嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第十九章 ジャワ人と迷信
[149]  迷信はジャワ人一般の生活の中にまだまだ見られるが、バリ・ヒンドゥー教の教えに従って日常生活の中でさまざまな儀式を執り行っているバリ人ほどには、生活の隅々にまで浸透していない。今なお、ジャワ人が行う儀式はすべて、おそらくはジャワ人がまだヒンドゥー教を信じていた時代の名残であろう。

 その通りである。ジャワ人の思考がイスラムと共に近代化しても、迷信と解釈できる儀式は行われている。日本人も仏教の教えに従い色々に儀式を執り行うので、ジャワの儀式と似ているところが多い。バリで各種の儀式をいまだとりおこなっているのは、環境の違いによるものであろうと思われる。ジャワではほとんどすべての都市の近郊から熱帯雨林が農業開発のために消滅してしまったが、バリでは町のすぐ近くに鬱蒼とした熱帯雨林が残っている。バリでは農業開発より自然保護を重視したためであろう。魑魅魍魎は巨木に好んで棲みつくことが世界各地での調査で判明している。だからジャワよりバリの方が魑魅魍魎の「人口密度」が数倍高い。したがって人間が魑魅魍魎から受ける影響はバリの方が数倍大きい。それゆえにバリ人はさまざまな儀式をとりおこなって魑魅魍魎からの影響を少なくしようと努力していると解釈できるのである。
[151]  ジャワ人は一方ではすでに論理的な考え方を身につけ、論理で割り切れないような生の現実など全く残っていないにもかかわらず、他方では生のある部分において、特に迷信についてそうなのだが、まだ断固たる態度で神秘的なものなどないとは言い切れないでいる。いや、むしろまだ神秘を拒否したくない、という方が正しいかもしれない。

 地方の田園地帯や山岳地帯にはまだたくさんの「論理で割り切れない」現実が存在する。だから大衆は著者が言うように論理的になれないのである。この点、大衆の解釈が正しく、著者の解釈は誤っている。なぜなら、身辺から遠いアッラーより近くの魑魅魍魎の方が大衆に与える影響が大きいからである。その一方、著者が言っている「神秘的なことがら」は一神教では厳禁しているのであるが、背に腹は換えられないのが実態である。イスラムはジャワ人には適さないという論評がここにある。
 この点、仏教にはその禁止がないからインドネシアの華人の仏教徒にはジャワ人より深くクジャウエンを実行している人たちが多い。ジャワの文化の深層はジャワ人ではなく華人が継承しているといえる部分もある。
[151]  たぶん、ジャワ人は人間の生死が人間を生かしている神の手の中にあると信じているのだろう。自分が自分の生死を左右するような存在であると考えたことなどないのである。そのような存在そのものが、ジャワ人にとっては常に神秘的であり続ける。平穏な人生を保証する存在、人はいまだかつてそのような存在になったこともなければ、ましてそのような存在を手中に収めたこともない。というのは、そのような存在になることは、人間を生かしている神と同じ力、同じ役割を人間が持つことになってしまうからである。

 一神教の教えでは神をこういう存在に定義してしまったから、信者たちの脳にはこうすり込まれている。だからこういう著者の発言が出てくるのである。ジャワ人たちは「そのような存在」になろうとするからこそ「修行」をいとわないという現実と矛盾してくるのである。一神教の教えよりジャワ人の考え方の方が自然に即しているのである。
[152]  人生も終わりに近づくと、ジャワ人はカティムバラン・デニン・パンゲラン、つまり「神のお召しがあり、神の御前に立つこと」がいつでもありうることを意識するようになる。そのため、彼は自分を生かしてくれた神の御前に至る道を切り開くべく努力し始める。故意にせよ、故意ではないにせよ、自分が傷つけた人、一人一人に対しその許しを乞う。傷つけた相手に許しを乞うことによって、神の御前に至る道は平坦なものとなるからである。

