嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
7. スマトラの三大遺跡
 パレンバンには大規模遺跡がまだ見つかっていない。多分小規模なものはあっても義浄のいう「室利仏逝」の都ではないだろう。
 当時建設されたスマトラに存在する大規模遺跡には次のものがある。
 写真はウエブサイトから借用した。ありがとうございました。

ムアロ・ジャンビ(Muaro Jambi)

1°28'32"S, 103°40'4"Eの位置にある。標高は海抜約10m。Google Earthで覗くと良い。ここはバタンハリ(ハリ河)の河口から直線で約55kmである。

ウエブ上で探せた配置図から起こした図

<http://www.rnw.nl/id/bahasa/article/candi-muaro-jambi-terbesar-di-nusantara>から和訳

 ムアロジャンビ(Muaro Jambi)寺院群はムラユ王国がムアロジャンビに首都をおいた証拠になっている。残念ながら、状態はひどいものである。実際、インドネシア中でチャンディ・ムアロジャンビは、歴史・文化の知識の中でも最重要と評価されている最も広大な遺跡である。実際その輝きは文化から隠蔽されていた。以下はKBR68Hという報告書からの引用である。
 ムアロジャンビ寺院群へようこそ。これはムアロジャンビ寺院群の入り口の門に掲げられた板にある文字である。文字はほとんど消えかかっていて、板は少しかしいでいる。門をはいってみても訪問者を歓迎する言葉はない。ただいくつかの売店があるのみだがそれも空っぽであり、放置されている。門から約20m先に入場券を買う窓口がある。でもそこには誰もいない。
 ムアロジャンビ寺院群はジャンビ州ムアラジャンビ(Muara Jambi)県ムアロセボ(Muaro Sebo)郡ムアロジャンビ(Muaro Jambi)村に位置している。ジャンビ州の州都であるジャンビ市からは約40kmの距離にある。この寺院群はバタンハリ(ハリ河)の河岸からそう遠くないところにある。そこにたどりつくには、陸路を伝うか川船を利用することになる。
 ここは仏教の聖地であり一辺が12kmの正方形であり、インドネシアでは最大の規模を誇っている。当初は1820年にバタンハリの地図を作っていたイギリス軍のSC Crookeによって発見された。ムアロジャンビ寺院群の博物館の館員であるブジャン・ダスリル(Bujang Dasril)氏によると、遺跡の面積は国内では最大で、ムアロジャンビ寺院群は80数基の寺院と九つの大規模寺院を含むとのことである。

修復作業について
 ブジャン・ダスリル氏の説明
 このムアロジャンビ寺院群遺跡は12kmの正方形である。ここでは大規模な寺院が9棟あり、第一はチャンディ・コトマリガイ(Candi Kotomahligai)で少しここからから西によった場所にある。チャンディ・クダトン(Candi Kedaton)はここから約4km離れたところにあり、チャンディ・グドン(Candi Gedong)とグドン2は博物館から約1kmの位置にある。チャンディ・グンプン(Candi Gumpung)は今我々が立っている場所である。チャンディ・ティンギ(Candi Tinggi)とテラガ・ラジョ(Telago Rajo)、チャンディ・クンバル・バトゥ(Candi Kembar Batu)とチャンディ・アスタノ(Candi Astano)。これらが九つの大規模寺院である。
 これらの九つの大規模寺院のうち6箇所が最近修復が終わった。ここではチャンディは常に水路に囲まれている。その意味とはその当時からこの近辺の住民は水上交通を普通に使っていたからだ。とはいえ、これらの水路は土が流入しているとともに灌木と雑草に覆われていて通過できないのである。
 チャンディ・グトンIはムアロジャンビ寺院群の中でも特筆すべき点がある。この寺院の建設された年代は不明である。前庭は500平方メートル台あり、主構造物と門とで構成されている。その形状はジャワ島で一般的にみられるチャンディの様式とかなり隔たりがある。チャンディは自然石ではなく焼結レンガで構築されている。レンガには浮き彫りが施されている。レンガの一部は博物館に収納されている。
 すべてのチャンディは焼結レンガで造られている。すべてのチャンディは修復作業のために現在修理中である。レンガの接続のために現在はセメントを使っている。昔はレンガを接続するのに何を使えば良いかを知らなかった。

