリでも噛んで終わりとしよう
お偉いさんの息子が求婚した シリでも噛もう 長老は剣舞を舞い、恋は終わり諦めよう、悲しまないで
 嘆くな、悲しめば涙が溢れるから 切れた恋の想いをひきずるな、この思い出ももうよその人のもの、
シリを噛んで夜が更ける、夜が更ける、、 (pinang−シリ煙草と求婚の意が重なる)

♪♪Tudung Piruk Asli♪♪ ♪♪Tudung Piruk♪♪
Tudung Priuk とんがり帽子          NN Deli Melayu
 マラッカ海峡を挟むムラユ共通文化圏の古い歌。ご飯を炊く釜の蓋は王様のとんがり帽子に似ている。それを被って無邪気に遊ぶ子等の着物は私があげた古着、涙を拭く着物か。
Tudung priuk Tudung priuk pandailah menari,
Permainan anak permainan anak hapslah makota(dari kuala)
Kain yang buruk kain yang buruk yang berikan kami
Untuk menyapu untuk menyapu si airmata

Keagungan Tuhan (Insyaflah wahai manusia 初期の曲名)  cipt:Malik BZ
 60年代にビッグヒットし、最近ダンドウットでリバイバルしたムラユ名曲
nsaflah wahai mamusia jika diriku bernoda
Dunia hanya naungan, tuk mahluk ciptaan Tuhan
Dengan tiada terduga dunia inikan binasa
Kita kembali keasalnya mengharap Tuhan yang esa
Dialah pengasih dan penyayang kepada semua insan
Janganlah ragu atau binbang pada ke− Agungan Tuhan
Betapa maha besarnya kuasa alam semesta
Siapa selalu mengabdi berbakti pada ilahi
Sentosa selama lamanya didunia dan akhir masa
  私たち人間は過ちを改めなければならない、
   この世は単に仮の宿で、生き物は神が創り給うたものだから、
  この世は予測できないもので、崩れ去ることもある
   私たちは偉大な神の前に原点にたち戻らねばならない、
  神は慈悲深く、生きとし生きるものを慈しむ
   不安をおぼえたり迷ったりしてはいけない
  偉大なる神、なんと大きな大自然の支配者
   不滅永遠なるものはどなたか、神への信仰、
  常にわが心は安らぐ、この世が続く限り、、。


 現在のイラマムラユはマーケットの広がりで、古典、宗教色の濃い曲、オリエンタル調の強いもの、ポップに近寄ったものなど雰囲気はさまざまです。ダンドウットもそのなかから現われたリズムのひとつと申せましょう。

ムラユ族
 スマトラ東岸、マラッカ海峡の島々、マレー半島の川筋、ボルネオ沿岸部で活躍した種族で、現在はマレーシア、インドネシアに1500万人、その他タイ、ミャンマー、フィリピン、スリランカなどに300万いるといわれる。
 ムラユが創ったとされる王国は、パレンバン、ジャンビ、パサイ、マラッカ、ジョホール、リアウと拠点を変え、バタニ、ブルネイにも王国ができたが、言語慣習を中軸とするムラユエスニシテイの伝統が固まったのは十五世紀前後のマラッカ王朝期であるとされる。アダット(慣習)は生活規範と受け継がれ、王族貴族と庶民の礼儀作法、村落内の掟、婚姻相続、各種の禁畏(Pantang)を含むイスラムがアイデンテテイ。
 マラッカ王国始祖パラメスワラ(?−1413?)はパレンバン出でスマトラパサイからイスラムに改宗したとゆう。アユタヤや鄭和朝貢、1465年から1511年にかけて琉球王国、インドグラジャート、ジャワからも交易船が訪れる広い海洋貿易国だった。1509年ポルトガルが来航し1511年アルフォンソデアルプケルケにより占領されたが、国王マフムードシャーはジョホールに遷都した。
 民族人類学ではマラヨポリネシア語族として一層広義に分類され、狭義でのムラユとは区別されよう。
 ムラユの語源としてはジャワ語の逃げるからきたとする通俗語源説、ドラヴィタ語の山Malaiとする、マレー年代記巻二にマハメルを源流とするムラユ川からきた地名起源説もある。

ムラユ国: スマトラジャンビの古代国家。 七世紀の末羅遊(瑜)が初出。通常682年スリウイジャヤに滅ぼされた説があるが、スリウイジャヤがマレー半島から遷都した説もある。
 その後1030年のマライウルまで史料はなく、カルタネガラ王1275年のパララトン(ジャワ王朝年代記)にPamalayu遠征を記している。

マレー人: ムラユ語を語源とする人たちで、古典分類では原マレー(プロト)と新マレー(デュエトゥロ)に区分され、前者はバタック、ダヤク、トラジャ、ニアス、後者はジャワ、ミナンカバウ、バリ族などであるとゆう。
 人類学上のマレー人種はモンゴロイド系南方亜種で5大人種のひとつであるが、ムラユは特定の種族を指しマラヤ、マレーシアは政治用語で、マラヨは言語学で使われる。   
                                                                  インドネシアの辞典 同朋舎出版
 マレー、マラユ、ムラユは同義であるが、使用目的によって使いわけているようで、甚だ混乱している。

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作成 2018/08/24
修正 2018/08/25
追加 2018/08/30

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