嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
4. 室利仏逝について その1
室利仏逝
Page 91から
セデスが「シュリヴィジャヤ」という言葉を「発見」するまでは、実は「室利仏逝」と「三仏斉」は同読むべきか良くわかっていなかったようである。この二つの言葉は「シュリヴィジャヤ」と読むというのがセデス以降の通説になっている。私は「室利仏逝」のほうは「シュリヴィジャヤ」と読むことに何の異論もないが、「三仏斉」については少し引っかかるものがある。少なくとも内容的には異なっていると考える。
Page 92から
室利仏逝という言葉は唐の時代に仏典を求めてインドに旅をした義浄が著した「南海寄帰内法伝」の中で書かれてるので有名である。この室利仏逝という言葉は唐時代に使われていたが、その前には存在していない。隋の時代は「赤土国」がマレー半島を代表する朝貢国であり、その前の梁の時代は「狼牙○」であった。


 筆者も三仏斉をシュリウィジャヤと読むのには抵抗がある。パレンバンを貫流するムシ川の支流にブサイという川がある。このブサイの地域の三部族が連合国を作ったとすれば三つのブサイという意味で「三仏斉」という表記がこじつけられるが、まるで自信がない。

「赤土国」はどこにあったか
Page 93から
室利仏逝などについて、この時代の歴史的考察のわが国における先駆者に藤田豊八博士や桑田六郎博士(1894-1987)がおられる。桑田博士の著作集としては『南海東西交通史論考』汲古書院、平成5年2月刊がある。
隋時代に記載されている「赤土国」の周辺の地名から考えてそこが「室利仏逝」と唐時代(618-907)に呼ばれたと桑田博士は考える。(しかし)「赤土国」は唐時代の朝貢国の記録には出てこない。桑田博士は初めは赤土国はマレー半島の東海岸に存在したと考えられておられたようであるが、研究を重ねるうちに、めぐりめぐって赤土国は東部スマトラのパレンバンにあったということに最後はなってしまう。そこが後の室利仏逝であるとお考えである。私は後に述べるように義浄が最初に寄港した「室利仏逝」がパレンバンであったという説にはどうしても納得できない。(中略)私は「赤土国」の所在の地のひとつの仮説としてマレー半島の東側のソンクラからケランタンを支配し、内陸を西に向かい、西海岸のケダ(ブジャン渓谷付近)を結ぶマレー半島横断ルート(Bルート)の一帯ではなかったかという見解を提起したい。


 同感である。長期にわたる中国歴代王朝への朝貢国であったから、そんなに小さな国ではなかったろうと思われる。地図を詳細に見ると、マレー半島横断ルートのうちケダからソンクラ方面に抜けるルートがもっとも平坦で陸上輸送がしやすい。パタニあるいはコタバル(新しい町の意味)へのルートは山脈を越えるため、ソンクラへのルートが最適であったろう。自動車やオートバイで走り抜けるだけでは古人の苦労が分からないので、筆者はいつの日にかこのルートを自転車で実地踏査してみたいものだと思っている。
 この本の前の部分にあるブジャン渓谷にある博物館も数日かけて詳しく調べてみたいものである。幸いにして筆者はマレー語にも堪能だから、この地域では言葉にまったく不自由しない自信がある。
Page 93から
赤土とはマレー語のタナ・メラ(Tanah Merah)の漢字訳である。


 ということは漢籍には地名をその意味からとったものもあるということである。すなわち「三仏斉」も「三つのブサイ族」だというへ理屈がまかり通るかもしれない。
Page 94から
「赤土国」には大王がいて官僚システムが当時としてはかなり整っていたという。いわばバラモン的政治体制が一応整った形で機能し、東西貿易を行い財政も豊かで、後背地・周辺部にかなり広い稲作地域が存在し、人口も多く、兵士も多く養えた強大な王国であったと考えられる。


 この本の他の部分からみると東南アジアの古代王朝はほとんどインドの移民であると著者は考えているようである。インド人の移民が古代にフィージーまで行っている事実を考えると、一概に否定できない。しかし、「ではなぜこの地域の人たちはインド人に顔つきが似ていないのか」と読者諸氏は思われるだろう。それはモンゴロイド系の王朝がアーリア系の王朝に滅ぼされ、今のインド人があると考える。モンゴロイド系の王朝が亡命した先がかれらの植民地だったのではないだろうか。彼らは古代インドの文化を担っていたから、その文化・文明・技術などをそのまま亡命先に持ち込んだので、著者が指摘した「バラモン的政治体制」が整ったのだろう。インドに紀元前10世紀ころから流入し始めたアーリア系の人たちは先住民であるモンゴロイド系が作り上げた文化を継承して今に至っているのではないかと思われるのである。

