ダビデの星とベツレヘムの星

第九章 イエスの誕生年 -4-(星についての記録)

BC7年のその「星」について、西欧にその記録はあるのでしょうか。
BC7年の、土星と木星の大接近については、ユダヤ人の聖書の記録だけでなく、バビロンのシッパルの占星校の観測予測記録にもありましたが、そのほかにもあるのです。
この時の星は、ローマ帝国の西部でも観測され、注目されました。
しかしローマでは、バビロンの天文学者のように、「ユダヤ人の王が生まれた」とは、解釈していません。
ローマ帝国では、ときの皇帝アウグストウスを、人間の姿を取ったジュピター(ユピテル=木星)と考えていました。
また金星は、アウグストウスの属するユリウス家の星と考えられていました。
さらにローマでは、土星は、黄金時代の象徴と考えられていました。
BC7年の大空の出来事は、アウグストウスの生涯の輝かしい頂点を示すものだと解釈したのです。
後にのべますが、BC7年は、早春に木星と金星の接近(相合)が起こり、春から夏と晩秋にかけて木星と土星が三回も大接近しました。
アウグストウスの星である木星に、ユリウス家の星である金星が接近し、次に、黄金時代の象徴の土星が接近したのですから、アゥグストゥス万々歳だったにちがいありません。
BC7年は、皇帝の妃リウイアの連れ子で、後に皇帝となったティべリュウスが、ゲルマン民族を討伐し、ローマで凱旋式をおこなった年でもあります。
BC7 は、アウグストウスにとって、間違いなく、この地上での最高の権勢の絶頂にのぼりつつある年でした。
ローマ人が、接近のため大きく輝く星をみて、皇帝の生涯の輝かしい頂点を示すと考えたのも無理はありません。
BC7年の晩春、同じ星空の事件は、エジプトのアレキサンドリアでも、アゥグストゥスに結びつけて迎えられました。
アレキサンドリアの貴人カティリュウスは、晩春の木星と金星の接近(相合)を見て感激しました。
エジプトでは、金星は、イシス神の星でした。
そこで彼は、イシス神(金星)とアゥグストゥス(木星)の会合だと解釈したのです。
彼は自ら、遠路はるばるナイル川の上流へと旅をし、フィエラ島にあるイシス神の神殿を詣でました。
そして、神殿の前庭に、イシス神と皇帝の会合を歌った碑を立てました。この奉納文は、現在も残っています。

BC7年のベツレヘムの星の物語は、聖書の神話物語では決してなく、ローマ帝国の東の端でも西の端でも、また南の端でも、一様に観測され、注目された、歴史上の事実なのです。
また、神秘的奇跡でもなく、神の創造された自然の仕組みなのです。
そしてこの自然の仕組みは、新バビロニア時代という、今から2500年以上も昔から、この星空の出来事として、天文学者に予測できていたのです。
マタイにしろルカにしろ、聖書記者たちは、ひたすら事実だけを、尾に鰭つけず、飾らずに、そして正確に記録したのです。
だからこそ、この星空の記録も、近代科学の先端であるコンピュータの結果とも、なにもかもピタリー致するのです。
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