嗚呼、インドネシア
54話 スリウィジャヤ Sriwijaya
3. 古代の東西貿易の歴史
東西貿易の流れ
Page 79から
歴史的に見てインド側から商人が東南アジアや中国に出向くという形が一般的であった。(中略)文化的にも進んでいたインド商人たちは、この地の支配者の娘と結婚するなどして、この地の支配者となるものも出てきたことは想像に難くない。また、古くからインド人のコロニーもかなり存在したしたことは間違いない。
初期の中国との貿易をほぼ独占していたのは林邑(チャンパ)と扶南(フナン)であった。扶南の支配者はインド系であったが、林邑の方は漢族の地方官僚の子孫の区連というものが反乱を起こして建国したが、後に王統は何回か変わっている。

Page 79から (扶南の登場)
一世紀末から二世紀初頭に扶南の王となった混填(カウンディニヤ)もそういう例であり、現地の王女「柳葉」と結婚し、国王となったと伝えられている。
Page 80から
また四世紀末にバラモンの?陳如(カウンディニヤ)は「盤盤国(チャイヤー)」経由で扶南にやってきて国王となり、さまざまな制度改革を行ったといわれる。このことか盤盤と扶南はいわば表裏一体の関係にあったことが推察される。5から6世紀に中国との取引で活躍するのは当然後者のカウンディニャの子孫である。?陳如闍邪跋摩(カウンディニヤ・ジャヤヴァルマン)は梁の天監二年(503年)に珊瑚製の仏像などを献上し、安南将軍・扶南王の称号を賜った


 林邑はインドシナ半島では唯一のオーストロ・ネシア語族である。度欲はチャンパについて調べてみたいのだが、この本ではあまり触れられていない。ちょっと残念である。
Page 80から
バラモンというカース最上層が普通は卑しいとされる商人になった例が少なくないということは、(中略)バラモン(ブラーマン)というのはもともともインドに入ってきたアーリア族の村落の宗教指導者であったが、時代を経るにつれ次第に階層内分化を遂げ商業などに従事するものが現れたという。

 カースト制度というのは非人間的であると理解されている。しかし、カースト制度は職業の父子相伝が主目的である。技術移転という面においては父子相伝以上最適な方法はない。さらに、階級の固定化は社会階層間の流動性を阻害するものである。すなわち、社会の安定に役立つのである。下克上の時代より徳川時代のほうが安定していたのがこの証拠である。
 バラモンは代々、父子相伝で、厳しい知育教育を受けてきている。宗教指導者であるとともにその村落で深い知識をもつものであった。従って、経済状態の変化にも敏感に反応できるので商人には最適だったからだろう。
Page 80から
東南アジアの王朝は「東西貿易」すなわちインドからもたらされる商品や地元の香木、香料、樟脳などの産品を中国(隋・唐王朝など)に売りさばいて利益を上げ、政権維持の費用の一部をまかなっていたことであろう。農民から取り立てる税のみでは鉄製の武器などの費用としては到底足りなかったはずである。また、周辺にはかなり広大な水田稲作地帯を有していたに違いない。それによって膨大な人口と兵員が確保でき、王国としての独立性を保てたと考えられる。海上輸送はおそらく「海軍」にも似た兵員(船乗り)の護衛(戦闘力)が海賊対策として必要であったに違いない。

 近代イギリス海軍は海賊がその発祥であるといわれている。古代の商船はどこでも武装商船であり、操船用の水夫だけではなく兵隊も乗せていたことは十分に考えられる。時々自分が海賊に早変わりしたこともあったろう。
Page 81 から
そういう意味では室利仏逝もインドシナ半島(今のカンボジア)に君臨していた扶南と似たような性格の国家であったのではなかろうか。いな、室利仏逝は扶南の亡命政権なのではないかという見方すらできる。


 そうかもしれないし、そうでないかもしれない。そのうち結果は分かるだろう。
Page 81 から
『南斉書』扶南伝によれば扶南は「為船八九丈、広裁六七尺」というかなり大型の船を持っていた。後漢時代の尺度では一尺が23cmといわれていたので、9丈なら長さ21m、幅七尺なら1.40mという長細い手漕ぎの船であったようだ。もちろん外洋で使用する船はもっと幅も広く風向きによっては帆も使える形になっていたであろう。これは扶南の港オケオとバンバンとの連絡には十分な大きさである。季節風にもさほど影響されなかった。また、この船を連ねて大勢の兵士を乗せて周辺諸国に侵攻し、主要な港湾都市国家を自国の支配下に板。特にマレー半島は東西両岸の支配が重要であった。周辺貿易港の制圧を積極的に行ったのははん(草冠に氾)蔓という元将軍であった後に推されて扶南の王になった人物といわれている。


