嗚呼、インドネシア
53話 ワリ・ソゴへの突撃妄想インタビュー
第八章 スナン・ムリアSunan Muria, (or Raden Umar Said)
スナン・ムリア。カリジョゴの息子で、もとの名はラデン・ウマルシャイドまたはラデン・サイドであった。彼の布教した地域はムリア山の山腹の村々を主としており、死後ムリア山の山頂に葬られたので、後にスナン・ムリアとして知られるようになった。
インタビューアー お答え
- 失礼します。スナン・ムリアさん。お休みのところをお邪魔して申し訳ございません。えー、私、度欲と申します日本人で、インドネシア、特にジャワに思い入れをしている者で色々とウエブサイトに記事を掲載…………。
ん。ついに来たか。まあ、テラスの椅子にでも腰掛けて待っていておれ。
- ………… (ずいぶん横柄な言い方だなあ、門前払い掛けられるかもしれないな)
待たせたな。何じゃねインタビューとは。
- はい。色々とお尋ねしたいことがありましてお伺いしました。まずは、ぶしつけですが、お父上のカリジョゴさんとあまり似ていらっしゃらないようですが。
ははは、そうだね。ワシは母親似なのだ。だからあまり父には似ていないのだよ。
- 中央アジアの人たちの血が少し混じっているようにもみえますが。 母はタジクスタン人の末裔だったから、マウラナ家の人たちと似ているように度欲君には見えるかもしれないね。
- お父上はサルタンだったのですが、なぜあなたは地方に降りてそこの人たちに布教したのでしょうか。 ワシはジャワ人の血も引いているから人ごみを逃れて山岳部にいて瞑想するほうが好きだった。またご存知のようにイスラムは都市の宗教であったが、その考え方を地方に伝播したいと願っていたから、ムリア山麓付近で布教を続けたというわけだ。
- 一般的に言って、山岳民族は伝統文化を守り続けなかなか新しい文化になじまないという傾向がありますが、ムリア山麓の人たちはどうでしたか。
平地に比べて生活が苦しいとはいえ村民の先祖は平地の人だった上に、もともとジャワには山岳信仰がありヒンドゥー時代には寺院の僧たちから社会教育を充分に受けていた。さらには平地の文化は巡礼者などからもたらされていた。したがって、それほど布教は難しくはなかったんだ。
- そうだったんですか。時系列的にあなた方ワリソゴの活動時期を表にしてみるとあなたがスナン・クドゥスさんと同時期で最後の世代になりますね。その世代のあとはどうだったのでしょうか。 ワシらの世代のあとはジャワにおけるイスラム布教が導入期から普及期にはいったので、導入期に活躍したワリソゴはワシらで終わりなのじゃ。
- ありがとうございました。最後の質問です。いまあなたの魂はどこに住んでいる方の体に宿っているのでしょうか。 むむむむむ。ムスリムにとって嫌な質問だね。そうだね。南米スリナムのギアナ国境付近にいる太っちょのおっかさんになっている。寒村で小さい店を開いて四人の子供の子育て真っ最中なのだ。
- 答えにくい質問がたくさんあり、失礼が多々あったことをご容赦ください。
 スナン・ムリア(Suan Muria)、別名ラデン・ウマール・サイド(Raden Umar Said)はガメラン音楽を布教に活用した。彼は地方の普通の人と働くことを好んだ。
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2008-09-01 作成
2015-03-16 修正
 

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