嗚呼、インドネシア
53話 ワリ・ソゴへの突撃妄想インタビュー
第四章 スナン・ギリSunan Giri
 スナン・ギリ。彼はパサイで学んだのみならず、聖地でも学んだことがあった。それゆえ、グレシクに住んでいたギリのもとに、マルクやヌサ・トゥンガラからイスラムの教えを学びに来るものがあったことも、別に驚くに値しない(ソリヒン・サラム著『ワリ・ソゴをめぐって』37頁)。
インタビュアー お答え
- 失礼します。スナン・ギリさん。お休みのところをお邪魔して申し訳ございません。えー、私、度欲と申します日本人で…………。 お前に話すことなどない!
- まあまあ、そうおっしゃらずに。色々と教えていただけるとありがたいのですが。
お前に話すとろくなことにならないからなあ………。
- おじさまはマウラナ・マリク・イブラヒムさんでしたよね。
そうだが、それがどうした。
- お父様のマウラナ・イシャクさんはヒンドゥー教国に布教に出かけられてその地であなたを授かったけれども、モーゼは川でしたがあなたは海に流されてしまったと聞きますが。
うん、そうだ。しかし、母親が乳母などをつけてくれたから飢餓にあえぐということはなかったし、父親を慕っているチャンパ人のイスラム信者が隠れて援助してくれたのだ。
- それでジャワ島へ?
そうだよ。叔父はジャワの地で布教に成功していたし、師と仰ぐのに充分な資質を持っていたから叔父に師事したのだ。
- 奥様は師匠の孫娘さんでしたね。叔父である師匠がよほどあなたを大事にしていたのだろうとおもいます。その師匠の期待に応えてあなたはがんばって勉強しそして布教を続けた。
そうだ、そのとおり。
- では、なぜ正統派イスラムの方を選ばれたのでしょうか?
それまでのジャワでのイスラムはイスラム神秘主義がはびこっていて、ともすれば神秘主義に傾きがちだった。それをアッラーの方に向けるようにしたのだ。これはチャンパ国でも同じようにイスラム神秘主義がはびこっていて、本来のイスラムが伝統的なアニミズムと結びついた結果、ともすれば信仰が本来のイスラムから離れていったのをチャンパ国で体験したからだ。その結果、ムスリム同士が乖離し、いまでも対立している。だからジャワではイスラム神秘主義が固定化する前に、正統派イスラムのほうに方向を変えようとしたのだ。
- わかりました。しかし、ジャワ人自体の基本的思想は密教的でありいまでも残存しているクバティナンなどと、どうやって折り合いをつけたのでしょう。またあなたの思想とナフダトル・ウラマあるいはムハマディアの思想との違いは何でしょうか?
確かにジャワ人たちは密教的思想を持っている。いまでも見られるように苦行を重ねている。ワシの当時は今よりももっとひどかった。そんな苦行をしなくてもアッラーにコンタクトできるのだということを知らせたかったのだ。しかし、それもワシの努力の甲斐もなく500年の間にいつしか元の木阿弥に近くなってきてしまったのは残念だ。わしの思想とナフダトル・ウラマあるいはムハマディアの思想との違いは自分でもう少し勉強しなさい。
- ナフダトル・ウラマの思想はジャワの伝統的考えにイスラムを植えたもの、ムハマディアの思想は中東からの直輸入思想であると考えており、ナフダトル・ウラマの考え方のほうがジャワの自然環境に合致しているような気がしますが、いかがお考えですか?
そうかもしれないが、イスラムの精神を守ろうと思うと、ジャワ的な考え方は捨てなくてはならないのだよ。イスラムは理性的な考え方を重んじるが、ジャワでは神秘的な事項を過大評価していると思う。だからそれを正さなければならない。しかしムハマディアの思想はジャワの大衆にとってはちょっと先走りしすぎているのは確かだ。だからといってナフダトル・ウラマの考え方が全て正しいとは言い切れない。伝統的な宗教組織であるからその中には信者からの人口圧力シンドロームで、指導者が望んでいる本来の方向とは違う方向に走り始めている部分もあるからだ。
- ご一生に関することに戻したいと思います。お生まれはどちらですか?
昔のチャンパ国、今のベトナム中部だ。
- ご結婚されてからは幸せでしたか。
もちろんさ。そしてたくさんの弟子ができてイスラムの布教がますます進んだのだ。
- お父様がチャンパに渡られた動機についてなにかご存知のことは?
叔父であるマウラナ・マリク・イブラヒムが、東南アジアに布教をはじめ、父はその雄姿を見て奮い立ったのだろう。
- 最後になりましたが、あなたの魂はいまどこにいる人の体内に住んでいらっしゃるのでしょうか。
うん、いまはチェンカレン(スカルノハッタ)空港の南にあるBatu CeperのAlam Raya Cengkarangに住んでいる。
- はい、どうもながながとありがとうございました。