 本文で「船八九丈、広裁六七尺」と書いてある。この数値の前の「八」と「六」にはなにか意味があるのだろうか。度量衡がどうなっていたか知らないが、著者の計算だと一丈を10尺としている。この数値と、それらから類推した寸法でこの船の外形を描いてみたものがこれである。
 船型はその用途で決まってくるのはご存知のとおりである。貨客船に要求されるのは速度より積載量である。積載量を増やすには船幅を広げて喫水を深くすることで解決できるが、推進抵抗が大きいので、高速で運行するには大馬力のエンジンが必要になってくる。エンジンを小さくするのなら船幅を狭める必要がある。スクリューとエンジンが開発される前は船の推進力は帆か櫂であった。帆走するためには横倒れを防ぐためにカタマランか幅を広くせざるを得ない。しかし、常時推進力が必要な船舶の場合には櫂を使わざるを得ない。漕ぎやすくするためには船型を細くせざるを得ないのである。現代のシーカヤックの幅は約65cmである。
 この舟は長崎のペーロンなみに細い。これは平水用の手漕ぎの高速艇であるといえる。船幅から見ると横に二人座って櫂で推進するものであったろう。一方、帆船にするにはアウトリガーをつける必要がある。しかし乾舷が1.5 - 0.8 = 0.7mしかないので、横波を食らうと転覆するか船内が浸水してしまうだろう。
 ちなみに、スマトラのバタンハリ川上流部で使われていた「笹舟」は艇長約10m,船幅が約2mあり、積載量は5 tonであったと記憶する。この笹船は25馬力の船外機をつけていた。
 一方、南洋の海岸はさんご礁が多いから、輸送船としては喫水の浅い船が使いやすいのではあるが、この数値から見ても上図の舟は輸送船として使われたのではなく、戦闘などの高速移動用に使われたものであろうと思われるのである。

中継貿易の変化
Page 82から
第一段階はインドは中国との交易を進めるにあたってビルマとタイ経由で北に向かい陸路中国(雲南地方)に到達する方法や南に向かいチャオプラヤ流域のモン族系の諸都市を通って、扶南に積荷を引き渡すという、中継貿易を行っていたものと思われる。現在のタイ王国の領域のビルマ国境周辺からチャオプラヤ川流域にかけては、当時モン族が居住しており、彼らはドワラワティ(Dvaravati=堕和羅)として中国に知られていた。
たとえばビルマ側の
(1) マルタバン(Martaban)→タク(Tak)→ピン川を下りナコンサワン(Nakohn Sawan)→アントン(Ang Thong)というルート
(2) マルタバン(Martaban)→三仏塔(スリーパゴダ峠)→カンチャナブリ(Kanchanaburi)→ナコン・パトム(Nakhon Pathom)というルート
(3) タボイ(Tavoy)→ラチャブリ(Racha Buri)→ペブリ(Phecha Buri)
(4) メルグイ(Mergui)→プラチョウプ・キリ・カン(Prechuap Kiri Khan)
というさまざまなモン族居住地内ルートというべきものが存在した。


 さあて、文字だけでは分からないから地図で示してみよう。
 青い線で示したインドシナ半島西岸に上陸して山越えしてタイ側に出るルートである。
 輸送能力が高い海上交易ではなく陸上交通を利用したのは造船術と航海術が発達していなかったためなのだろうか。それにしても彼らの数千年前から太平洋を横断する技能を持った人たちがいたにもかかわらず、輸送効率が悪い陸上輸送に頼ることになったのは、大国がなかったために治安が良くなかったのであろうか。
Page 84から
第ニ段階はインド方面からやってきた商人はマレー半島の西側の港にいったん船をつけて、貨物を陸路で東海岸(タイ湾側)に運び、そこから再度船に乗せ、カンボジア(扶南、後に真労臘)やベトナム(チャンパ)経由で、あるいは直接中国に海上輸送した。陸路を横断するのに要する時間は最短一週間程度であり、かなり遠回りしても一ヶ月程度であったものと思われる。そうすることによって同じ年の季節風(この場合は南西風)で一挙に中国までいけた可能性があり、インドシナ半島のチャンパ(林邑のちには占城)あたりまでは確実にいけたはずである。
この場合主なルートは二つあった。
Page 85から
Aルートはタクアパ(Takua Pa)やその周辺(やや南のプーケット島)と東のバンドン湾に位置するチャイヤー(Chaya)のルートである。
Page 86から
B-.ルートはマレーシア・ケダ州ブジャン渓谷(Lembah Bujang)付近のめる僕(Mrbok)川やムダ(Mudah)川の河口に荷揚げし、それを東側のパタニとソンクラ、もしくはコタバルに運ぶルートである。
中間ルートはプーケットの近くにあるクラビ(Krabi)周辺もインド商人が寄港したことが知られている。南に下がったところにあるトラン(Trang)から東に60km先にあるタイ湾に面したパッタルン(Phatralung)がそのルートである。


