ダビデの星とベツレヘムの星

第二章 紀元について

ローマ帝国は、コンスタンティヌス帝の回心後、テオドシュウス帝の時に(378?395)、キリスト教は、強制的にローマの国教とさせられました。
ローマ帝国は、395年に、西と東の二ケ国に分裂し、476年には、西ローマ帝国は滅亡しています。
西ローマが蛮族の小国に分裂すると、ローマ教会の教皇は、勢いを増レ、西欧における最も権威ある存在となりました。

東ローマ皇帝ユスティヌスは、キリスト教が世界的宗教になって来ましたので、これまでのローマ暦に代わるキリスト暦を作成しようと考えました。
そこで、その仕事を、修道士ディオニシウスに命じました。
ディオニシュウスは、いろいろな算出方決で、イエスの誕生年を、ローマ建国紀元754年としました。
こうして、イエスの誕生年を紀元の始めとする暦、キリスト歴=西暦が完成しました。
スクテヤ人であるディオニシュウス・エクシグスは、525年に「復活祭の書」という本の中に、この暦のことを発表し、9世紀の頃から、この西暦が一般に使われるようになったといわれています。
紀元前は、英語でBCと略しますが、Before Christ (キリスト以前)つまりイエス誕生以前のことです。
ADは、ラテン語のAnno Domini (主の年)の略で、つまりキリスト暦ということで、1219年から使われるようになりました。

しかしディオニシュウスのイエス誕生年算出には、いくつも誤りがあることが判明しました。
まず全ての学者が指摘するのは、彼のローマ皇帝の治世年数の計算です。アゥグストウス皇帝(BC31?AD14)が、オクタビオ(BC27?31)の名前でローマを4年間支配していたことを見逃していたのです。
このことから、イエスの誕生は、実際には紀元前4 年であると考えられるようになったのです。
そして、「イエスが宣教を始められた時は、およそ30才であった」(ルカ3 : 23 )の記録から、イエスの宣教開始は紀元26年と考えられるようになったのです。
ディオニシュウスの計算には、このほかにも、イエスの死を30才としていたなどとあるのですが、なぜか皇帝の治世年数の4年の計算違いだけが取り上げられて、イエス誕生BC4年、宣教開始AD26年が、何時の間にか定説となってしまいました。

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