嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第二十二章 ジャワ人とスム
[166]  すべてにおいて直裁にものをいわないことはジャワ人の習慣であり、そのためジャワ人が何をいいたいのか、何を望んでいるのかを即座に知ることは難しい。それゆえ、会話の相手を務めるときは、言外の意味を上手に理解しなければならない。

 日本人なら遠慮することはない。ずけずけと問題点を尋ねればよい。こちらに理解できる答えが見つからないときは、希望は特にないのだな、と相手に念を押すことだ。それでもぐちゃぐちゃいう時には、忙しいから後で。と断ってしまえばよい。ジャワ人のみならずほとんどすべてのインドネシア人は話にポイントがない。話をまとめる力がない「竹本テツ」なみなのである。前にも書いたように、彼らは話をまとめる力がないから、会議は議題が定まらず「井戸端会議」に終始する。すなわち、結果は出ない。他の国でも観察してみた結果、機能が女性的な脳を持っている男性が多い国ではだいたい「井戸端会議」が主流である。こういう国に限ってイスラム教徒が多いのである。女性脳割合とイスラムの普及率を調べたら面白い相関関係が見つかるかもしれない。比較文化人類学の博士論文にもなるだろう。
 東部ジャワの田舎にある日系企業で働いている日本人とジャワ人のハーフの通訳さんから聞いたはなしでは、ジャワ人は日本人の前に出ると頭の中が真っ白になってしまって、何も考えられなくなるとの事だが、日本人慣れしたインドネシア人の同僚を見ているとそうでもなさそうだ。これは、この日系企業で働いている人たちのほとんどが地元採用の高校卒程度であり、学卒でないからだともいえると思う。さらには、ジャワ人に対する日本人の態度に問題があるのかもしれない。これも少なくとも修士論文の題にはなりそうだ。
[167]  すでに述べたように、以前のジャワ人ははっきりとした答えなどしなかったものだが、今の若い世代のジャワ人は自分の望みをはっきりと伝えるばかりか、はっきりと拒否の意思を示すことすらあるのである。

 この文が書かれた1983年当時の若者は筆者と共にすでに壮年期にさしかかっている。彼らを仕事場で見ているとむにゃむにゃ言うだけで一向に当人の意見が出てこない。出てきたとしても付け焼刃の借り物だからその根拠を尋ねていくと、付け焼刃がすぐに取れて化けの皮がはがれてしまうのである。ジャワ人は今度は何をいおうかと考えているあまり、他人の話をよく聞いていない。だから他人と同じような意見を滔滔と述べることがある。筆者は短気だから「だったらダレソレさんと同意見だと言え、時間の無駄だ」ととっちめてやっている。ジャワ人は日本人に「嫌=no」とは決して言わない。ただ、日本人の目を盗んでそれをやらないだけである。あるいは忙しくてもさっさと帰ってしまう。だから日本人は夜中まで仕事の整理をしなくてはならなくなるのである。
[168]  (見栄の人生)の中ではジャワ人ならば誰でも理想とするような性格を持ったマヌンソ・ウトモ(高徳の士)を演ずる。そのように見せかけるのは、徳の高い人物に見られたいからである。しかし、ここで注意して欲しいのは、よりどころとなるべき理想的性格の数々がまったくまがい物であり、人はそれらを自分自身の特質であるかのように演ずるのだが、それによって自分自身に対して確信のもてない人物になってしまうことである。ときおり、思いがけないきっかけで、彼は自らの本来の姿を見せてしまうことがある。

 とにかく思想に関しては見栄はりであることは否定できない。しかし、かれの思想の根底は一枚岩ではなく、浅く根を張った樹木のようであるから、ちょっと掘り下げるとその矛盾が暴露されてしまうのである。すなわち思想に一貫性がない、共通基盤となる思想がない、のである。さらには何事に関しても理解が浅いので、「高徳の士」なる人の話をよく聞いていると矛盾だらけであるのに気づく。それが自分自身に確信を持てない、という表現で著者はあらわしている。特に宗教がらみになると、それが顕著である。理性的だと自負しているエンジニアでも科学的な論拠から導き出された推論より、宗教の教えのほうが重要であると考えているらしい。宗教の教えに関して彼自身の解釈は「ない」。考えさせないように教育されているのであろう。アダムとイブは中東の人でジャワ人とは似ても似つかない。猫の子は猫にしかならないのである。それなのになぜジャワ人はアダムとイブの子孫であると主張できるのか?これには筆者独自の解釈がある。旧約聖書の記載どおりに学校で習った科学的思考法で解釈すると、今まで宗教では教えてこなかった事実が見えてくるのである。
[169]  ジャワ人はゆっくりとではあるが確実に、見栄っ張りの表現を好むことを離れ、あるがままの表現を重視するようになってきており、現在のその生活の中で進みつつある変化は、実のところジャワ人の生活をより幸福なものにするだろう。

 見栄張りの表現はその人が浅学非才であると自白しているようなものだ。この見栄張りが会議の時間を無駄にしているのである。社会的にはあまりに相手にこびへつらうことがだんだんと少なくなってきたように感じるが、役人はますます威張り散らしているのである。威張って権力を持っている演技をしないと賄賂が取れないからなのである。でも、ちょっとだけでも黒魔術の話をするとすぐにヘイコラするから試してみるとよい。
[169]  我々の生活が近代的な方向へと発展していく中で、かつて尊重された高貴な価値の数々を惜しみ、すべての点において単純であった伝統的な生活を懐かしむ者もいる。中でも自分の見解をそのままの形で明らかにするのではなく、それを甘い言葉で包み、苦い現実を苦く感じさせないようにする習慣を含む価値がそうである。

 これはジャワ人に限ったことではない。苦い言葉はオブラートで包むのが社交辞令というものだからだ。この点アメリカ人はたいしたものだ。どんなに苦い言葉でも右から左に通り抜けてしまうからである。いまだ、ジャワ人たちは何につけても丁寧語を使いたがる。日本語と同じようにジャワ語では受動態が丁寧語になるようだ。インドネシア語でも受動態を使って表現がきつくならないように注意している。ただ、問題は英語に直したときである。英語でも同じように受動態を使ってしまうため、誰が誰に何したのかがまるでとんちんかんになってしまうのである。特にレターや報告書ではとても困るのである。英語には丁寧語がない。でもイギリス人はオブラートで言葉をくるむのが上手である。たとえそれが皮肉であっても。
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2008-07-25 作成
2009-09-28 追加修正
2015-03-16 修正
2016/09/10 修正
 

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