【神像】
ブジャン・ダスリル氏の説明
 この寺院群からは、象や虎の神像および入り口の守り神の像(Dwapara=狛犬のようなもの)のような価値を査定できない歴史的な遺物が大量に発見された。これらは現在博物館に収納してある。
 この守り神の像はチャンディ・グドンで発見されたものである。2002年に門の修復を行っているときに偶然発見されたものである。本来ならこの神像は二体あるはずであるが、一体しか見つかっていない。門の守り神として祀られていたとするなら、さしずめ今でいう守衛さんのようなものである。
 もう一体は Prajnaparamita、仏教の豊穣の女神であり、これはチャンディ・グンプン(Candi Gumpung)で見つかった。残念ながら腕と頭部が見つかっていない。
 この博物館にも高さが60cm台で、直径が1mの160kgにもなる青銅製の鍋が収納されている。これは仏教の中でもラマ教(Tantrayana)の信者たちが祭器として使っているものの一つと考えられている。
 ムアロジャンビ寺院群の考古学遺跡の遺物は実にその価値が計り知れない。しかしながら、いまだ修復の途中で挫折しており、人口希薄で観光資源として整備されていない。チャンディに至る道路は壊れたままであり、交通量は少なく、交通機関もひどい状態にある。
(以下略)

 2012年2月にこのサイトを訪問してきた。さらに詳しい説明などを含む訪問記はこちらへ。

ムアラ・タクス (Muara Takus)

 0°20'20.19"N, 100°38'24.62"Eの位置にある。標高は海抜約65m。ここも解像度が低くて詳しくはわからない。コトパンジャン貯水池の南西側の湖岸に位置する。
 この遺跡はかなり内陸部に存在することから、スマトラ島の大山脈であるブキットバリサンを越えここを通る交易ルートが存在したのだろう。今でもこの近くにはプカンバルとパダンを結ぶ国道が通っている。
 ムアロジャンビとの距離は約390km、パダン・ラワスとの距離は約150kmである。

<http://en.wikipedia.org/wiki/Candi_Muara_Takus>から
 ムアラタクスは仏教寺院群であり、スリウィジャヤ王国に属したものと考えられている。この遺跡はリアウ州カンパル(Kampar)県に存在する。考古学的遺物は11から12世紀のものと考えられる。この遺跡はスマトラではもっとも保存状態がよくかつまた最大の規模である。
 この遺跡はスリウィジャヤ帝国時代の11世紀に建設されたものである。寺院の建築意匠から、この寺院が大乗仏教の寺院建築様式をもとにしていることが明確にわかる。ムアラタクスの寺院群のうち主な建物は12世紀に大規模修繕されつつあったものであろうとシュニットガー(Schnitger)は言っている。この地域はスリウィジャヤによって信仰と交易の場所として利用されたものと考えられている。この遺跡は1860年にコーネットデグルート(Cornet De Groot)が発見するまでは数世紀間放置されていた。1880年にグルンヴエルド(W.P Groenveld)がこの地を調査・測量し、それ以来定期的に発掘調査が行われた。今では国家遺産として保護されている。

 2012年2月21日にこの遺跡を訪問してきた。さらに詳しい説明などを含む訪問記はこちらへ。

パダン・ラワス (Padang Lawas)

 Google Earth上で明記されている遺跡(Candi Bahal)は三か所ある。
 1°24'38.06"N, 99°43'34.80"E, 1°24'18.67"N, 99°44'4.27"Eと  1°24'21.13"N, 99°43'50.05"Eである。標高は海抜約55m。二つの遺跡の距離は数百メートルしか離れていないので同一都市のものであろう。ここは解像度が高いので、チャンディの形が鮮明にわかる。
 この遺跡も内陸部に存在する。
 上記のチャンディの写真はGoogle Earthの左上のfindの空欄に緯度と経度を貼りつけてそこへ飛んでみてさがしてください。

