ダビデの星とベツレヘムの星

序章

ダビデの星であるイエスが、ダビデの町ベツレヘムで生まれた時、本当に大きな星が輝いたのでしようか。
ベツレヘムの星の物語りは、イエスの誕生を飾るための神話なのでしようか。星を頼りにイエスを尋ねた博士の物語も神話でしょうか。
新約聖書のマタイによる福音書にしか記録されていませんが、西欧の記録に、その星に関するものはないのでしょうか。コンピュータによって進歩した現代の天文学は、その星の出現を証明しているのでしょうか。
イエスは、何時生まれ、何時宣教を始め、何時十字架にかかったのでしょうか。
今回は、上記の質問に対する「研究結果」を、どうぞ、北本聖書研究会からの「クリスマス・プレゼント」として、お受けとりください。
20世紀最後のクリスマスを記念して作成したものに、今年新たに追加を加えたものです。

第一章 イエスの誕生日


 イエス・キリストの誕生日を祝う儀式とか行事は現在では、普通全世界で、12月24日・25日に行われています。
しかし、イエス・キリストの生まれた正しい日付は、西暦元年12月25日ではありません。
年代も日付も、双方とも違っているということに関しては、クリスチャンでもクリスチャンでない人でも、歴史家でも神学者でも、だれでもが一致した意見を持っているのです。

聖書記者で医者のルカは、ルカ福音書2 章8 節で、イエスの誕生した時、ベツレヘムの近郷で、羊飼いたちが、野宿をしながら、羊の群れの番をしていたと記録しています。
「さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」
近代の気象学者たちは、この野宿で「夜番」をヒントにして、一年の内、羊を夜に放牧出来ない月を確認することにしました。
彼らはベツレヘムの南27 キロのへブロンを選び、まず第一に、あらゆる資料とコンピュータにより、このパレスチナの気候が、過去2000 年の間、ほとんど変化のないことを突き止めました。
次に、羊を野宿させられない月とは、霜の降りる寒い月のことですから、各月の平均温度を調べ、下記の三ケ月が霜の降りる月と分かりました。
12 月 平均温度2.8 度
1 月 平均温度1.5 度
2 月 平均温度0.1 度
更に、羊の野宿に無理な、雨の多い月も調べ、下記の二ケ月が無理と分かりました。
12 月 平均雨量6 インチ
1 月 平均雨量8 インチ
この結果から、12月25日に、羊を夜、放牧したままで野宿するようなことは考えられないと分かりました。

パウロがサウロと呼ばれていた頃の師ガマリエルの孫ユダ(170 - 217)は、ユダヤ人が旧約聖書とともに聖典としている「タルムード」を編集しました。
「タルムード」は、ユダヤ人律法学者の口伝・解説を集めたものですが、当時のユダヤ人の生活習慣を知るには、なかなか参考になります。
このタルムードの中に、この地方では、家畜(おもに羊)を3月に野の中に連れ出し、10月下旬に、すくなくとも11月上旬までには、再び連れ戻すことが示されていました。
12月25日の頃は、今日でもベツレヘムは霜で覆われ、近郷の羊も羊飼いも囲い小舎の中にいるのです。
ルカが、羊飼いの物語で私たちに告げていることのーつは、イエスの誕生が、12月・1月・2月という冬ではないということです。
12月25日は、イエス・キリストの誕生日ではなく、誕生を祝う日です。英語のChristmas (クリスマス)は、日本語訳でも、ちゃんとキリスト降誕祭と訳されています。降誕日と訳されていません。英語の名詞語尾のmas(マス)は、カトリック教会のミサ(mass)ミサ聖祭に由来します。
12 月25 日は、イエスのBirth day(誕生日)ではなく神の子の降誕を、感謝して、礼拝を捧げて祝う日なのです。
では、何時から、また何故、キリストの降誕(イエスの誕生)を12月25日に祝うようになったのでしようか。
12月25日を,キリストの降誕祭(クリスマス)と明確に記録している文書の中で、これまでに発見された一番古い本は、西暦354年のものだといわれています。
ただ記録の一番古いのが354年というだけで、12 月25 日を降誕を祝う日と決めたのはいつかはわかりません。354年以前ということだけが確かです。
354年といえば、自らクリスチャンとなり、信仰自由令(313 年)を公布した、ローマ皇帝コンスタンティヌス(在位306?337)以後ということになります。
イエス誕生のころは、イエスの生まれたパレスチナのみならず、ほとんどすべての国が、ローマの支配下にありました。
イエス誕生の時の皇帝は、アウグストウス(在位BC31?AD14)であり、十字架の時の皇帝は、ティベリュウス(在位AD14~37)です。
古代ローマでは、12月25日は、三つのイベントの日でした。
(1) 征服されないものの誕生日(ディエス,ナタリス・インヴィクテイ)
(2) 冬至の日
(3) サチュルヌ神の祭りの最後の日

ずっと昔からこの祭りでは、一週間のランチキ騒ぎが続きました。
もし12月25日を降誕祭にきめたのが、信仰自由令公布以前だとしたら、この日がローマの迫害からもっとも安全な日と考えたからではないでしようか。おそらく心の中では盛大に、しかし地下の墓地などに隠れてこっそりと祝ったにちがいありません。
またもし、信仰自由令公布以後だとしたら、ローマの異教の祝祭日を打破しようとして、わざとこの日にどうどうと決めたのではないでしょうか。
いずれにしても、迫害の歴史が生んだ知恵のように思えてなりません。
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