ダビデの星とベツレヘムの星

第八章 イエスの誕生年 -3 -(星の相合)

(1) 新星
水素ガスの燃えている恒星(光る星)は、水素ガスの大部分を燃やし尽くすと、内部の温度がさがりはじめ、重力による収縮力が、熱による膨脹力に勝って、星は収縮し始めます。
収縮によって発生する熱は、太陽の1.44倍以下ですと、冷却のほうがまさり、最後には光らない星(自色倭星)となってしまいます。太陽の1.44倍以上ですと、あまりにも質量が大きいため、冷却より、収縮によって発生する熱のほうが勝り、内部温度はドンドン上昇します。
しまいには、60億度にもなり、鉄がへリュウムに急激に還元される化学反応が起き、その瞬間に莫大なエネルギーが発生し、大爆発します。
この瞬間、実に太陽が10億年に放出するエネルギーを、1秒間に放出するのです。
そして、2~3週間にわたり、2億個の太陽が出す光に匹敵するほどの光を放出します。
これを地上から見ますと、普通の明るさであった星が、突然に強く輝きだし、時には、昼の空でもそれを見ることが出来るくらい、明るくなります。
これが、「超新星」と呼ばれるものです。
イエス誕生の時、ベツレヘムの天空に輝いた星は、この「超新星」だったのでしょうか。
地中海沿岸の記録では、非常に珍しい輝きの星があらわれたのは、イエス誕生前後では、BC134年のものと、AD173年のものと二回しかありません。

(2) 流星
彗星の核は、雪ダルマのようで、太陽の幅射にさらされると、雪片や塵の破片をボロボロ崩しながら、軌道上を進行します。
彗星の通過した直後に、地球がそのあたりを通りますと、この雪片などを、かぶることになります。
しかしこれらの雪片は、地球の大気に突っ込むことになり、光っていたものが、すぐに消えてしまいます。
これが、流れ星です。
しかし聖書は、その星の輝きが、流れ星のように、短い時間であったとは、記録していません。
雪片の流れ星と異なって、彗星そのものは、毎年現れるのですが、地球から肉眼で見えるほどの大替星は、一度現れると、つぎは、おおよそ100年後といわれます。
しかし,イエスの誕生の頃に現れたという記録はありません。
BC44年3月、大熊座の下に現れた彗星は、七日間も肉眼で見えたという記録があります。
ローマの市民たちは、皇帝カイザルが暗殺された3月15日の後にこの星を見ましたので、カイザルが不死の神々の列に加えられて、天に昇って行く姿だと噂しあったとも記録されています。
AD66年にも大彗星が現れています。この時は、間もなく皇帝ネロが自殺しましたので、ローマの市民はネロ自殺の前兆だと解釈しました。
このAD66年の星を、イスラエルの民の一部の人たちは、後になって、「神様の前に罪を犯したエルサレムの滅亡の前兆だ」と解釈しています。まもなく、AD70年8月に、エルサレム神殿はローマによって、炎上してしまったからです。
しかし、イエス誕生の年と思われる年の前後には、彗星の現れた記録は、地中海沿岸のどの国にもありません。
当時のギリシャ、ローマ、バビロニア、エジプトの観察記録は、細部まで実に正確であることは、今日のコンピュータ結果と全く同じで、大きな出来ごとの見逃しもありません。
ベツレヘムのその星は、彗星ではありませんでした。

(3 ) 惑星
もう惑星しかありませんが、火星や水星や木星などが、突然いちじるしく輝き出すなどということは、ありえませんし、そんな記録はどこにもありません。
ですから、未信徒は、イエスの誕生を飾る神話だと決め付けてきましたし、いまでも、そんな人たちばかりです。
信徒でも、「神様の直接的な啓示による、特異の現象、超自然的な光の輝き」と信じている方が多いのです。
1603年11月17日、南ドイツ生まれで帝室数学者兼天文学者ヨハンネス・ケプラーは、プラハで、夜通し小さな望遠鏡で、二つの惑星が接近するのを、観察していました。
二つの天体が、同一線上で近付くことは天文学の専門用語で「相合」と言います。
この夜の「相合」は、土星と木星が魚座の中で近付いたもので、この年は、水星もこの二っの星に近付きましたが、大接近ではありませんでした。
しかし彼は、二つの天体が大接近すれば、一個の大きな星に見える筈であり、イエス誕生の時の聖書の記録するその星は、惑星の大接近に違いないと考えました。
先生のチコは、「観測のチコ」として有名ですが、弟子のケプラーも「計算のケプラー」といわれた天文学者です。
ケプラーはその後、計算に明け暮れ、その結果、紀元前7年に、土星と木星が三回「相合」することを突き詰めました。
この魅惑的な発見は、著述のーつとして発行され、多大の賛辞を受けました。
しかしケプラーには、ニュートンやガリレオのような「力学的考察」がなく、彼の主張する天体原理には、素晴らしい研究結果も、怪しい結果もありましたので、彼は、学者にして山師、天文学者にして占星家という、かんばしくない評価をされていました。
ケプラーは、自分の計算ではBC7年に星が大接近するという結論に達しましたのに、占星学のある表に「大きな星のあらわれるのはBC6年]とあるのを見て、マリヤの妊娠がBC7年、イエスの誕生はBC6年と結論づけたと言われています。
彼は、神秘主義者としても知られていましたので、彼の折角の功績も信じない学者のほうが多かったのです。
しかし、ケプラーからおよそ320年後の、1925年というごく最近になって、ドイツの学者P ・シュナーべルは、26頁で述べました、新バビロニア時代から、シッパル市にあった占星学の学校の、模形文字の観測日報の解読に成功しました。
沢山の日報の中に、BC8年末からBC7年にかけての予測的星暦がありました。(今日、保存されています)
このシッパル星暦には、BC7年の、全ての惑星の運行や、接近を、月日を明示して正確に計算してありました。
BC7年、魚座での木星と土星との接近が5回(大接近3回)あることが示されていたのです。
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