嗚呼、インドネシア |
第52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで |
第九章 ジャワ人とトゥポ・スリロ |
[81] | トゥポ・スリロとは、他人の状況の中に自らを置いてみて、その人がそのときの状況との絡みでなぜある行為を行うようになったか理解しようと努めることである。 理解しようと努めることが必要なのであって、理解することは必ずしも必要ではないということである。ジャワ人の性格では、理解するとどうしてもそちらに傾きがちで、自分自身を失ってしまうからだ。
友人の一人が「国際相互理解は可能か」という主題で修士論文を書いた。筆者は「可能である」という意見を持っているが、相手の主張の全てを認めることはできない。それは人生哲学が異なるからだ。人によって人生哲学が異なるのは当然である。なぜなら、両親もいままでの経歴も全て異なるからである。人生哲学すなわち価値観をむりやり同じにしようというところが文明化・あるいはヒトの進化と呼んでいるものであろう。共通観念がないと社会の運営はできない。当然のことであるが、もう一つのやり方として「多様性の中の統一」という生ぬるい方法もあってしかるべきである。インドネシアは他民族であり文化程度も異なるからこの「多様性の中の統一」を国是としたものだろう。歴史的にはこう主張したのはインドネシア共和国が独立する約800年前のマジャパヒト王朝時代であるとTrowulan考古学博物館のパンフレットにあった。他民族国家は価値観が色々だから、こうでもしないとまとまらないのである。それをむりやり単一価値観に強制したのがアメリカ合衆国である。だから米国は原理主義者の国だと呼ばれてしまうのである。 |
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[81] | 要するに、トゥポ・スリロの態度をとる人は、なぜある行為が起こるに至ったかをよりよく理解しようと努め、断固とした態度で性急ににことを運ぶようなことはしない。 責任を持って断固とした方針を打ち出すことができないから、行き当たりばったりになっているというのが現状である。日本人のように問題の「び縫策」でもができればまだましであるがジャワの場合には手をこまねいているうちに問題が急速に悪化していくのが普通である。問題の萌芽を摘み取ってしまえるほど観察力は高くなく、問題が顕在化してきた時にそれを解決する方法の議論に時間を取られてしまうので、常に後手に回らざるを得ない。時代の変化の速度がジャワのマタラム時代とは桁違いに早くなっているのに気づいていないと言っても良いだろう。
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[84] | 誰あろう、スラカルタ・ハディニングラート王朝最後の文学者ラデン・ンガベイ・ロンゴワルジト(1802〜74)もまた『スラット・ジャイェンボヨ』という題名の著書の中で検察官を冷やかしている。 と、それが三ページにも渡ってだらだらと転載されている。著者は検察官によっぽど恨みでもあったのだろうか。 |
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2008-07-15 作成
2015-03-15 修正
2016/09/10 修正