嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
5. 朝貢国の変化とその回数の変遷から
 鈴木峻氏著「シュリヴィジャヤの謎」の末尾に参考として付けられていた中国への主な朝貢国とその年度・回数を一世紀ごとに合計して、その変化をみたものが次の図である。なお、スリウィジャヤの歴史にはあまり関与しなそうなペルシャ・アラブ圏からの朝貢回数はこの表から除いてある。
 3世紀から15世紀まで555回の朝貢があったと記録されいてる。
 12世紀から13世紀にかけて朝貢回数が激減したのは中国を元王朝が支配し、ユーラシア大陸を戦争の嵐に巻き込んでいたためであろう。
世紀 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 Total 現在の国・地方名
扶南 4 2 6 13 2 0 0 0 0 0 0 0 0 27 Cambodia
真臘 0 0 0 0 7 3 1 0 0 0 0 10 5 26 Cambodia
陸真臘 0 0 0 0 3 1 0 0 0 0 0 0 0 4 Cambodia
林邑 5 6 16 12 17 15 0 0 0 0 0 0 0 71 Vietnam (Champa)
占城 0 0 0 0 0 0 1 15 16 3 0 27 0 62 Vietnam (Champa)
安南 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 27 0 27 Vietnam
天竺 1 0 3 1 15 5 0 0 0 0 0 0 0 25 India
南天竺 0 0 0 0 0 6 0 0 0 0 0 0 0 6 India
中天竺 0 0 0 2 0 2 0 0 0 0 0 0 0 4 India
北天竺 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 India
注輦 0 0 0 0 0 0 0 0 6 0 0 2 0 8 India (Chora)
闍婆婆達 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 Indonesia(Jawa)?
婆利 0 0 1 2 4 0 0 0 0 0 0 0 0 7 Indonesia (Kalimantan)
訶陵 0 0 0 0 4 4 5 0 0 0 0 0 0 13 Indonesia (Jawa)<*1
闍婆 0 0 0 0 0 0 3 1 0 0 0 1 0 5 Indonesia (Jawa)?
三仏斉 0 0 0 0 0 0 0 15 14 5 0 6 0 40 Malaysia/Thailand
室利仏逝 0 0 0 0 1 6 0 0 0 0 0 0 0 7 Malaysia/Thailand
旧港 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 2 2 Indonesia
婆皇 0 0 8 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 8 Malaysia(Pahang)
訶羅単 0 0 6 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 6 Malaysia(Kelantan)
丹丹 0 0 0 6 2 0 0 0 0 0 0 0 0 8 Malaysia(Kelantan)
赤土 0 0 0 0 2 0 0 0 0 0 0 0 0 2 Malaysia
摩羅遊 0 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 Malaysia
盤盤 0 0 3 9 6 0 0 0 0 0 0 0 0 18 Thai (Surattani)
狼牙脩 0 0 0 3 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 Thai (Nakhon Si Thammarat)
暹羅 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 41 0 41 Thai
堕和羅 0 0 0 0 4 0 0 0 0 0 0 0 0 4 Thai
<*1 後期訶陵はタイからジャワ、スマトラ、マレー半島までその領域は広がっていた。
 上の表を遠くから眺めてみると、五つに分類できそうである。
 最初のグループは扶南・真臘で、インドシナ半島にその居を構えていた。
 第二のグループは林邑・占城グループでベトナムとメコン下流域にその居を構えていた。
 第三のグループは 天竺グループでインド亜大陸の諸国であろう。
 第四のグループはジャワとカリマンタン(ボルネオ島)に居を構えていた訶陵グループ。
 第五のグループはマラッカ海峡とマレー半島を長期間支配した三仏斉・室利仏逝グループ。マレー半島に居を構えていた連合体であったのかもしれないと考えられる小さな国々のグループである。

 上の表から分かるとおり、10から15世紀まではカンボジアやマレーシア、ジャワにあった諸国からの朝貢が殆ど途絶えていて、占城と三仏斉の独壇場である。この両国が東南アジアの朝貢貿易を独占していたと言ってよいだろう。
 また天竺(インド)からのの朝貢もこの「独占期間」は途絶えている。あたかも、朝貢をすべてこの両国に委託してしまったようでもある。ただ注輦(チョーラ)だけが11世紀に六回朝貢しているのみである。

