嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第五章 ジャワ人とワヤン
[49]  ジャワ人の生活においてワヤンの持つ役割は非常に大きく、ワヤンはジャワ人を第一に特徴づけるものだといっても過言ではない。

 
と、滔滔とワヤンの物語の説明が十ページ以上続くのである。ワヤンの登場人物の名前を子供につけたりすることもここには書かれている。著者はワヤンが大好きなんだろうと思ってしまうのである。
 ワヤンにはワヤン・クリット(影絵芝居)、ワヤン・オラン(演劇)、ワヤン・ゴレッ(人形芝居)があり、インド発祥のラマヤナ物語やマハバラタ物語の一部を上演している。長いものは午後九時から始まって夜明けまで徹夜でやるものもある。ちなみにマハバラタとは「大インド」を意味しラマヤナ物語の後にできたものといわれている。
 ラマヤナ物語の中で、インド亜大陸からセイロン島に騎馬で渡ったという話がある。これは海面がいまより低かった時代のことを現しているのである。インドの東岸には水深30m付近に海中都市が発見されたことから、ラマヤナ物語は単なる空想上の物語ではなく、史実をたくさん含んでいると思われるのである。
[59]  ここで奇妙な現象に出会う。普通の教育を受けたダラン(影絵芝居の使い手で進行役)、小学校だけしか出ていないダランが、非常に高い教育を受けた人々、たとえば高等教育を受けた大臣クラスの人々ばかりではなく国家元首りような人々の関心を得ることである。(中略) ワヤンにおいてはダランの教育程度と慣習の教育程度の対照はより顕著である。というのは、おおむねダランは低い教育しか受けていないからである。それにもかかわらず、彼らは思慮に富倫理に裏付けられた教訓を伝えることができる。その能力が教育程度によってではなく、生来の才能によって決まることは明らかだ。

 著者はここで二つの大きな間違いを犯していることに気がついていない。
 最初はダランも一つの職業であることを忘れている。ダランが聴衆に受けるのは職業訓練がきちんとなされているからであり、ダランの能力はかならずしも学校教育の程度にはよらないことに著者は気がついていない。
 高等教育さえ受ければ仕事ができる賢い人になる、とインドネシア人たちは思い込んでいる。だから、大金を掛けて子供に教育を受けさせる。その結果が「卒業証書」である。卒業証書をもらったからといって、賢かったり実際に仕事ができるとは限らないのである。学歴だけあって仕事ができない人たちは掃いて捨てるほどいる。かれらを我々は「ペーパーエンジニア」と呼んでいる。
 インドネシア人の入社試験に立ち会ってみるとわかるように、日本の小学生でもできることがインドネシア人の大卒の若者にはできないのである。たとえば、100万ルピアを全額使って10%の税金がかかるものを買うばあいの税抜き価格はいくらか?というこんな簡単な算数の計算もできない。エンジニアでピタゴラスの定理も知らない。インドネシアと周りの国々を含めた東南アジアの地図を描かせてみると、抱腹絶倒ものの回答が続出するのである。このようにインドネシア人は持っている知識が少ない。それはインドネシアのクイズミリオネアの問題は日本のそれと比べて非常に簡単であるということが証明しているのである。
 知識が少ないからこそ、インドネシアでは知識を偏重するのだろう。
 しかし、実際の人生では、知識(ilmu)より知恵(akal)が必要なのであるが、それが理解されていないようだ。どんなに彼らと話し込んでも知識を偏重するという姿勢は変わらない。知識は「店(本屋)で売っているもの」であり誰でも手に入れることができるが、知恵というものは自分独自のものであり「店では売っていないもの」であることがやはり理解できていないようである。
 上記のようにインドネシア人たちが知識習得以前の程度にとどまっている限り、日本人はインドネシアで仕事がいくらでもできるのである。

 もう一つは、イスラムでは教えていない輪廻転生についてである。ある人がダランの名人として一生を終えたとしよう。まだまだ向上できる余地があると思ってかれは死んだはずである。すなわち来世でもダランになろうと思っていたはずだ。だったら来世でもダランになるべく計画して生まれてくる。顕在意識には前世でもダランだったことはないのでその意識はないが、潜在意識には前世までに積み上げてきた能力が眠っている。何代もかけて積み上げてきた能力の上にダランとしての今生での訓練があるのだから、たとえ高等教育を受けていなくてもダランとしての能力が高いのは当然である。
 輪廻転生のことを心の底に著者は隠しているからこそ、このような間違いを書いてしまったということになろう。

[61]  国家全体の言語、文化として日一日とその地位を堅固なのもにしつつあるインドネシアの言語、文化に対し、ジャワの言語、文化に対する関心を保っていくことは困難である。

 こう著者がおもったのには無理がない。1983年ごろは急激な経済成長によって、ジャワの農村部から若年労働者が大挙して大都市に集中し始めたころだからである。この当時、農村部ではまだTVRIとその他数局しか受信できず、情報量が少なかった。彼らが帰省時に持ち帰る大都市の情報や文化は、ジャワの農村部の青年たちの大きな憧れだったのである。このような状況を著者は嘆かわしいと感じたのであろう。
 しかし、1990年代の末、この状況に大きな転機が訪れた。それはダンドゥットの大流行で、多数のジャワ人の歌手がスターダムにのし上がった。彼らは古いジャワの哲学こそ持ってはいなかったが、基本的にジャワ風な社会教育を受けていたので、現代人のように振舞ってもどうしてもそこにはジャワの色が出てしまう。そのジャワの色がインドネシアの色に重なってしまったと思われるのである。
 ダンドゥットの前に大流行したのはスカルノ時代のクロンチョンであった。クロンチョンはジャカルタのタンジュン・プリオク付近にあるトゥグという村で数百年前に捕虜になったポルトガル人が作り出し、現在まで伝わっている西洋のラテン音楽に近い音楽であり、ゆるいテンポと細かいリズムの刻みがその特徴である。クロンチョンは独立後のラジオ放送で全国的に流されたため、インドネシア人たちの共通の懐メロになっているし、若い人たちでも知っている名曲が多い。
 さらにはテレビの普及、放送番組の多様化、ケータイ電話(HP)の普及やインターネットの普及などの情報ソースの多様化もインドネシア文化のジャワ化に大きな影響を与えていると考えられる。1983年には筆者は東マレーシアに赴任していた。その時には「インドネシア文化」というものには気づかなかったと記憶する。しかし、1990年代に入ってからは、インドネシアの音楽が大量にマレーシアに流れ込み、マレーシア人たちも「インドネシア」を意識し始めたのである。遅れて我々日本人もジャワ文化の基礎としたインドネシア文化に徐々に気づき始めているのではないだろうか。

 この著書には芸術に関する記載がきわめて少ない。イスラムでは音楽や美術といった芸術は教えないことになっていることから考えるとこの著者は敬虔なムスリムであることが推測されるのである。ということはイスラム的な視点からこの著書を記したというふうにも解釈できるのである

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2008-07-12 作成
2015-03-15 修正
2021/05/19 修正
 

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