嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
6. 室利仏逝
シュリヴィジャヤがパレンバンを占領したのはいつか?
Page 108から
最近出版された『東南アジア史』(岩波講座)のシリーズで深見純生氏はパレンバンで発見された石碑の一つである「クドゥカン・ブキット石碑」について言及され、それは682年(義浄が室利仏逝に言った後)にシュリヴィジャヤ王が二万の兵士を連れて遠征してそこ(パレンバン)に街を作ったと書いてあるとのことである。
しかし『インドネシア古代史』の著者クロムは「シュリヴィジャヤがパレンバンに位置していたという確かな証拠は、このことによっては得られず、またこの地方におけるシュリヴィジャヤの建国も云々できず、推定もできないことは言うまでもない」と明確に言い切っている。
 この石碑の解読はかのセデスがおこない「シュリヴィジャヤ」という文字を発見したことで有名になったものである。石碑の文面が正確なものであったとすると、義浄はシュリヴィジャヤがパレンバンを征服(682年)する以前(672年)その地を「室利仏逝」であると認識し、戦争の前後に専任者仏僧がパレンバンでお経をあげていたという非現実的な話になってしまう。しかも若干の寺院遺跡は存在するが、大規模な寺院群らしきものは現地には見当たらない。それ(パレンバン=室利仏逝説)が100年の定説にしてはどうも話のつじつまが合わない。
 さらに深見氏は「シュリヴィジャヤ王は扶南の故地からパレンバンに至り、マラユ国を征服して、ここを自らの首都としたのである」とされている。ここでは当時交易上きわめて重要であったマレー半島はスッポリと抜け落ちている。カンボジアからマレー半島を無視していきなりスマトラ島のパレンバンに行ってしまった理由がわからない。深見氏は(中略)パレンバンが唐の時代に、東西貿易上の最重要中継点であったという見方である。

クドゥカン・ブキット石碑 (wikipediaから拝借)
wikipedia (http://en.wikipedia.org/wiki/Kedukan_Bukit_Inscription)にはこう書いてある。筆者が英文から和訳したもの。
 クドゥカン・ブキット石碑は1920年11月29日にオランダ人M. Batenburgが南スマトラ州のムシ川の支流であるタタン(Tatang)川の河岸に位置するKedukan Bukit(地名:土の小さな丘の意味)で発見されたものである。寸法は45cm x 80cmであり、サカ歴605年(西暦683年)と刻まれている。古代インドのタミール王国で使われていた古代文字であるパラヴァ文字ですべてが書かれている。
 石碑に書かれている内容はこうである。
 平安と幸せを! インドサカ歴605年の仏誕会の半月の11日目に、siddhayatraを得るためにスリ・バギンダは数艘の丸木船を利用した。七日目とJyestha月(五月から六月)の15日にスリ・バギンダは自分自身をmin?nga t?mvan(意味不明)から救い出した。スリ・バギンダは200艘の舟に2000隊の1312人の兵員を従え、到着した。それは___月のめでたい15日___機敏で幸せであり彼らは帰国した。偉大なるスリウィジャヤ、繁栄と富を______。
 註にはこうある。
 セデス(Coedes)によればsiddhayatraとは霊草であるとのこと。Zoetmulder's Dictionary of Old Javanese (1995)では「成功した遠征」と解読されている。もしそうならこの文章は「スリバギンダが仏教を広めるために丸木舟を使って成功した」ということになる。
碑文の内容はまるで呪文であるが、筆者なりに解釈するとこうなる。
 霊薬をさがすために大軍を率いてここまでやってきたスリ・バギンダが災難に遭ったがそれを克服して帰国することができた記念に683年の吉日にこの石碑を建てた。