 こう思うのは当人だけであり、実際に道は平坦にはならない。当人が幸せになるならその考えが事実と異なっていても良いのである。
 ジャワ人にとって一神教の教えはやはり「付け焼刃」にしか過ぎず、かれらの思想の底層には脈々としてヒンドゥー・仏教の思想が流れている。無作為に「輪廻転生はあるか」とジャワ人に尋ねたら半数以上が「ある」と答えるだろう。「ない」と答えた人に、身近な例を挙げて「カルマを信じるか」と尋ねたらその半分は「信じる」と答えるだろう。だから、ミナン人たちはジャワ人のムスリムをクジャウエンと批判するのである。しかし、宗教はその人たちの文化のうえに鎮座しているのだからクジャウエンもやむを得まい。ジャワほど深い文化を持たずジャワよりはるか昔にイスラムが入った西スマトラでは、二回のパドリ戦争ののちに自分たちの文化にイスラムを取り込むことに成功しただけである。ジャワ人のイスラムをクジャウエンと呼ぶなら、本場アラブのイスラムはクアラビエンと呼んで批判することも「理性的」には可能である。しかし、ジャワ人たちはクジャウエンと非難されても一向に平気なように見える。こういう「理性」はジャワの文化には存在しないのかもしれない。
 神の御前に立つということは最後の審判を想定していることだ。最後の審判で地獄に落ちたら、紅蓮の炎に永遠に焼け焦がされて辛い目に遭うと脅す。しかし、肉体がなければ焦がされることはなくなる。だから最後の審判の前に死人が肉体を伴って復活せざるを得なくなる。しかし、肉体の構成物質は分子や原子でありこれらは食物連鎖で再利用されているのである。したがって肉体を復活させようとしたら、原子の取り合いになってしまい、完全に肉体を復元することは不可能であるという結論に至る。だから、最後の審判の話は嘘っぱちだということにならざるを得ない。学校で教わった知識を論理的に、すなわち著者の大好きな「理性的」に組み立てていくとこういう筋道になるが、「信じる」ということと理性とは別物であるので、「好きにすればあ」としか言いようがないのである。
[152]  人がこの世と別れを告げるのは辛いことである。愛する夫、妻、子、そして好んだ物、地位、尊敬に別れを告げるとき、死に行く者は心の平安を必要とする。

 臨死体験の話を聞くと、死ぬことは辛いことではない、ということが分かる。死に辛さがつきまとうのは死に行く人ではなく、残された人たちがそう感じるだけなのである。これを著者は死に行く人の感情と混同している点に矛盾を感じるのである。ただ、この世に激しいうらみを残したまま死ぬと成仏できずに幽霊となってこの世に漂っている例にはたくさん遭遇したことがあるからこういえるのである。
[152]  もう断末魔に襲われている人がなかなか最期の息を引き取らないということがよくあるとしても驚くには当らない。

 
ジャワでは、黒魔術がかかっていたり、ススックという魔術の鈎針を身体に埋め込んでいる人はなかなか死ねないといわれている。このときにはカボスの葉で額をなでると息を引き取るとも言われている。
 また、生きているときに黒魔術をさかんに使った呪術者の死体は腐敗せずにミイラ化するといわれている。腐敗しないのは神様が彼の魂を引き取らないからだ、とまことしやかに言われている。このミイラ化した死体はビルの安全祈願のため人柱としてビルの基礎の部分に安置されることになっているので、高値で売買されているそうだ。新聞に墓地で乱闘して何人か死んだとあるのはこのミイラ商売のトラブルが原因となっていると友人が話してくれた。
 インドネシアでは人柱の習慣は聞いたことがない。しかし、どうやるか知らないが、霊魂を基礎の部分に埋め込むことはよく行われていた。これは古い建造物を訪ねてみるとわかるのである。
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2008-07-22 作成
2015-03-16 修正
2016/09/10 修正
 

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