嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第十章 ジャワ人とマワス・ディリ
[87]  ジャワ語のマワス・ディリという表現はすでにインドネシア語の語彙の中で確固たる地位を占めており、インドネシア語の中でも広く用いられているので、もうジャワ語からの借用語だとはほとんど感じられないほどである。

 たしかに、この言葉はKamus Umum Bahasa Indonesia W.J.S. Poerwadarminta編にも掲載されている。
[87]  マワス・ディリの意味するところは、自分の行った行為の善悪や責任の有無を問うために内面を、つまり純粋な心を見つめることである。心理学用語で言えば、このような努力は内観、すなわち基本的には心の内面に向かってある行為に対する責任を追及すること、といえるだろう。

 そう。理論的、原則的には著者の言うとおりである。しかし、ジャワ人たちは行為の些細な点に拘泥するあまり、本筋を見失ってしまうことが多々ある。数ある行為の優先順位をつけて内観すればよいものを、その軽重を問わず気がついた点から始めてしまう。そのうちこれらの問題に関して内観による心の整理ができないうちに次の問題が生じてきて、さらに新しい問題でマワス・ディリを始めてしまうので、葛藤が積もり積もってストレス状態に陥ることが多い。この状態を脱しようとする人たちは、これまたことの軽重を考えずに全て解放してしまうために結局マワス・ディリがうまく作用しないという現状にある。ことの軽重をきちんと把握して行えばマワス・ディリはすばらしい方法なのであるが、現実的にはそれがうまく機能していない。あれもこれもというジャワ人の繊細な女性的な感性から派生しているのだろう。
[88]  しかし、自分が正しいことをしたのか悪いことをしたのかということを追求するとき、どのくらい正直かが問題になる。つまり、果たして正直に自分自身を見つめることができるかどうかは確定し得ないという問題に直面するわけである。

 自分か正直かどうかは自分の判断であり第三者にゆだねる問題ではない。自分に自信がないからこそ、自分が「あなたのあなた」という立場であると認識し、常に第三者の目を心配しているのである。ジャワの聖人や偉人たちの話を聞いていると、このような心配をしていた人はいないようである。なぜなら、彼らは自分の人生哲学すなわち価値判断に自信があったからである。
 余談ではあるが、イスラムの教えは常に第三者の目で信者の行為を審査するようにできている。第三者の目で行為を確認することはISOの基本でもある。このような方法は、最低限を保持できるだけであり、創造的な考えが浮かばなくなる。だから筆者はISOを呪っている。イギリス人が企てた「世界総白痴化プロジェクト」であると。
[88]  マワス・ディリはかつてジャワ社会のみにおいて語られたものであったが、今日ではインドネシア社会においても、たとえば政府の役人が自分の取った行動の是非について反省すること、内省してみることとして取り上げられる。

 もしこの記述と現状を比較してみると、今日政府の役人が行っているマワス・ディリとは、この前どこその会社から賄賂を絞りそこなったから次回は別な手で絡めとろう、と画策しているだけに過ぎないことになる。要するに「良心よりも料金」なのである。
[89]  人がたとえば瞑想に耽るという方法で内政を行うとき、現実に瞑想している間、その人の中で一体どのような葛藤があったのか、他人はどのようにして知ることができるだろうか。

 瞑想は当人がその意思でするものであり、他人からの評価などを気にしてはならないのが原則である。しかし、著者はどうしても第三者からの評価が心配になるようだ。やはりDasar Jawaなのである。
[90]  マワス・ディリへの誘いを清らかな気持ちで考え、それを行うための補償になるのは、純粋な心に対する正直さである。これはジャワ社会において古来実行されてきたことである。昔は心の内面で精神集中を行ったか否か、あるいは精神を集中させることによって具体的な成果が得られたか否か、といったことなど問うことなく、それが良い結果をもたらすことを信じきっていたのである。

 ということは、著者は良い結果をもたらすとは限らないと考えているのだろう。著者はあまりに第三者の目を気にしすぎている。これもイスラムの教えのうちの悪影響だろう。というのはイスラムの教えは、我が強く他人のことは無視するアラブ人に対して与えられたものであり、あまりに繊細なジャワ人には副作用が強すぎるのである。著者はこの副作用による患者ともいえるだろう。マワス・ディリはその方法として完璧であり、今後の世界に必要なものであるからジャワ人は自分の文化にもっと自信を持って欲しいのである。
[91]  信じるとは、感性をもって近づこうと努力することであり、信じないとは思考をもって近づこうと努力することである。

 何に近づこうとしているのかが明言されていないが、著者の思考方法から言ってそれは神なのであろうと思われる。信じないことは思考を持って神に近づこうとする努力なのであろうか?「思考」ではなく「理性」であればこの文の意味は通じるのであるが……。
[92]  マワス・ディリはそれを誠実に、清らかな心で行う限り、少なくともそれを実践する者にある状況を打開する方向の手がかりを与えてくれるので、この習慣が保たれるとしてもなんら弊害はないと言えるだろう。

 こうやって必要性を消極的に主張するところがジャワ人らしいのである。マワス・ディリの最大の効能は手がかりを与えてくれると言うような具体的なものではなく精神的ストレスの解消なのである。すべての行為が具体的な金銭的なものを目的としている現代には、このマワス・ディリによるストレス解消が必要不可欠なのであるが、一般のジャワ人は瞑想するとすぐに「悩む」ことにこだわってしまうから、いつまでたっても総合的な判断ができなくなってしまう。この状況は数限りなく見ているからまず間違いないだろう。ジャワの特許であるマワス・ディリを経済発展にうまく利用したのは日本人ではなかったかとも思ってしまうほどである。Memang orangnya baik!
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2008-07-15 作成
2015-03-15 修正
2016/09/10 修正
 

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