 上の地図で赤い線で示したルートだ。なぜ新しいルートは古いルートより南に作られたのか? モン族居住地域で治安が不安定になったためか。それとも造船術や航海術が発達したため、ある程度の横風でも安定して走ることができたのだろうか。まったくの謎である。
Page 87から
この中間ルートも古代から重要な役割を果たしていたことは疑いない。おそらく『梁書』に語られる狼牙須(ランカスカ)はナコン・シ・タマラートからこの周辺にかけて存在していたのではないかと思われる。


 上の地図で緑色の線で示したルートだ。狼牙須(ランカスカ)の漢字の当て方から見ると、ランカスカの人たちは当時まで山岳民族の風習を保っていて狼の牙を飾りにつけていたのではないだろうか。また山岳民族は一般的に言って強い呪術を持っているので、それがインド人には怖かったのかもしれないし、アニミズムのままで仏教にまだ帰依していなかったのかもしれない。いまでも山岳民族の間には呪術などのアニミズムが強い影響を与えているからこう感じるのである。
Page 88から
隋の時代には「赤土国」が中国側にクローズアップされ、この「中間ルート」がいかなる役割を果たしたか手がかりがつかめなくなってしまう。しかし、クラビやナコン・シ・タマラートなどのいくつかの町は今なお健在であり、近世に至るまで交易の要衝としての一定の機能を果たしていたものと推定される。


 著者のホームページでは赤土国をRaktamrttikaと書かれているが、インド人のブラーマンに尋ねたところサンスクリット語で「赤い土」を意味する言葉をアルファベットで書くと Rakta-Mrittikaだそうだ。著者はこれ以外にも一般的でない漢字の地名、ケダを「羯茶」と、パレンバンを「旧港」としている。現代の表記ではおのおの「羯荼」と「巨港」である。マレー語では「赤い土」はTanah Merahである。ジャカルタの中心地にあるTanah Abangという地名も赤い土を意味しているとのことである。
Page 89から
第三段階は中国の宋王朝の成立した10世紀以降である。インドからマラッカ海峡を南下し、スマトラ南部のパレンバンやジャンビに行き、そこで中国から来た商品(主に陶磁器)を仕入れ、インドに帰っていくという方法である。この時期の特徴は中国商人が自ら仕立てたジャンク(中国式大型帆船)で陶磁器などの積荷とともに東南アジアに出向いてきたことである。それは南宋の時代になって中国商人の海外渡航が市舶司制度によって公認されるようになったことが大きく影響している。
ジャンク船 Wikipediaより
ジャンクとは「ジャンクメール」の「ジャンク」である。
このジャンクの船首付近の船底にダガーボードと呼ばれる垂直板が付いているのがみえるだろう。これは横風の際に船が風下に流されるのを防ぐ役目がある。また船尾に舵がないのに気づかれた方はいるだろうか。大型船になればなるほど舵も大型になる。舵はその上に伸びたまっすぐな棒を回転させることで舵が右へ左へと取れる。しかし、舵には方向転換のときだけではなく、横波やうねりを乗り越えたりすると舵に大きな力がかかる。したがってこの舵の棒を支えるのに 堅固な装置が必要になる。しかし木造船の場合は構造材の強度の関係からある程度大きいものは作れなかった。
 また、舵は船底からかなり突き出さないとその役目をしないのである。船本来の目的は「輸送」である。輸送のためには船に積み込むことと荷おろしが必要なのは誰でもわかるだろう。「岸壁に接岸すればよい」と思われるだろうが、そうは問屋が卸さない。近代までの港湾施設は非常に貧弱であり、特に南海の島々はさんご礁で囲まれている。さんご礁の内側は満潮時でも二メートルくらいしかないから、舵がつかえてさんご礁の中に入れない。大体波打ち際からさんご礁の外側まで500mから2kmはある。本船からさんご礁内側のとがった珊瑚石のかけらを踏みながらこんな距離を重い荷物を背負ってあるくのはごめんである。そこで舵を船の横に取り付けてさんご礁の内側では引きあげて、本船が波打ち際に近づけるようにし、帆を降ろして櫂の代わりに使っていたらしい。
 帆船の時代には中国のジャンクの方が西洋の帆船よりずっと実用的だったので、ヨーロッパ人のくやしまぎれからジャンクという言葉に悪い意味がついたらしい。なお、西洋帆船がこのジャンクを速度記録で破ったのはウイスキーのラベルにある紅茶輸送船「カティーサーク号」である。残念なことにカティーサークが活躍しはじめのは動力船の時代が訪れるわずか前のことであった。西洋帆船はみてくれはきれいだが、マストについている水平の梁に多数の帆を張るため、帆の操作にたくさんの人手がかかった。水夫が多ければそれだけ反乱の危険もあるし、食料も積み込まねばならないから不経済なのである。
 帆船が動力船に一気に変わってしまった最大の原因は軍艦に大きな大砲が積めなかったからである。帆船の場合には船の両側に小型の大砲をつんでいた。この位置で大型の大砲を撃つと発射のショックで軍艦が転覆してしまう。旋廻砲塔にすれば船の重心近くに大砲があるので発射しても転覆しない。さてそうなると帆柱が邪魔である。
 また、動力船は風の有無や向きに関係なく進めるから、帆船に比べて軍事的には非常に優位に立てたのだ。こんな理由で帆船はアソビ用になってしまったのである。
Page 89から
この時代もシュリヴィジャヤ王家は存続し、中国では「三仏斉」として知られるようになる。一方、室利仏逝の名前はこの時代には完全に消滅してしまっている。両者の間に関係があったいう認識も中国ではなかったようである。