<2013-05-16追加分>その後Slamet Muljana著「スリウィジャヤ」を読んでみると、そうではなく、スリウィジャヤ王国ののスリ・バギンダが、どこからか二万の軍勢と共にここに現れて(栄光の行軍で)この地占領し、現地人に恭順を強いた「呪いの石碑」だったのである。ということはここ(パレンバンは)、戦略的位置にはあったが、その当時スリウィジャヤの都ではなかったことになる。<追加終>
 単なる遠征の記録でしかないだろう。太平洋戦争の時にも「占領上陸記念碑」があちこちで立てられた。それと同種のものではないか。「帰国した」とあるから、この地域がスリ・バギンダの本拠地ではないことになる。さらに霊薬を探しにわざわざ出かけてきたのだからここは本拠地から相当に離れている場所であることがわかる。大軍を率いていることからここはスリ・バギンダの属する国の領土ではないのである。「偉大なるスリウィジャヤ」とは自分の国を讃えたものであり、この土地を讃えたものではない。したがって、ここでもスリウィジャヤはパレンバン近郊ではないと暗示しているのである。
Page 109から
ところが、前から指摘しているように、南インド・セイロン方面から夏季のモンスーン(西風)に乗ってやってきた大型帆船は、マレー半島のケダに寄港した後、マラッカ海峡を南下しようとすれば、逆風を受けてしまう。したがって、パレンバンやジャンビ方面に行こうとすれば、手漕ぎの船で曳航してもらうか、冬の東北風を待つしかない。そこでは短くても数カ月の風待ちが必要となる。それからパレンバン周辺についたとしても、中国方面に行くためには春から夏にかけての季節風(南西風)を待つためにまた数カ月滞在しなければならない。だからペルシャ方面から来た船は、ベンガル湾を直接横断せずインドの東海岸にそって北上し、ベンガル地方の港に立ち寄り、そこで商売をしながら冬風を待ち、冬季に一気にマラッカ海峡を南下するという方法をとった船もある。これはアラブ船やペルシャ船がマレー半島横断ルートを使わないから、パレンバンやジャンビで次の年の南西風を数か月(半年程度)待つということになる。しかし、マレー半島横断ルートが主要な交易ルートであればパレンバンは場所違いである。この点が重要な議論の分かれ道となる。


 インドからの船舶数に比べて中国に向かうアラブやペルシャ船の数は知れたものであったろう。そのためにわざわざパレンバンに大きな町を作ったのだろうか。風待ちのための港町を作るのだったら、リアウ諸島に作った方が便利ではないか。浅い迷路になっているようなムシ川の河口デルタをわざわざ遡る理由はない。パレンバンはスマトラ島で産出される砂金の輸出取引港であっただけではなかろうか。
Page 112から 
セデスの言わんとすることは「マラッカ海峡重視説」ともいうべきものであろう。これは日本の一部の学者に受け継がれており、四世紀にはすでに「マレー半島横断通商路」はあまり使われず、寂れてしまったなどという議論がある。これはひどい間違いである。室利仏逝は朝貢貿易全体を支配するために、ケダやムラユとの友好関係を強化し、事実上の属領化し、なんだかんだと抵抗したパレンバンには直接兵を進めて占領し、住民には忠誠を誓わせるために、丸い形の石碑(Telaga Batu碑文)を作り、頂上から水を流し、受け口でその呪文の上を流れてきた水を飲ませたのであろう。さらに訶陵の支配するジャワには大軍を率いて侵攻し占領したとみるべきである。まさに、帝国主義的な領土および貿易支配権の拡大を行ったのである。


 Telaga Batu碑文に関してhttp://id.wikipedia.org/wiki/Prasasti_Telaga_Batuにはこう書いてある。筆者がインドネシア語から和訳したもの。
テラガバトゥ石碑は1950年代頃に南スマトラ州パレンバンのイリル村サボキンキンで発見された。この石碑はジャカルタにある国立博物館にD.155という識別番号で保管されている。この石碑が発見された地域ではその発見前数年間にわたり30基以上のSiddhayatra石碑が発見された。これらの石碑もテラガバトゥと一緒に国立博物館に保管されている。
テラガバトゥは高さ118cm幅148cmの石碑状に刻まれた安山岩を刻んだものである。石碑の上部は七つの頭をもつ竜で装飾されその中下部は流れ出す口がつけられている。碑文は古代マレー語でPallawa文字で書かれている。
碑文はかなり長いものであり、その概要は「ダトゥの命令に従順でなかったものや犯罪者はだれでも呪われる」というものである。高級官僚から最下層の政府の役人についても述べられている。というのは、最も完全な呪いの石碑には役人の名前がみえる。最も保存状態が良い呪いの石碑には役人の名前がみえることとこれらの石碑の存在から、パレンバンがスリウィジャヤの中心はパレンバンにあったことを示唆している。これらの呪われた役人は王都に住んでいたことが明らかである。