 この両国が強大であった期間、タイやカンボジアにいた他民族の王朝からは全く朝貢がないのである。この両国が東南アジアを支配していたとでも言っているようでもある。

 ベトナム中部にあった林邑は9世紀に占城と名前を変えている。
 ベトナムからはチャンパと安南が14世紀に先を争うように朝貢している。チャンパはチャム人で、安南は京族(いわゆるベトナム人)であろう。チャム人より後に山岳部から平野部に降りてきた部族ではないかとおもわれるのである。この両王国は今のベトナムの南北をそれぞれ支配していて、やがてチャム人は京族の王朝に14世紀に滅ぼされてしまうのである。

 チャンパ王国が滅びかけた時とほぼ同時期にジャワに強大なマジャパヒト王国が登場した。かれらはチャムの建築文化様式をジャワ島東部に導入してすばらしい建造物や神像を残している。マジャパヒトの遺跡の記事はこちら。

 暹羅はタイのスコタイ王朝であるが、山岳部から南下するのをカンボジアにいた部族、続いてチャム人に抑えられて、ようやく14世紀に国の体をなしたと言って良いだろう。東南アジアにおける今のタイの進歩と繁栄はここ600年間のことである。

 堕和羅とはタイ南部に住んでいるモン(Mon)族の国である。と、「シュリヴィジャヤの謎」の著者である鈴木峻氏からご指導がありました。ありがとうございます。

 この表にはないが、8世紀から始まったアラブ諸国からの朝貢は11世紀をもってとまっている。きしくもイスラムが東南アジアに広まり始めた時と期をいつにしている。また、占城(チャンパ)と三仏斉(スリウィジャヤ)はその地域にイスラムが浸透し終わった時点で朝貢がとまっているのである。アラブ人の朝貢はイスラムの拡散と普及のために行っていたようである。

 上の表からは分からないが、詳細な年代表を作ってみると、占城と三仏斉が交替で朝貢を行っている場合が多くみられるのがなんとなく気になる点である。

 さて、このページの主題であるスリウィジャヤとマレーシアの関係について調べてみよう。

 盤盤、婆皇(これはマレーシアかジャワか不明)、訶羅単、狼牙脩、赤土、摩羅遊、の諸国が5〜7世紀にかけて朝貢している。盤盤はソンクラ付近、訶羅単はケランタン、狼牙脩ランカスカ、赤土はケダ、摩羅遊はマラユ、丹丹はシンガポール付近にあった(wikipedia)ということである。時代が下るにつれ朝貢した国が徐々に南下しているようにも見える。これらの国々からの朝貢がとまった後、室利仏逝が突然桧舞台に飛び出してくるのである。鈴木峻氏がその著書に書いているように、室利仏逝とは上記の国々の連合王国であったのかもしれない。室利仏逝からの朝貢がとまった9世紀を過ぎると今度は三仏斉が朝貢を始める。

 ランカスカ(langkasuka)のlangkaとはマレー語ではジャックフルーツを意味し、sukaは好きという意味だから、この地域の人たちはジャックフルーツを特産にしていたか、主な食材としていたのかもしれない。いまでもドライジャックフルーツはマレーシアとインドネシアの民衆に好まれている。

 8世紀にはジャワのシャイレーンドラ王国がカンボジアにまで侵攻した。その後西暦1000年をはさんでジャワの王朝とスリウィジャヤとの間で戦争があった。しかし、この時期における三仏斉からの朝貢回数が減っていないところを見るとサンジャヤ王国の侵攻はそれほど大きな影響をもたらさなかったと見てもよいだろう。

 鈴木峻氏はジャワの訶陵はインドのカリンガ国の末裔であると主張している。確かに訶陵が朝貢をやめた後に注輦(チョーラ)がそのかわりに朝貢しているようである。
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2008-11-28 作成
2009-03-17 表の修正と追記(鈴木峻氏からご指摘をいただきました。ありがとうございました)
2010-11-02 表の一部修正
2015-03-16 修正
 

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