 室利仏逝と三仏斉とは異なる王朝であったのだろうか。あるいは今のマレーシアのように小さな国が集まった連合王国であり、その代表となる小さな国が異なったのであろうか。もし同じ王朝なら、漢字名でも名前を変える必要はないからである。
Page 89から
第三段階に入ってもなおかつ「マレー半島横断ルート」はかなり活用されていたるというのは宋の陶磁器がバンドン湾のチャイヤーから大量に出土したことを見てもあきらかである。(中略)リゴール(ナコン・シ・タマラート)やその南のソンクラやパタニも同様である。


 パタニ(Patani)は今のインドネシア語のPetaniと似ている。意味は「農民」である。このあたりは平地が多いから水田工作が盛んな地方であったのかもしれない。

 ケダ(アロールスター市の海岸)をインド洋側の港とすると、ソンクラ、パタニ、コタバルの各都市との陸路での連絡は、ソンクラのみが平地であり、その他の二つの都市に直接行くは標高400mの高原を越えなくてはならない。したがって、馬車や牛車で輸送する場合にはケダ-ソンクラ間の平地の区間を利用したに違いない。これらのルート沿いには小規模といえども必ず遺跡や歴史があるはずだから、文献で調べてみるのも興味がある。

Page 89から
第ニ段階(唐末まで)においてもインド方面からマラッカ海峡を南下し、南シナ海に抜けて、中国に直行するというルートは存在したが、マラッカ海峡に入ると南に方向転換するため夏季の西風が利用できず、むしろ逆風となるため大変時間的ロスがあり、帆船は数ヶ月の船待ちを強いられるのが普通であった。マラッカ海峡直接縦断ルートは季節風の影響で、マレー半島横断ルートより最低でも四ヶ月は余計に時間がかかったと見られる。


風待ちは帆船時代にはやむを得ざる行為であった。乗組員により港町は栄えたのである。今のように積荷の載せ替えだけの停泊期間ではなかったのである。
Page 90から
マラッカ海峡は海賊が出没するので、長い間「マレー半島横断ルート」が東西貿易の主流になっていたことも銘記されなければならない。


 もしスリウィジャヤがジャンビやパレンバンに存在したのなら、自国の貿易船を守るためにこの海域を制圧していなければならないはずである。しかし、海賊が頻繁に出没したということはマラッカ海峡南部の海域は治安不安であった、すなわち強大な貿易王国がこの海域を制圧していなかったことになり、スリウィジャヤパレンバン説は矛盾することになる。あるいはスリウィジャヤは大きな海賊国家であったのかもしれない。
Page 90から
三仏斉時代に入るとナコン・シ・タマラートが勢いを得る。それは西岸のケダとの連係プレーの中で維持された。13世紀末以降もタイのスコタイ王朝その後のアユタヤ王朝もマレー半島の両岸同時支配のために並々ならぬ努力を続けるのである。


 バンコクより北側にある王朝が150kmも南まで大軍を出して制圧する必要があったのは、そこが利益を生む栄えた地域であったからであろう。農耕地が少ないこの地域で栄えた地域の基本産業とは農業ではなく貿易であったろう。その土地で生産されるものでなく、中継貿易地として栄えたのだろう。今のシンガポールのような存在であった。地図を見るとタイ領の中にもたくさんのマレー語の地名があることから、近世にいたるまでタイの王朝は南進してこの貿易ルートを確保しようとしていたという著者の主張に納得できるのである。
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2008-11-08 作成
2019/12/16修正
2008-11-25 追加
2009-09-26 追加
2015-03-16 修正
2019/12/16 修正 

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