嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第六章 ジャワ人と断固とした態度
[62]  たぶん人情に流されるせいだろうが、ジャワ人はいつも人に同乗する傾向がある。苦しんでいる仲間を見ると簡単に動揺する。

 確かにその通りである。仕事で困っている仲間を自分の仕事はそっちのけで助けようとする。しかしながら、助けられようとする人は仕事の能力が低いから助けを必要としている上に助けようとしている人も能力が低いから、あーだこーだ言っているだけで、一向に解決の糸口が見つからないのである。その結果、事業所全体の仕事が遅れてしまうのである。こういう時はいつも「いま与えられている自分の仕事を終えてから仲間を助けるべし」ときつく言っている。最初はうらまれたがそのうち気がついたらしい。相手を助ける喜びよりも、自分の仕事が遅れてしかられる方のストレスが大きいことを。
[62]  現代社会に生きるにあたって一人一人に要求されていることは、何かに直面して行動する前に感情に流されない健全な思慮を持つことである。

 またまた、出てしまった。この文の裏の意味は、何かに直面して行動するときにジャワ人は感情に流されてしまい健全な思慮をもたないから、感情に流されてはならない、ということになる。理想と現実を表現しているのである。
[62]  行政においても、過ちに対して断固とした処置をとることができないことがある。

 これは感情に流されるというより「勘定」の方に流されたのである。他の開発途上国と同様にインドネシアでは行政に賄賂がつきものである。モジョクルトにあるトロウラン(Trowulan)考古学博物館が発行しているパンフレットに13世紀当時のマジャパヒト王国の行政について、行政は公正に行われ、農民や商人たちは王に対する税金を喜んで差し出したとある文章を読んだ一人のジャワ人は「現代はなさけない時代だ」と嘆いていたのを思い出す。
[63]  ジャワ人の裁判官が判決を下すに当っては人権を配慮しすぎる可能性が大きいようだ。それは、普通には賞賛されることだが、本当はもっと厳しい刑が下されてよいのに、公平な裁判をしないで判決を下したような場合には非難される。

 ジャワ人ばかりではない。インドネシアでは少数民族に含まれるバタック人やミナン人には人口対して法律家の割合が高い。かれらもしょっちゅう人権を「配慮」しすぎるのである。
さらに、「人権を考慮」する判決が出た場合には、裁判官への黒魔術の影響も考えなくてはならない。他人を激しく恨むほとんどの場合にジャワ人たちは呪術師のところに出かけてその相手に黒魔術をかけてもらう。相手が破産したり、重病に陥ったり、事故で死んだりするように祈ってもらうのである。この呪いが効かないと、呪術師を再度尋ねて呪いを掛けなおしてもらう。呪術をかけることはアフターサービス付ではないから、再度金を払わねばならないのである。こうやって、高ぶる感情が社会的に経済効果をもたらしているのがジャワの社会である。
[64]  どんな話し合いでも、各々が大事と思うものを守ろうとし、どちらも原則的には譲ろうとしないものだ。しかし、どちらも譲らなければ合意は成立しない。(中略) ともあれ、ジャワではどんな話し合いであれ、譲歩したものはいつも勝者と、見なされ、譲られた者は権威を失った者のように見られるだろう。

 ジャワ人と話し合いをしているととかく変な感じにとらわれるのである。自分が背水の陣を敷いて弱い立場にあるにもかかわらず、仕事上でも譲歩してしまうのである。背水の陣だから、一歩でも譲歩したらもう破滅なのにそれが分かっていないようである。だからネゴの上手な華人に経済をのっとられてしまったのである。
 さらには、譲歩すべきアイテムの数で五分五分になればお互いに満足しているように見える。そのアイテムには軽重があるはずなのにそれを考えていない。要するに「金持ち喧嘩せず」の鷹揚さと「負けるが勝ち」の負け惜しみが考え方のベースになっているように見えてしまうのである。ジャワの長い歴史では地域が固定されていたから、お互いに将来のことを考えてそうそう無茶な譲歩を共用することはなかったはずである。しかし国際社会に巻き込まれてしまうと、そう簡単に譲歩はできないはずであるがそこまで考えが及ばないらしい。
[64]  情けの人生哲学で魂を作り上げたジャワ人は、話し合いにおいていつまでも自己の主張に固執し続けることができない。相手の主張と困難を理解できるから譲歩して問題を解決するための妥協ができるからである。

 その通りである。ジャワ人に限らずインドネシア人が主催する会議に出席してみたら一目瞭然である。一つの主題に絞って討論することができないのである。議題が総花的に広がってしまい収拾がつかなくなるのである。その会議では何の結論も出ていないのに会議に出て発言したり発言を聞いたりして仲間意識を高めることができたということが最重要事項であるとインドネシア人たちは考えていると解釈されても仕方がない。インドネシアの会議は会議でも「井戸端会議」であると言い切れる。
 これは、文化によるものではなく脳の機能が日本人とは遺伝的に違うことから生じてきているものであるから、ジャワ文化自体を非難することにはならない。ジャワ人を含めたインドネシア人の男性は日本人女性に一般的に見られるような行動様式をとることが多い。外的には男性でも脳の機能は女性風なのである。統計をとって調べてみたところ、バタック人とミナン人は外見から性別と脳の機能が逆になっている。怖そうに見えるマッチョでも実はやさしい女性的な考え方をするのである。バタック人男性の作るポップスのラブソングの歌詞をよく読んでみると良い。どれでもなよなよした女性の感情が貫かれている。これが証拠である。だからインドネシア人が主体となっている会議では外国人は結論が出なくても黙っていればよいのである。やさしいインドネシア人のことだから、こちらの譲歩を引き出しすぎたと反省して譲歩してくれることが多いのは事実である。
 ジャワ人が断固とした態度をなかなか取れないのは、この章で述べたことだけではなく、第四章に述べたように「根性がない」ということが主因である。ジャワ人である著者にはこれが分からないのかもしれない。
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2008-07-13 作成
2015-03-15 修正
 

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