<http://www.kabarindonesia.com>内のCandi Bahalの記事を和訳する。
 このチャンディはインドネシアにおける多々ある歴史的遺産の一つである。北スマトラ州北パダン・ラワス県ポルティビ(Portibi)郡にヒンドゥーあるいは仏教寺院がいくつか存在する。
 チャンディ・バハル(Candi Bahal)のIとII, IIIの遺跡は南タパヌリ県から開花した北スマトラ州の同郡バハル(Bahal)村に位置する。数千年の歴史を持つと考えられているパダンシディンプアン(Padangsidimpuan)町から約60km、自動車で約一時間半の距離にある。
 歴史と文化をはらんでいる三か所の遺跡は、その定めからか注意を払われてはおらず、保存状態がよいとは言えない。政府は、過去の人類の歴史的創造物による何も語らない証人であるこの歴史的遺構を保存することに注意を払っていないようだ。残念なことに、ジャワに存在するボロブドゥール(Borubudur)やムンドッ(Mendut)という兄弟たちとは運命が違うようで、チャンディパハルは状態の維持にもそのプロモーションも不足している。
約5mの高さをもち、側壁には浮き彫りが施され、入口にはストゥーパがあるチャンディバハル I(第一寺院)は、ただ押し黙り、なにもできずに将来の訪問者を待ち続けることを期待しているのである。
 同村に位置する第二、第三寺院に関しては、第一寺院より放置の度合いが強い。雑草がすでに身長程度に高く生い茂り、襲い来る運命に身を任せている古い建造物の眺望がますます悪くなってきている。我々がここでみかけるのはチャンディだけではなく、南タパヌリ県の郷土料理であるホラッ(holat)の材料になっているバラッカ(Balakka)と呼ばれる巨木も生えている。地元民の話によるとこのバラッカ樹の樹齢は数千年とのことである。
 また地元民の話ではヒンドゥーと仏教の祝祭日だけこのバハル寺院は参詣客でにぎわうとのことである。ヒンドゥー教徒と仏教徒の訪問客は参詣のためにやって来ている。実際、このチャンディを観光の目玉にすることが成功すると、観光産業によりバハル村近辺の就業可能性が広がるのである。

スマトラのチャンディに関するcandi.pnri.go.id/sumatra/index.htm の記事によると以下のようである。

 スマトラ島においてはジャワ島ほどチャンディの数が多くない。というのはスマトラでは寺院建築用の石材が山になかったためである。それゆえスマトラで発見されたすべてのチャンディは焼結レンガがその素材となっている。材料のもろさゆえにほとんど崩壊した状態で発見されたのである。遺跡がひどい破損状態にあること以外には、スマトラにある多くのチャンディは都市から相当に離れた地域に存在しているので、遺跡を訪れる観光客も多くないことがあげられる。北スマトラ州のシアブゥ(Siabu)にほど近いシマガンバッ(Simangambat)で倒壊した状態のシバ神殿が発見された。この神殿に関する史実はほとんどないためはっきりしたことはわかっていない。このチャンディは8世紀に建設されたものと考えられている。この遺跡の歴史を知るためにはこの遺跡の発掘調査が必要である
北スマトラ州でここ以外のチャンディはパダンラワス(Padang Lawas)地域にたくさんあることが知られている。その他にはSipirok, Sibuhuan, Sosopan, Sosaと Padang Bolakがある。この地域には十数の崩壊したヒンドゥーのチャンディが存在し、それらはすべて川沿いに存在するとともに、大部分はPadang Bolak県に存在する。これらのチャンディは11世紀のパネイ(Panei)王国の時代に建設されたものと考えられている。パダンラワスのチャンディの中でもっとも知られているのがバハル村にあるチャンディバハル(Candi Bahal)である。このチャンディはオランダ植民地時代にすでにその存在が知られていた。オランダ植民地政府はこのチャンディをチャンディポルティビ(Candi Protibi)と名付けた。Portibiとはバタック語で「この世界の中に」を意味する。バハル寺院群には修復された、バハル1から3の三つのチャンディがある。これらのチャンディは一直線上に配置されている。(筆者註Google Earthではそう見えない)。復旧作業が行われたのではあるが、構造物の崩壊した部分はほとんど失われており、新しいレンガで置換せざるを得なかった。

【度欲註】
 焼結レンガで建設されたのは建設用材としての安山岩の入手が困難であったというより、チャンパの寺院建築文化が流入した理由によるものだろう。というのはジャワの古いチャンディは安山岩のブロックを積み上げてできているものが多数あるが、時代がさがるにつれ材料が安山岩から焼結レンガになってきている。とくにマジャパヒト時代以降は焼結レンガ製のチャンディが多い。材料の入手の難易度によるものではなく、土・水・火の三要素を重要視したヒンドゥーの教えに起因するものではないかと考えている。
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2009-09-25 作成
2009-10-03 Web記事追加
2009-10-13 Muaro Jambi緯度経度修正
2011-11-09 Muaro Jambi緯度経度修正
2012-04-12 Muara Takus訪問記リンク追加
2013-05-16 追加修正
2015-03-16 修正
 

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