嗚呼、インドネシア
53話 ワリ・ソゴへの突撃妄想インタビュー
第一章 マウラナ・マリク・イブラヒム
 
マウラナ・マリク・イブラヒム、またの名をシェク・マグリビ。生粋のジャワ人ではないが、最初にイスラムをジャワに持ち込んだ人物なので、ジャワ人に崇敬されている。グレシクにあるマウラナの墓碑銘によると、没年はイスラム暦882年。すなわち西暦1419年である。

2009-7-29
マウラナ・マリク・イブラヒムの墓所。このとおり参詣人が後を絶たない。この墓地には案内人がいるので説明を受けるとよい。
インタビュアー お答え
失礼します、マウラナ・マリク・イブラヒムさん。お休みのところをお邪魔して申し訳ございません。えー、私、度欲と申します日本人で、インドネシア、特にジャワに思い入れをしている者で色々とウエブサイトに記事を掲載しております。かねてからワリソゴに関しては興味を抱いていたところ、先日、マルバングン・ハルジョウィロゴ著「ジャワ人の行動様式」を読みましたところお名前が挙がっていたので、インタビューをさせていただきたくお邪魔いたしました。いま、インタビューしていただく時間はございましょうか?
ありますよ。どうぞ、どうぞおあがりください。日本からわざわざジャワまで来て昔のことを調べているあなたも奇特な方ですねぇ。
<影の声>本当は「ヒマな人だねぇ」と言いたいところだが…………。
- まあまあ。さて、先生のお生まれはどちらでしょうか?
北スマトラ州のタンジュンバライ(Tanjung Balai)町の近くにある海岸の村だ。
- とすると、先生はマレー族だったのですか?
そうではないが、よく似た顔つきをしていた。それもちょっと濃くてハンサムだったんだ。というのは我々はタジクスタンの人間だから、ちょっとアーリア人風な容貌を備えているからだよ。
- で、お父様はなんのお仕事だったのですか?
…………。
- ああ、すみません。実のお父上でなくても育てのお父様のことでも結構ですから。
ああ、そうか。父はこの町で貿易商をしていた。貿易商といってもそんなに手を広げてはなかったから、大金持ちではなかったがまあまあ裕福な家庭だった。
- それでイスラムはお父様からの影響ですか?
そうじゃ。父は敬虔なムスリムだった。父はシルクロードの要衝であるサマルカンドで育ち、先祖の関係もあり幼いころからイスラムに傾倒していた。
- ではご幼少のみぎりの話を。イスラムは学校で習われたのですか?
そうじゃ。当時は今でいうプサントレンしか学校がなかったからね。そこですばらしい導師とであったのだ。
- その導師とはどんな方でしたか?
年は35歳くらいで色白で小柄な人だった。なんでも今でいうベトナムの南部の出身だとのことだった。
- ということはチャンパ人であったのでしょうか?
そうだったのかもしれない。我々の話しているマレー語とは導師の抑揚や言葉遣いがだいぶ違っていたからね。父親からもよく聞かされていたのだが、当時は南シナ海の海上交易はチャンパ人がほぼ独占していて、かれらのコロニーがあちこちにあったのだ。わしの生まれた町の近くにもカンポン・チャンパ(チャンパ人の村)があったと聞いている。
- 少年時代にはどういうお子さんでしたか?
まあ、いたずら小僧というより、本の虫に近かったかな。でも15歳で成人すると父の手伝いで船に乗り込んでマレー半島やジャワにたびたび旅行した。立ち寄ったのはマラッカ、パレンバン、バンテン、チレボン、ペカロガン、ジェパラ、トゥバン、グレシックなどだった。s
- これらの町で恋の花などは?
そう。何度か旅行すると顔見知りも増えてきて色々と恋の花が咲いた。なぜなら、上の肖像画からわかるようにワシはハンサムだったし、イスラムのみならず新しい知識をたくさん持っていたからね。モテタよ、それは。うん、コホン。
- それで結婚されたのは何歳のときでしたか?
うーん、多分23歳前後だったと記憶する。ムスリムは四人まで妻をもてるので、チレボン、ペカロガン、トゥバン、グレッシクの娘たちと結婚した。だが、ペカロガンの妻とはそれほど長続きしなかった。
- 四人の奥さんの中で先生が一番影響を受けた人はどの方ですか?
そうだな。それはグレッシク出身の妻だ。グレッシクといってもジャワ人ではなく、チャンパ人のように交易で生計を立てているマカッサル人の娘だった。上に書いた港町にはかならずマカッサル人のコロニーがあった。当時マカッサル人は東インドネシアから南太平洋諸島まで交易範囲を広げていたからね。ジャワに来る商品は香料が主で、ジャワからの輸出品は米や穀物が多かった。
- 当時、アジア内の海上交易では干しナマコが重要な中国向け商品だったのですが、これについては何かご存知ありませんか?
さあて、ジャワでは干しナマコは輸入していなかったように思うが、華人の商人たちが細々と交易していたかもしれない。
- 話は戻りますが、青年時代ご活躍された場所はどちらでしたか?
なんといってもトゥバンだった。中年までトゥバンで商売方々イスラムを伝道していた。朝から昼間では貿易商、夕方からはイスラムの導師という生活を二十年以上続けたのだ。老齢期にはいって妻の出身地であるグレシクに移りそこで一生を終えたのだ。
- ご活躍の時期はマジャパヒト王国が衰退期に入っていましたが、マジャパヒト王国の印象はいかがでしたか? いやはや、驚いた。それはなんといっても人口の多さと農産物の豊かさだった。王都もきちんと整備されていたし、巨大なレンガ積みの建築物もあちこちにあり、大国としてのシステムがきちんと出来上がっていたのが、スマトラの片田舎から出てきたものにとっては実に驚きであった。
- ジャワでイスラムがヒンドゥー教を駆逐した理由についてどうお考えですか?
それはいくつかの理由が挙げられる。その理由のうちで主要な二つを挙げてみよう。
まずは世界史から見ると、ヨーロッパ諸国はまだペストによる経済破綻の痛手回復からアジアへ触手を伸ばせる余裕はなかった。またインドも国内のことで手一杯であり、中国もようやく明王朝が成立して鄭和の艦隊を友好のために送る程度で、海上進出をしなかった。だから、チャンパ人とマカッサル人が自由に海上交易に従事できた時代であった。
さて、当時、先進国といえば中東であり、その最新技術を習得するためには合理的な中東の思考法が必要になってきた。その思考法とともに彼らの宗教がジャワのみならず東南アジア諸国に広まったわけだ。これが第一の理由。 第二の理由は、イスラムはヒンドゥーとは異なり、全員神の前では平等であるから、ヒンドゥー教の下層カーストの人たちや、新しく来た移住者たちがヒンドゥー教からイスラムに入信したがった。イスラムはあなた(筆者)が書いているように生活をコーランという「マニュアル」にしたがってすれば天国にいける、と説いているので、ヒンドゥー教の繁文縟礼の教えに比べてわかりやすかったとも言えるだろう。
- ところで、別なお名前に「シェク・マグリビ」とありますが………。
多分、夕方に生まれたからということと、ジャワ人にとって「西」から来た人という意味があるのだろうね。
- また、お名前にマウラナとありますが、マウラナ・ユスフというマカッサルの王様とは何かご関係でもおありですか?
さあてね。それは自分で調べてごらんなさい。新しい事実がわかるかもしれないよ。
- またまたとんでもない質問で、ご容赦ください。先生は生まれ変わって今はどちらにいらっしゃるのでしょうか? いやはやムスリムにとってはとんでもない質問だね、度欲君。うん、チェプー(Cepu)とボジョネゴロ(Bojonegoro)の間にあるプルヲサリ(Purwosari)という町の郊外で農民をしている。もちろん、昔取った杵柄でキアイもしているがね。
- 今日は突然お伺いしてぶしつけな質問ばかりして申し訳ありませんでした。長々とありがとうございました。