wikipedia Indonesiaにがスリウィジャヤの王都であると書かれているが、著者が指摘するとおり、征服者が現地の豪族を恭順させるために行った呪術ではないかと思うのである。いまでもインドネシア人は呪術が大好きで頼っているから、千年以上も前の人たちはけた外れに呪術に重きを置いていたことは想像に難くない。
Page 112から
カンボジアを真臘に乗っ取られたシャイレンドラ王家(シュリヴィジャヤの支配者) (中略)はまずカンボジアに近い貿易の要衝の地であるマレー半島のバンドン湾(盤盤)あたりに本拠地を移し。そこから順次南に勢力の拡大を図ったと考える方が自然ではなかろうか。その結果、ケダもマラユウもパレンバンも、最後にはジャワ(訶陵)も室利仏逝の属国になってしまったとみるべきであろう。問題をややこしくしているのは、八世紀の前半に肝心の室利仏逝が真臘の侵攻によって盤盤の本拠地を奪われてしまったということである。その後、室利仏逝の王家であるシャイレンドラ家はジャワまで本拠を移してしまったものと思われる。そこで彼らは大乗仏教の花を開かせ、ボロブドゥール寺院を建設する。しかし、それは未完成のまま終わって、地中に埋もれてしまったのである。


 シャイレンドラ王家は767年にカンボジアに侵攻している。
 ボロブドゥール寺院が地中に埋もれてしまったとよく書かれているが、この寺院は自然の丘を利用したものでありまったくうずもれてしまったとは考えにくい。ウトナイ湖底の火山灰の堆積報告書に見えるように平らな湖水底なら年間0.6mm堆積するが、ボロブドゥール寺院のように表面が角度をもっているものはこの堆積速度では計算できない。さらにはこの堆積速度では千年間で60cmしか堆積しない。人為的に埋めたか、メラピ火山の大噴火による火山灰で覆われたものと思われる。
Page 113から
扶南は東西貿易の必要上、以前からマレー半島の東西の主要港を支配するか、そこの支配者とは古くから友好(もしくは従属)関係にあったと考えられる。『梁書』によれば扶南の大将軍「范蔓」が王位を奪った後、大きな船を作り、大海軍を率いて周辺の港湾都市を片端から征服し、支配下に入れたと書かれている。特に、マレー半島の両岸の支配は重要だったのである。盤盤は歴史的に扶南とインドを結ぶ中継地であり、タクアパ方面からの積み荷を受け入れ保管する「貿易窓口」であったと考えられる。真臘によってカンボジアの支配権を奪われた扶南の支配者はまず、その本拠を対岸の盤盤(チャイヤー)に移したに相違ない。そこが室利仏逝の当面の拠点になったのである。(中略)深見氏の論点は当時すでにマラッカ海峡直通ルートが主流になっており、マレー半島横断ルートは衰退していたのではないかという点である。

 真臘が扶南をカンボジアから追い出したのは七世紀前半のことであり、この時点で扶南と盤盤からの朝貢は停止した代わりに、真臘とは訶陵からの朝貢が始まっており、扶南の後継者である室利仏逝は半世紀遅れて朝貢している。東南アジア貿易における扶南の地位が失われたため、ジャワの訶陵が朝貢を直接始めたのだろう。その後9世紀末で訶陵からの朝貢は止まり、三仏斉の朝貢が始まっている。

 深見氏の論点の根拠として、次の二点がなくてはならない。
(1) 七世紀には逆風でも進める帆船が実用化されていた、証拠と
(2) マレー半島横断ルート上にある都市は七世紀以降縮小されたという証拠である。
 深見氏は真臘がマレー半島に侵略した時点で、横断ルートが使えなくなったからやむを得ずマラッカ海峡を利用するようになったと考えているのだろう。また七世紀後半になってからペルシャとアラブ圏からの朝貢が始まっている。盤盤を失ったインド人の海上朝貢ルートにおける支配権が弱体化したとも考えられるとともに、隋・唐時代に入りタクラマカン砂漠経由のシルクロード沿道地域が平安になったとも考えられる。

 さて、上記の二点について考察してみた。
(1) 七世紀には逆風でも進める大型の商業用帆船はなかったといえるだろう。だいぶ後世になってから開発されたようだ。さらに風上に切りあがっていく場合には揺れがひどく積み荷の破損や転覆の恐れがあるから、商業航海ではまずこのような航法は取らなかったと聞く。
(2) ブジャン渓谷の紹介サイトには11世紀までこのヒンドゥー・仏教都市は栄えたとある。この地域の都市の繁栄は通商によるものだから、交易が激減したとは思えないのである。

 上記の考察から、深見氏の論点はいささか証拠不十分であると言わざるを得ない。
Page 114から
パレンバン=室利仏逝説のもう一つの根拠は「漢籍」を解読した多くの学者によって提起された。『新唐書、列伝、南蛮下』には室利仏逝の記載があるが扱いがきわめて簡素であり、ロケーションの説明としては(中略)、現ホーチミン市の南方沖合にある軍徒弄山(コンドル島)という有名な寄港地(中略)から二千里というのは約800kmとすれば、せいぜいマレー半島の東岸までの距離である。