常駿らの赤土国訪問
Page 95から
 隋の煬帝に調査を命じられて「赤土国」に出張を命じられた常駿の報告では、港で盛大な歓迎を受けた後に、上陸してから「王城」にたどり着くまで30日間を要したというから、赤土国の「王城」はマレー半島の西岸(ケダ)にあったということも考えられる。使節が到着した港がどこかは不明であるが、今のソンクラである可能性が高い。隋書には国王の居城は「僧祇城」であると書いてある。これはソンクラである可能性が高い。(中略)僧祇というのは獅子という意味に近いからシンガポールであるなどという学者もいる。

 僧祇城がソンクラということになると赤土国はパレンバンではないということになり、従って室利仏逝はパレンバンではないのではないかということにもなりかねない。だから、僧祇城=ソンクラ説は東南アジア史の「主流の専門家」にとっては容認できないのである。常駿が赤土国のどこかに上陸してから30日もかけて連れて行かれた最終目的地の場所が東海岸のソンクラということはありえない。多分、そこはマレー半島の反対側(西岸)のケダのあたりで、そこに赤土国の「本拠」があったとものと思われる。ソンクラは中国への外交(通商)上の表玄関であったと考えたい。


 一般的に隊商が一日進む距離は約30kmであった。これは今は砂漠になっている地域の古代の通商路に残された遺跡が約30kmおきにあることからそう想定するのである。さて一日30kmで30日もかかったというなら900kmも先になることになる。しかし、使節の一行は輿に乗って粛々と進んだのであろうし、マレー半島は午後からスコールに見舞われるので一日せいぜい10kmも進めればよかったであろう。ということは300km先になる。ソンクラから300kmの距離というと、シンガポールでは遠すぎる。マラッカでもまだ遠い。著者の言うように僧祇城はケダにあったのかもしれない。
Page 96から
 特に注目すべきは常峻一行の帰路である。おそらく三月ごろの南西風に乗って帰国したものと思われるが、「浮海十余日至林邑東南」と記されている。そうなると帰路の出発港はソンクラあたりと見るのが適当であり、隋時代の帆船の船足を考えれば、パレンバンでは遠すぎるのである。ナコン・シ・タマラートも有力であるが、そこはもと狼牙須と湯ばれた場所であろうから、そこから南を想定せざるを得ない 


 著者がいうようにソンクラから林邑の南東部にあるオケオまでは直航で約500kmの距離がある。航路はシャム湾を横切り、途中に大きな島はないし暗礁もないから昼夜進めたはずである。「十余日」を15日間と仮定すると、平均時速は1.3kmになる。いくら風向きが悪くても船足が遅すぎるのである。ということは、あちこちの港に停泊しながら航海を続けたに違いない。
Page 96から
 結論的に、Bルート(ケダからソンクラ、パタニ、ケランタンまで)が赤土国だったと見るべきであろう。当時Aルート(盤盤-扶南、後に室利仏逝))は強大な存在だったので、ケダの支配者は赤土国を中国側にアピールしたものと思われる。もともと、マレー半島横断ルートを使う「東西貿易」は半島の両岸の港と横断ルートとしての道路や河川を同時に支配していないとなりたたない話である。


 中国の史書では外国の名称を通称あるいはそのままの発音で記載している。前者には大秦=ローマ、大食=アラブ(タジクからその呼び名が来ているという)がある。しかし、赤土国は7世紀に2回しか朝貢していないので有名ではなかったはずだ。なぜこの赤土国だけが意訳されたのであろうか。これは不自然である。
Page 97から
「常峻」の行程は607年10月に広東を出発し「安南の沖を通過し、西に狼牙須国の山を望み、南下し、鶏籠島に達し、『赤土之界』にいたった」と記している。鶏籠島とはどこかというのが分からないが、この文章自体極めて簡潔でしかも大切な情報を伝えている。それは「狼牙須国の山を望み」という言葉である。マレー半島で海側から目立つ山はどこかということになると、場所はきわめて限られてくる。鶏籠島というのはソンクラ港沖合いにある小島のひとつであるという解釈でもよいのでなかろうか。この言葉を特定できる島は見当たらない。


