嗚呼、インドネシア
53話 ワリ・ソゴへの突撃妄想インタビュー
第三章 スナン・ボナン
スナン・ボナン。スナン・アムペルの息子で、マウラナ・マッドゥム・イブラヒムとも呼ばれる。彼が特に布教した地域は、トゥバンの町とその周辺である。
インタビュアー お答え
- 失礼します。スナン・ボナンさん。お休みのところをお邪魔して申し訳ございません。えー、私、度欲と申します日本人で、インドネシア、特にジャワに思い入れをしている者で色々とウエブサイトに記事を掲載…………。 父のイブラヒムからちゃんと聞いて知っていますよ。まあどうぞはいってください。
- まず定型的な質問からはいります。先生のお生まれはどちらでしょうか? 実はな、ワシは今のクーウェート近くで生まれたのだ。そして三歳くらいまでそこですごして、はるばる船に乗ってここジャワまで来たというわけだ。
- で、お父様はなんのお仕事だったのですか? 商人をしていた。今で言う貿易商だった。父と共に幼いワシはペルシャ湾を出て、今のムンバイ付近でしばらく逗留した。セイロン島を回ってマドラス、カルカッタを通ってきたのだ。当時ジャワではインドのことをグジャラートと呼んでいたが、それはムンバイの西側にあった地域の名前だった。
- ということはお父様がいらっしゃったということですか? そうですよ。なぜそんなことを尋ねるのですか?
- でも先ほどお父様を訪ねたときには、誰にも会わないということでしたので、実は空想上の人物かと……。 父は人の選り好みが激しいのだ。度欲君は父に嫌われたのかもしれないね。はははは。
- お父様はデマック王国の建設にご尽力されたのですが、先生はなぜデマックの近くで布教されなかったのでしょうか? ワシが青年になるころにはデマック付近では布教が進んでいたから別な土地を選んだのだ。それは、王国の版図拡大のための父の差し金もあったからだ。
- 本によると、トゥバン地域で布教を進められたとのことでしたが、トゥバンを選んだ理由は何だったのでしょうか? それはな、数百年前からトゥバンは国際貿易港だったから、自由な雰囲気にあふれていて外国人に対する偏見などが少なく、布教しやすかったからだ。
- いまではトゥバンはさびれた港町ですね。 そうだね。造船技術と航海術の進歩で、地理的、地勢的に見てその時代に適応する商業港が変わるのはやむを得まい。時代の趨勢だね。
- 当時布教されていたイスラムは今の正統派のイスラムではなく、スゥフィズム(イスラム神秘主義)の影響が強かったといわれますが、いかがでしょうか? そう。そのとおりだ。アラブのイスラム政権が勢力を拡大するにつれ、中央集権的な考え方が強まり、多数のスゥフィーたちが、邪教を教えているという理由で惨殺された。惨殺を避けるためにスゥフィーたちはイランからアフガニスタン、パキスタン、インドへと東進せざるをえなかった。安全だったインドを経由して、当時利用されていた海のシルクロードを通ってきたのだ。ワシらの神秘主義的イスラム思想は、もともと神秘主義的であったジャワ人に無理なく受け入れられて今の状態に至ったというわけだ。度欲君も前世はスゥフィーに近い存在だったからスゥフィーの辛さがわかるだろう。
- はい。よくわかります。ましてや私は密教的クジャウエンですから。(笑) (笑)そうだな。
- もう少し詳しくご自身についてお尋ねしたいのですが………。 それはさしさわりが今でも出るから、止めておこう。時が来たら度欲君に続きを語ろう。さらばじゃ。
というわけで、インタビューはこれにて終了してしまいました。

以下はWikipediaサイトで入手した英文を和訳したもの。

http://en.wikipedia.org/wiki/Sunan_Bonang

スナン・ボナンは本名ラデン・モウラナ・マクドゥム・イブラヒムであり、東部ジャワのトゥバンにて1465年に出生し、1525年にバウエアン島(Pulau Bawean)で没する。

スナン・ボナンはトゥバンの中国総督ガン・エンチュの子孫である。父はスナン(アムペル)であり、父も華人の子孫であるともいわれている。

イスラムの有力な導師になってからは、一般のジャワ人にイスラムの布教を行い、イスラム思想を普及させた。ヒンドゥー哲学の影響が強かったジャワの伝統歌曲にイスラムの思想を取り入れた。またイスラムの学習のためにガメラン音楽を取り入れた。その一つがトンボ・アティ「心の癒し」と呼ばれているものである。

(筆者註)

インタビュー記事とwikipediaの記載内容に大幅な違いがありますが、気にしないでください。
ワリソゴの表紙へ 次へ進む

目次に戻る

2008-07-30 作成
2008-08-02 肖像追加
2015-03-16 修正
 

inserted by FC2 system