 以下はWikipediaサイトで入手した英文を和訳したもの。信じるかどうかは読者のあなた次第です。
 この英文はジャワ人が書いたものと思われる。というのは、一つの文章の中で別な事項を表現するというインドネシア語にしばしば見られる修辞法を使っているからである。だからわかりにくい。http://en.wikipedia.org/wiki/Maulana_Malik_Ibrahim

 スナン・マウラナ・マリク・イブラヒムあるいはマッドゥム・イブラヒム・アッサマルカンディ(シーク・マグリブ)は、1404年にジャワに到着したウズベク人であり、亡くなる1419年までグレシクとレランで活躍した。同氏はバンタル翁ととしても有名である。同氏はジャワで初めてのイスラム学校(プサントレン)を開校した。同氏はサムドゥラ・パサイの学者であるマウラナ・イシャク(Maulana Ishak)の兄弟である。彼はワリソゴが活躍してイスラムを布教する前の時代に活躍し、その成果からイスラム布教のパイオニアと呼ばれている。
 イブラヒムとイシャクはサマルカンドに在住していたイスラムの導師であるペルシャ人マウラナ・ジュマディル・クブロ(Maulana Jumadil Kubro)の息子たちである。マウラナ・ジュマディル・クブロはムハンマドの孫であるフセイン・ビン・アリ(Hussein bin Ali)の十代目であると信じられている。
 マウラナ・マリク・イブラヒムは一度は現在のカンボジアにあったチャンパ国に1379年から13年間居住していた。同国の姫との間に、スナン・アンペル(Raden Rahmat Sunan Ampel)とシャイド・アリ・ムルタダ( Sayid Ali Murtadha)の二人の子を設けた。1392年に、家族をチャンパに置いたまま単身ジャワに移住したものである。
 マウラナ・マリク・イブラヒムは小さな商店を開いて廉価販売で新生活をはじめた。その後、住んでいる地域の人たちの病気の治療を徐々に始めた。さらには、地域の人たちに新しい農業技術を教えると共に、ヒンドゥーの低いカーストの人たちを受け入れることになった。
 数年後の1419年に、マウラナ・マリク・イブラヒムは東部ジャワ州グレシクのガプラで永久の眠りについた。
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2008-07-30 作成
2008-08-02 肖像追加
2008-08-04 Wikipedia分追加
2008-08-31 追加修正
2008-08-31 修正
2015-03-16 修正
 

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