 Google Earthでさがしてみたが、著者が仮定したソンクラ港の沖合いの小島は存在ない。北はスラットタニ付近か、南はコタバル付近まで行かないと沖合いに島はないのである。火山爆発で沈んだか?そんなことはない。このあたりは火山がないし地震も殆どないから、自然現象で島が消えうせたということは考えにくい。
 プラチョウプ・キリ・カンの沖合い20kmあたりから「狼牙須国の山」を望みながら南下すると、山々が低くなって見えにくくなったころに、スラットタニ沖合いのパガン島とサムイ島が見えてくる。これらの島は標高がそれぞれ400m, 500mあり沖合いから識別しやすいので、航海者にとっては絶好の目標だったろう。このどちらかの島が鶏籠島であったのだろうか。「鶏籠」というからには、おわんを伏せたような形の島を想像していたが、全く異なる。ジーロウとでも呼んでいたのだろう
Page 97から
 桑田博士は「赤土国」の四周が室利仏逝と一致すると主張されるのである。赤土の東は波羅刺国(今のボルネオ島であろうか)、西は婆羅娑国、皆々はカ羅旦国、北は大海であるという。西の波羅娑国というのは義浄の言う婆魯師国、その先が末羅遊ということになっている。ところが、この波羅娑国というのがどこかは判然としない。(中略)桑田博士の結論は紆余曲折の末、赤土国は「マレー半島東海岸」のどこかという当初の想定から最後はスマトラのパレンバンであるということになってしまう。これはおそらく室利仏逝がパレンバンであるいう「通説」に引きずられた結果かもしれない。ところが『隋書』には赤土国王姓瞿曇(クドン)とある。『梁書』には千?利王瞿曇修跋陀羅(クドン・シュパッダラ)とある。干?利とはカンダリ(Kandari)てせありケダの別な表現であると考えてよい。要するにケダの国王の姓と赤土国の国王の姓が瞿曇なのである。これは偶然の一致だと片付ければ、それはそれでおしまいであるが、同じ王統であったとしたら、話は全く別な展開になってくる。つまり赤土国の本拠はケダだった可能性が出てくるのである。ちなみに瞿曇というのは釈迦のゴウタマ・シッダッタ(瞿曇・悉達太)の漢訳である。この両者とも中国人に仏教徒であることをアピールしたかったのかもしれない。

 と著者は続けるが、瞿曇というのは高貴な人につける尊称であった可能性もあるから一概に同じファミリーだとは言い切れないのである。しかし、……
Page 98から
 また、ケダと赤土国との関係を裏付ける物証が存在するのである。それはブジャン博物館に展示されている一枚の石碑である。この石碑はブジャン渓谷からやや南のペナン島の対岸のプライ(植民地時代はウエズレー県と呼ばれていた地域)で発見されたと言われている。石碑は「航海の無事を祈願」した地元の船長(ブッダグプタ)が奉納したものであるが、そこには地名としてサンスクリット語で「赤土」と書いてある。いうなればケダの主要港であるブジャン渓谷の周辺に確かに「赤土国」と認識される王国が実在したのである。

 wikipedia "bujang valley"にはこうある。
 ブジャン渓谷には224平方キロにわたり遺跡が多数広がっている。ケダ州メルボク町の近くで、ジェライ山の北とムダ川の南に位置するこの地域はマレーシアで有数の考古学遺跡が多い。
 考古学調査によると、ヒンドゥー・仏教を奉じた古い王朝がこれを建設したという。その名は「Dragon Valley=竜の渓谷」と訳されている。この地域は1500年以上も前の遺跡がある。50を越えるチャンディと呼ばれる古代の祀堂が発掘されている。それらの多数はブジャン渓谷文明華やかなりしころに建設されたものである。もっとも印象的で保存状態がよいものはペンカラン・バヤン・メルボク(Pegkalan Bayang Merbok)に位置する。ここにはブジャン渓谷考古学博物館もある。
 考古学調査によれば、古代のヒンドゥー・仏教王朝がこの地を三世紀初頭に支配したことになっている。同地域で発見された遺物は上記の博物館に収納されている。収納物には文字などが刻まれた石の小箱やタブレット、金属製の道具や装身具、陶器、土器、ヒンドゥーの神像などがある。

[歴史]
タミルカム王国とマレー半島との初期の接触はパラバ朝諸王(4-9世紀)とチョーラ朝の諸王(9-11世紀)の時代に深かった。交易関係においてタミルの商人たちはマレーの諸港でカダラム(Kadaram=古ケダ)やランカスガム(Langkasuga,)などのインド化した王国を出現させた。チョーラ王のラジェンドラ・チョーラ一世(Rajendra Chola I)はカダラムに11世紀に遠征を行い彼らの庇護を求めていた諸国を征服し、同地の王になった。チョーラは強力な商業力がありとインド洋とベンガル湾での海運を独占していた。彼らの使っていた船舶は沿岸航海用の小型船舶とより複雑な構造と積載量を持った中型船舶、マラッカ、スマトラ、ガンジス間を渡航する外洋航海の大型船舶があった。チョーラ王国の版図を以下に示す。

室利仏逝の登場
Page 100から
唐時代に入り、義浄はインドに行って仏典を収集すべく671年に波斯船に便乗して広東を出発して20日ほどの航海で一挙に室利仏逝に到着した。しかし、そこがパレンバンであったという通説にはいくつかの解きがたい疑問が残る。義浄は『大唐西域求法高僧伝』の中で、インドに向かう行程を「広府→室利仏逝→末羅遊→羯茶→裸人国→耽摩立底(Tamuluk)」と記載している。この場合現在ほぼ特定できる地名は羯茶→裸人国→耽摩立底の部分である。羯茶はケダであることは間違いない。しかもそこはジェライ山(Gunung Jerai 1217m) のふもとのブジャン渓谷の近くの港であったと考えてよいであろう。ジェライ山の頂上にはヒンドゥー寺院があり、「聖地」でもあった。