 直線距離ではコタパルまでが560km, パタニまでが630km, ソンクラまでが690km, スラットタニまでが810kmである。下の図をご覧ください。

 この当時の航海ルートはこちら
Page 114から
東西千里、南北四千里というから南北に長い国土であるという。これはマレー半島を意味していると考えられる。

 わかりやすく言うと東西400km、南北1600kmということになる。マレー半島の一番太い部分は東西方向の幅が350kmであるが、南北1600kmとなるとバンコクとシンガポール間の距離に相当する。
Page 114から
14の城市があったというのだから、港湾都市を多く支配し、全体を二国に分けて統治していたという。南北に長いのでそうせざるを得なかったと見られるのと、ケダにマラッカ海峡の管理センターを置いたのではないかと考えられる。
夏至の時に影が南にできるという説明だがこれだけでははっきりしない。(中略)八尺の棒尺で影を測って二尺五寸ということになると北緯5度50分あたりではないかという説がある。それはケダのあたりではあるがあまりにもおおざっぱな議論になってしまう。

 日本人と同じく北回帰線の北側に住んでいる中国人にとって影は必ず北にできるものと思っているから南に影ができることがとても不思議だったのではないだろうか。外を歩いているときにわれわれは無意識に建物などの影を見て方角を判断していることが多い。
 じゃあ、影の長さから緯度を計算してみましょう。
tan α= 2.5 / 8.0 =17度21分
北回帰線は23度26分だから測定位置の緯度は
23度26分 - 17度21分 = 6度05分になる。
 この緯度にある町はAlor Setarかコタバル(Kota Bharu)である。

 計算は苦手という人に夏至の日の正午の八尺棒の影を図で示してみる。
 上の図の左端は八尺棒が赤道上にある場合。太陽は北回帰線上にあるから、赤道上では23°26'北に太陽がある。したがって南に出る影の長さは約3.5尺。
右端は八尺棒が北回帰線上にある場合。太陽は北回帰線上にあるから、影の長さはゼロ。
 中は文献にあるスリウィジャヤの位置。八尺棒の影が南に2.5尺でたから、太陽の角度は北側に17°21'にあることになる。したがってスリウィジャヤの位置はその差である6°05'の位置にあることになる。 お分かりかな?

 二尺五寸を二尺三寸から二尺七寸の範囲として考えると
tan α= 2.3 / 8.0 α=16度02分
tan α= 2.7 / 8.0 α=18度39分
であり、
測定位置は、
最北端は23度26分 - 16度02分 = 7度24分
最南端は23度26分 - 18度39分 = 4度47分
となる。

 この範囲は北はソンクラ、南はトレンガヌとの間の地域であり、古代遺跡の宝庫である。

 距離と緯度から結論付けられるのは、ソンクラからトレンガヌまでの地域が室利仏逝の一部であったということである。

【謝辞】
 インドネシア語の原文を和訳したときのご指導を愛知教育大学のParastuti先生から受けました。ありがとうございました。

<2013-05-16追記>
 新唐書では「訶陵では真夏の正午には八尺の日時計の柱の影が南に延び、その長さは二尺五寸である」とあるので、とある教授の計算によると、訶陵がマレー半島の北緯6度8分に位置していると高楠は結論付けたのである。(度欲註:足立喜六の「大唐西域求法高僧伝」の注釈によると、その場所は訶陵ではなく(室利仏逝)とカッコつきで書かれており、二尺五寸は間違いで三尺五寸とすればこの地は北緯1度35分と一致する、とある)
 目する地点がジャワのどこか(南緯6度8分)であるとすると、この説明はつじつまが合わない注釈を高楠はつけたことになる。高楠はこの問題を解決する前に中国側の他の資料で比較材料を探そうとしていた。<Slamet Muljana著「Sriwijaya」78ページから抄訳>

 最近になってから、「真夏の正午」とは夏至の日ではないのではないかと疑問を抱くようになった。というのは義浄は旧暦で年月日を記しているので、太陽暦にすると一か月半ほど遅いはずのである。ということは、この事象が観察された日は秋分の日ではなかったかと思うのである。すなわち、赤道付近では太陽は正午に真上に位置することになる。ところが記載されている長さは「北に二尺五寸」であることから、これが測定された地点は北緯17度付近ということになるが、この場所はベトナム中北部であり、最初の想定が間違えていたということになる。
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2009-01-15 作成
2009-09-25 追加修正
2013-05-16 追加
2015-03-16 修正
 

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