ダビデの星とベツレヘムの星

第三章 イエスの宣教開始年とイエスの十字架の年

3.1 イエス宣教開始AD26年説とルカの記録

イエス宣教開始AD26年説は、聖書の記録と合致しないものです。
イエスは、バプテスマのヨハネと親戚関係にあり(ルカ1 : 36 ) ,ヨハネの母エリザベトとイエスの母マリヤは、三ケ月一緒に暮らしたことがあります。(ルカ1 : 39 , 1 : 56 )
この時、マリヤはイエスを身龍もったばかり、エリザベトはヨハネを身龍もって6ケ月でした。
'このヨハネは、紀元前700年ほども昔、預言者イザヤによって、「キリストの先駆者としてこの世に遣わされる」と預言されていましたし(イザヤ書40 : 3 )、預言者マラキ(BC450?400)によっても、同じように預言されていました。(マラキ3 :23)
事実ヨハネは、イエスよりほんの少し先に、ヨルダン川沿いの地方一帯で宣教を開始しました。間もなくイエスはこのヨハネの所に来て、洗礼を受けて後に、「神の国(支配)は近付いた(始まった)、悔い改めて福音を信じなさい」と宣教を始められています。
ですから、イエスの宣教開始の時は、ヨハネが宣教を開始して間もなく後のことです。ヨハネの目的はイエスの先触れに過ぎませんから、同じ年と考えて間違いありません。

ルカは、ヨハネが神の言葉を聞き、「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝え始めた」時を、非常にこと細かく記録しています。(ルカ3 : 1 - 3 ) 史実としてその時が明確である四人と関係する記録から、イエスの宣教開始年を調べてみましよう。

 (a)

ノレカは、その時は、へロデがガリラヤの領主であったと記録しています。(ルカ3 : 2 )
このヘロデは、イエス誕生の時のへロデ大王の息子で、へロデ・アンティパスのことです。
史実では、彼は、ガリラヤの領主であり、ヨルダンの東岸地方ベレヤも治めていました。在位は、BC4年からAD39年までとあります。
このことからは、イエスの宣教開始AD26年説(ヨハネ宣教開始年)は間違いとはいえません。

 
(b)

ルカは、その時は、アンティパスの兄弟フィリポが、イトラヤとトラコン地方の領主であったと記録しています。( 3 : 2 )
史実では、へロデ・フィリポは、アンティパスの異母弟で、ガリラヤ北部と東部地方を、BC4年から、AD34年まで領主として治めたとあります。ガリラヤの北部と東部地方とは、イトラヤとトラコン地方のことであり、ルカの記録は史実どおりです。
このことからも、イエス宣教開始AD26年説は間違いとは言えません。

 (c)   ルカは、その時は、ポンテオ'ピラトがユダヤの総督だったと記録しています。 ( 3 : 1 )
史実ではこうです。へロデ.アンティパスの実兄にアルケラオがいて、父へロデ大王の後を継いで、ユダヤを治めていましたが、その圧政がローマに訴えられて、AD6 年にアウグストウス皇帝に追放され、ユダヤの地は、ローマの直轄領に組み入れられています。
アルケラオの圧政とは、次の通りです。
へロデ大王の時代、エルサレム神殿の玄関で、ローマの象徴である黄金のワシを斧で叩き切ったユダヤ人学者がいました。
へロデ大王は、この学者とその師を生きながら焼き殺しました。
ヘロデ大王がBC4 年に死ぬと、ユダヤ人たちは、その死を悼む代わりに、大王の跡を継いだアルケラオに、焼き殺された二人ユダスとマッティアスの償いを要求したのです。
アルケラオの返事は軍隊でした。
2000人がたった一日で惨殺され、神殿の内庭には、死体が散乱しました。
へロデ大王の殺害の手を避けて、エジプトに逃れていたイエスと両親が、へロデ大王の死を聞いて戻って来た時「しかし、アルケラオが父へロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこにいくことを恐れた」(マ夕イ2 : 22 -23 )とありますが、イエスの両親が「恐れた」というのは、こうした歴史的背景があったからです。
へロデ大王の息子アルケラオは、不義不正残酷さにおいて、その父にひけをとりませんでした。
アルケラオがアウグスト帝に追放された後のユダヤは、ローマの直轄領となってからも、帝室財務官サビヌスの神殿財宝持ち逃げに端を発したユダヤ人の反乱騒ぎなどあり、サマリヤの総督であったピラトが、ユダヤの総督も兼ねることになったのは、史実では、AD26年とあります。
ちょうどAD26年ですが、このことからも、ヨハネとイエスの宣教開始AD26年説は、間違いとは断定できません。
 
 (d) ルカは、その時は、皇帝ティべリュウスの治世の第15年と記録しています。(3 : 1 )
ティべリュウスが、ローマの皇帝となったのは、AD14年です。ですから、彼の治世15年といえば、AD29年です。
イエスの宣教AD26年説とは合致しません。
AD26年説を主張する人たちのなかには、ティべリュウスが摂政の位に就いた時から起算するなどと、苦し紛れの辻棲合わせをしている人たちもいます。(Expositors Greek Testament 、ツアーン等)
しかし、イエスの死の年から逆算しても,AD29年説が正解です。
 

3.2 イエスの十字架の年とイエス宣教開始年

モーセは、イスラエルの民に、神様に選ばれた特別の民族としての、生活基準を示しています。(レビ記23 : 1 … 8 )
テキストに関連する一部を下記に示します。
(a) 日曜から6 日間仕事をする。(当時は土曜が安息日)
(b) 7 日目(土曜)は安息日で仕事はしない(聖なる集会の日)
(c) 第一の月(ニサンの月)の14 日のタ暮れが、過越の時
(d) 翌15 日が除酵祭の初日(特別の安息日)
いかなる什事もしない。(聖なる集会を開く)
つまり、毎週一回、土曜日が、週ごとの安息日
年一回ニサンの月の15 日が、何曜日でも特別安息日
この生活基準は、神様の命令に従って定められたもので、特にニサンの月の15 日は「大いなる安息日」「特別の安息日」と言われました。
福音書の記者は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四人とも、十字架の日は、準備の日、翌日が安息日だったと記録しています。
「次の日、即ち備えの日の翌日… … 」(マタイ27 : 62 )
「その日は備えの日、即ち安息日の前日… … 」(マルコ15 : 42 }
「この日は準備の日でもう安息日が… … 」(ルカ23 : 54 )
週ごとの土曜安息日の前日の金曜日なら、わざわざ準備の日、備えの日と、四人が四人とも記録するほどのことではありません。
ヨハネは、「その日(十字架の日・金曜日)は、備え日(タ暮れが過越)で、翌日ぐ土曜)は、特別の(大いなる)安息日であった」と、記録しています。
つまり、十字架の日の金曜日の翌日は、ただ土曜安息日だったというばかりでなく、一年一回のニサンの月の15 日・特別の安息日が重なったということです0 (ヨハネ19 : 31 )
さて、イエス宣教開始AD26 年説によると、イエスの宣教期間は三年半ですから、イエスの十字架の年は、AD30 年ということになります。しかし、AD30 年のニサンの月の15 日は、土曜日ではありません。
イエスの宣教開始を、ルカの記録どおり、ティべリュウスの治世第15 年、つまりAD29 年とすると、イエスの十字架の年は、AD33 年ということになります。
そして、AD33 年のニサンの月の15 日は、土曜日なのです。
AD33 年の第一の月14 日(金曜)が十字架の日、翌日が特別の安息日(土曜)、そしてその翌日が復活の日曜日です。
 

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