スナンギリSunan Giri (Raden Paku)はマラッカ(Malaka)で学びグレシクにイスラム学校を開設しマタラム王朝の出現を予言していた。さらにロンボク島とスラウェシ、アンボンにイスラムを布教したのである。彼は正統派のイスラム信者であり、イスラムの改革派(モダニストと呼ばれる1800-1900年にかけてのイスラム学者が奉じたような考え方)には反対の立場を取っていた。伝説によると、彼はヒンドゥー教徒であったバラムバガン(Balambangan)妃と、そこにイスラムの伝道に出かけて知り合ったマラカのマウラナ・イサク(Maulana Ishaq)の間の子であったということである。あらんことか、周りの圧力でお妃は生まれたばかりのスナンギリを小さな船に乗せて海に流さざるを得なかったがこの赤ん坊は水夫に偶然に拾われ、長じてはスナン・アムペルの弟子となり師匠の娘と結婚したのであった。

 2009-07-29にグレシックにあるスナンギリの墓所に参詣してきた。カメラの調子が悪くほとんど写っていないが、墓所の隣にあるモスクの入り口の写真(下)だけがかすかに残っていた。(

この写真の手前路地を左に入るとスナンギリ墓所である。
 墓所下の駐車場から数十メートルの距離を登るだけの低い丘の上に墓所がある。北側にはジャワ海がよく見える。砦を作るなら当然ここに作るはず。
スナンギリの墓所は下の写真の右のように木造の建物で覆われていて外からは見えない。この建物の彫刻は荒々しく美的とは言えないが、素朴さが残っている。Jiara(参詣)に来ていて田舎の人たちと20分以上待ったが、 墓所の扉があかないのでしびれを切らしてその場所を後にした。
http://indonesiacultural.blogspot.com/2008/03/historical-cemetery-in-gresik.html
からお借りした下の写真の左側には床がタイル張りの吹きぬけの待合室がある。そこも墓地であるからして墓標がタイルの床からにょきにょき立っている。
 この墓所の入り口付近に屋根つきの待合室がある。もちろんそこも墓地であるから、ニサン(イスラム式の墓標)がたくさん立っている。そのそばを通り抜けようとした時、自分の耳を疑う声が聞こえた。といっても脳に直接届いたメッセージだった。それは、明瞭なインドネシア語で「ワタシ、日本に行ったことがありますよお」とう男性の明るい声だった。
 その声は、一つの墓標の間から出てきたものであった。この声がした墓標は他のものとは異なり頭の部分が平たい四角い墓標であった。こう書いているときにも、むねがつまって、彼らからのコンタクトを感じている。彼らが筆者に何か伝えたいことがあるのだ。
 この墓参には筆者ただ一人で行き、日本人と思われるようなものは一切身につけていなかった。なぜ筆者が日本人であるとわかり、霊がコンタクトしてきたのだろうか。
 霊が声をかけてくるときはこちらを驚かさないようにするのが普通なので、この墓地で眠っているのはひょっとするとインドネシアの人ではなく室町時代の日本人商人の末裔なのかもしれない。
 次回、この墓標を詳しく調査をしてみたいものである。行けるかどうかは、とにもかくにもインシャラーというしかない。縁があればまた訪問できるだろう。
 
++ここからは後日談++
2022年9月13日にたまたまGresikに出張する機会があり、この墓地を再訪することができた。
2009年の訪問時から建物が追加されていて、上の写真の建物の上にさらに大きな屋根がかかっていた。床も新しく赤いタイルでふきなおされていたので、少々とまどったが、この区画の案内人に改装したのかと尋ねたところ、そうだとのことであった。声が聞こえたのはたしかにこの墓地内であることを確認した。
心の中で「先般、私に声をかけてくれたのはどなたですか」と唱えながら墓地を一周すると、答えが返ってきたのは墓石(Nisan)の形と寸法から分かるように幼児の墓石からであった。
 
墓石からは何も読み取れず、名前も没年も分からなかった。
墓石の前に座って瞑想しながら、いろいろと尋ねた結果をまとめるとこのようなものであった。
このお墓に住んでいる霊は、元日本人男性であり、慶長の役を知らないことから、室町時代にこちらに渡ってきたようであった。日本からはマニラ・ベトナム・タイ・マレーシア経由でたどり着いたとのこと。仕事は船乗り兼海賊で、その腕を買われてGresikに居ついたようだ。こちらでムスリム女性と結婚して子供ができた。この墓地は夭逝した自分の娘(カヨ)と息子(ダイゴロウ)のものであった。他にも子供がいたようで、今でも子孫は健在であるとのことだが、探さないでほしいと頼まれた。
この男性と妻の墓地は不明である。ひょっとすると海難事故か何かで亡くなったのかもしれない。
Sunan Giriの墓所近くに埋葬されるのは親族のみであるから、この男性の妻はSunan Giriの親族であったのではないだろうか。
日本が恋しいだろうから、日本から持参した飴玉を墓地に供えてきたのであった。
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2008-08-31 作成
2009-08-16 追加修正
2015-03-16 修正
2022-0915 追加 

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