ダビデの星とベツレヘムの星 第三章 イエスの宣教開始年とイエスの十字架の年 |
3.1 イエス宣教開始AD26年説とルカの記録 イエス宣教開始AD26年説は、聖書の記録と合致しないものです。 ルカは、ヨハネが神の言葉を聞き、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた」時を、非常にこと細かく記録しています。(ルカ3 : 1 - 3 ) 史実としてその時が明確である四人と関係する記録から、イエスの宣教開始年を調べてみましよう。 |
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(a) |
ノレカは、その時は、へロデがガリラヤの領主であったと記録しています。(ルカ3 : 2 ) |
(b) |
ルカは、その時は、アンティパスの兄弟フィリポが、イトラヤとトラコン地方の領主であったと記録しています。( 3 : 2 ) |
(c) | ルカは、その時は、ポンテオ'ピラトがユダヤの総督だったと記録しています。 ( 3 : 1 ) 史実ではこうです。へロデ.アンティパスの実兄にアルケラオがいて、父へロデ大王の後を継いで、ユダヤを治めていましたが、その圧政がローマに訴えられて、AD6 年にアウグストウス皇帝に追放され、ユダヤの地は、ローマの直轄領に組み入れられています。 アルケラオの圧政とは、次の通りです。 へロデ大王の時代、エルサレム神殿の玄関で、ローマの象徴である黄金のワシを斧で叩き切ったユダヤ人学者がいました。 へロデ大王は、この学者とその師を生きながら焼き殺しました。 ヘロデ大王がBC4 年に死ぬと、ユダヤ人たちは、その死を悼む代わりに、大王の跡を継いだアルケラオに、焼き殺された二人ユダスとマッティアスの償いを要求したのです。 アルケラオの返事は軍隊でした。 2000人がたった一日で惨殺され、神殿の内庭には、死体が散乱しました。 へロデ大王の殺害の手を避けて、エジプトに逃れていたイエスと両親が、へロデ大王の死を聞いて戻って来た時「しかし、アルケラオが父へロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこにいくことを恐れた」(マ夕イ2 : 22 -23 )とありますが、イエスの両親が「恐れた」というのは、こうした歴史的背景があったからです。 へロデ大王の息子アルケラオは、不義不正残酷さにおいて、その父にひけをとりませんでした。 アルケラオがアウグスト帝に追放された後のユダヤは、ローマの直轄領となってからも、帝室財務官サビヌスの神殿財宝持ち逃げに端を発したユダヤ人の反乱騒ぎなどあり、サマリヤの総督であったピラトが、ユダヤの総督も兼ねることになったのは、史実では、AD26年とあります。 ちょうどAD26年ですが、このことからも、ヨハネとイエスの宣教開始AD26年説は、間違いとは断定できません。 |
(d) | ルカは、その時は、皇帝ティべリュウスの治世の第15年と記録しています。(3 : 1 ) ティべリュウスが、ローマの皇帝となったのは、AD14年です。ですから、彼の治世15年といえば、AD29年です。 イエスの宣教AD26年説とは合致しません。 AD26年説を主張する人たちのなかには、ティべリュウスが摂政の位に就いた時から起算するなどと、苦し紛れの辻棲合わせをしている人たちもいます。(Expositors Greek Testament 、ツアーン等) しかし、イエスの死の年から逆算しても,AD29年説が正解です。 |
3.2 イエスの十字架の年とイエス宣教開始年 モーセは、イスラエルの民に、神様に選ばれた特別の民族としての、生活基準を示しています。(レビ記23 : 1 … 8 ) |