 ケダの沖合い20km付近からみたジェライ山である。(Google Earthより) マラッカ海峡を南下してランカウイ島を過ぎると特に目立つのがこの山である。航海者たちはこの山を目印にしたに違いない。

 裸人国とはニコバル島であるという。ニコバル諸島は9 10'47"N 92 45'50Eにありスマトラとヤンゴンとの間にあるアンダマン諸島よりスマトラ寄りにある。
 wikipediaの「アンダマン・ニコバル諸島」の説明によれば、
 ニコバル (Nicobar) という名前は、マレー語で裸の人々の土地という意味である。その名の示す通り、小アンダマン島、大ニコバル島には合わせて5部族の先住民がおり、計800人ほどが石器時代と同様の狩猟採集生活を行っている。
 とあるが、文中「マレー語で」とあるが、この説明はホントかな?と首をかしげたい。こんなマレー語は聞いたことがない。「裸の人々の土地」を直訳すると"Tanah Orang Bogil"であり、Nicobarとはまったく関係がなさそうである。
Page 101から
メルボク川とムダ川の河口があり、その沿岸は船舶の停泊に適していた。また小舟に積荷を積みかえればかなり上流まで運ぶことができる。その港は食料(米)と飲料水の補給が容易にできた上に、マレー半島を横断して東海岸のパタニ港やコタ・バルの港に通じる道の出発点であった。いわば東西貿易の代表的な中継点だった。また後背地には豊かな水田地帯が当時から存在した。


 メルボク(Merbok)河口は5 40'22"N, 100 27'27"Eに位置している。この河口から川沿いに約100kmさかのぼっても標高が70mしかないので、川舟を利用したことには十分可能性がある。河川勾配が7/10000=1/1000なので流れが穏やかであり水量さえあれば十分に航行可能である。ちなみに上流側のターミナルの位置は丘陵部にはいる6 03'12"N, 100 46'38"Eあたりであろう。しかし、この付近から東側は山岳部であり、村落や山岳部を貫通する幹線道路がないところを見ると、古代の通商路はここではないかもしれない。
 この中流域のEkor Kucing (猫の尻尾)をすぎKampong Matang Durian(熟したドリアン村)をすぎたところにクアラクティール(Kuala Ketil)という集落があり、Yalaを経由してPataniにまでいけるがここも約500mの高原を進まなくてはならない。
 このルートよりもバターワース(Butterworth)の方が東海岸に抜ける道路(A6号線)があるので近そうだが、標高約500mの山岳道路だ。ひょっとすると暑い低地を避けて涼しい高原地帯を移動することを昔の人たちは好んだのかもしれない。インドネシアでのサイクリングの経験から言わせてもらえば、平らな低地帯を汗かきかき進むよりも、少々の起伏があっても高原地帯を進むほうが体力の消耗はすくないのは確かだ。
Page 101から
 インド方面から夏季の偏西風に乗ってベンガル湾を横断してスマトラ島の北部のアチェ(当時はラムリという地名)のあたりを通過してやってきたインド商人やアラブやペルシャの商人たちがここに集まったのである。(中略)タクアパ同様、ケダもインド商人はタミール系(南インド)の人たちが多かったといわれる。彼らは商人ギルド(同業者組合)を作って、組織的に通商を行っていたものと推定される。


 現在のアチェやマレーの人たちはインド人の血が入っているように見える。
Page 102から
 末羅瑜はムラユであるが、今日のマレー半島を意味する言葉ではない。スマトラ島の東南部とその海域、リアウ諸島のあたりを示す言葉である。そこの言葉はムラユ語(後のマレー語、インドネシア語の原型)であり、ジャワやセレベスやモルッカ諸島の港湾都市の商人の間で使われた共通の国際語(リンガ・フランカ)だったのである。これらの地域の物産(米、香辛料など)は末羅遊の地にもたらされ、そこからチャンパ(インドシナ半島)や中国やアラブ方面に再出荷された。もちろんケダにもそれらの物産は運ばれた。


 「末羅瑜」と「末羅遊」とあるが同じ国だろうか? リアウ諸島はシンガポールの南方に位置する。現在はリアウ州と呼ばれていてその東南はパレンバンのある南スマトラ州である。ということはパレンバンと末羅遊は深い関係があったのだろう。
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2008-11-08 作成
2008-11-25 追加
2008-12-04 追加
2015-03-16 修正
2019/12/16 修正

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