嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第七章 「神経質な」ジャワ人
[67]  ジャワ人は(中略)自分の行為がいつも他人に見られていると意識し、礼儀作法にもとる行為はしないかと恐れている。(中略)恐れる感情があるからこそ、伝統社会の人々は他人のそうした監視から自分を安全にしておこうという努力の結果、非とされている全ての行為を隠蔽することにきわめて上手になるのである。

 どこの社会でも似たり寄ったりしたことは行われているからジャワ人の特徴とは言い切れない。著者が言いたかったのは、ジャワ人が牛耳っているインドネシア社会に、異なる哲学を持ち積極的な上記のスマトラの人たちが入ってくると、ジャワの社会規範からはずれた行為が目立って気に入らない、ということではないだろうか。
隠蔽することにきわめて上手だとは言うが、ジャワ人は後先を考えずにしゃべるから秘密はすぐに漏れてしまうのである。
[69]  悪口に対してジャワ人は時には過剰なほど神経質である。ジャワ人は自由に行動するのを恐れる。なぜなら、他人の観察は噂話の種になり、それが彼に恥を書かせると思っているからである。ジャワ人は恥をかくことを恐れるから、恥ずかしい気持ちにさせるような行為は何であれしないように努力するのである。

 確かに、日本人に比べて回りを気にしすぎる傾向がみられる。したがって悪口を言う憎たらしいやつを憎むのは日本人の比ではない。こういう憎たらしいやつにはガツンと皮肉を言ってやるのがよい。皮肉を言われたほうもジャワ人だから「怒ったら負け」と思っているし、ましてや一緒にいるインドネシア人たちがこの皮肉で大笑いするので、怒るわけにもいかないのである。きつい皮肉を言って憂さを晴らす傾向は中部ジャワより東部ジャワの方が顕著である。
1986年に東部ジャワで仕事をしていた時に、パソコンのエキスパートと自称している憎たらしいインドネシア人が事務所のパソコンを修理に来ていた。やつは偉そうに「俺はパソコンを修理することもできるし、電卓だって何個も直しているぜ」と威張るのである。
すかさず、「俺なら壊れた電卓なんか直さずに捨てちゃって新しいのを買うけどなあ」と。


この発言の裏には、「日本人は金持ちなんだ」という全員の理解があるから、笑い話になるのである。
 それを聞いていた事務所中の人が爆笑したのであった。この皮肉の裏の意味は「お前は電卓を治して使うほど貧乏だが、俺は新しく買い換えることができるほど金を持っている」ということである。ジャワ人のみならずインドネシア人はこういう考えオチの皮肉が大好きでいつまでも覚えていて、思い出しては友達に紹介して、皆で笑い転げているのである。
[69]  今日のジャワ社会では精神が開け、何をするにつけ、恐れの気持ちから解放されたといってよい。(中略) ジャワ人を含めたインドネシア人について言えば、物欲が肥大してしまったために恥を恐れる気持ちがなくなり、それどころか、厚顔無恥にまでなってしまったというのは現実のように思われる。人は正しい方法で金持ちになろうと努力しているのではなく、いまは臆することなく、たとえ間違ったやり方だろうとかまうことなく、富を手に入れようとしているのである。

 著者の意見に賛成するものである。このような我利我利亡者のことをインドネシア語ではマタ・ドゥイタン(mata duitan)と呼ぶ。mataは目、duitはお金のことである。お金の別な表現でウアン(uang)というのもある。しかし、mata uangは意味がまるで異なり通貨の呼称のことで、インドネシアではルピア、日本では円なのである。
[70]  人々の多くがもはや過ちを過ちと見なさないし、どんな行為も正しくなければならないと主張する人々がますます少なくなっていることを考えると、信念を貫いた生活を守れるような道徳的価値を持ち続けたいと願っている精神生活者にとっては生きることがますます難しくなっているのである。(中略) この現実を思うと、ジャワ人の精神面は動揺し、精神的な快楽より物質的な幸福を上に置く多数者の方に引き込まれ、ついにはその多数者と同じになってしまうことになる。これが、いま私たちの社会に入り込んできている精神的危機の根源である。

 確かにこの傾向は進みつつある。その一方、世界的傾向である精神世界へ傾倒する人が増えてきているのも事実である。以前なら呪術師のところに病気の治療に通っていた人が、ヨガなりレイキなるものに傾倒しており、各地のこうした教室は沢山の人たちで賑わっている。著者が心配したことも現実には起きているが、その反対のムーブメントも中流階級を中心として静かに広がっていることを忘れてはならない。
[70]  ジャワ人はかつて物質的なものに全く心を惹かれない人間として描かれてきた。そしてジャワ人はその自画像を信じていただけではなく、多少とも誇りに思っていた。実際、指導者というものはいつも貧しくなけばならないと考えた。かつての政治指導者たちはそうしている自分を誇りにしていた。

 精神的にはそうかもしれないが、歴代の政治指導者は大金持ちであり、それを国民が非難しないのは一体どういったことだろうか。矛盾がある。
 行政の指導者であった官僚OBたちの自宅を訪ねる機会があった。知り合いがある省庁の総局長(日本で言う事務次官)をしていたときに、彼の先輩たちのところにハラルビハラルの挨拶に行くからついて来いというのである。数人のOB宅を訪問して驚いた。官舎を買い取った建物も調度も非常に質素なのである。もちろん彼らは他にも不動産を持っているのだろうが、財産に比べて質素な落ち着いた生活を送っているように見えた。別な知り合いでプルタミナの上級官僚の秘書をしていた方の話では、60年代にももちろん賄賂といわれるものはあったが、今とは桁違いに少なかったし、みながそれなりに生活できた良い時代だったとのことであった。この方のお宅も上に書いた方と同じであった。古びてはいるが、飾られている本やインテリアにもそれなりに知的な感じを受けたのであった。どちらの方も落ち着いていてジャワ人の手本のような方たちであった。
[74]  さまざまな民族から成り立つインドネシア社会では、ジャワ人と同じようにどの民族でも、素質を持つものが教育を受け、地方の指導者あるいは国家の指導者として登場するだろう。ジャワ人は神経質なジャワ人でいる限り、社会の慣行に合わない行動はしたがらない。そういうジャワ人が、一般の考えに勇気を持って対抗し、他人の口を気にしない現代の指導者となるのは難しい。ジャワ人は今なお神経質な傾向を引きずっているので、まだ自由に考え、行動するまでにはなっていない。これは今日に至ってもなお、ジャワ人に見出せる弱点の一つである。

 インドネシアの各地の省庁の出先には沢山のジャワ人が高級官僚やエキスパートとして在席している。これらの出先機関は中央省庁からの出向者が多いため、インドネシア各地から職員が集まってくる。彼らの出身地によるとともに現地の人たちとも考え方が異なり、何かを決めるに当っても百家争鳴になってしまうので、その仲裁者として穏やかなジャワ人が必要であるということをジャワ人から聞いたことがある。また、歴史的に社会的訓練ができているジャワ人の方が中央省庁の幹部たちは使いやすいからなのであろう。
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2008-07-13 作成
2015-03-15 修正
2016/09/10 修正
2021/05/19 修正
 

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