嗚呼、インドネシア |
第52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで |
第十六章 ジャワ人とプルウィロ |
[133] | プルウィロというジャワ語をインドネシア語に合うように訳すのは難しい。ましてやそれを一語で言い表すことなどできない。この言葉の中に寛容と威厳を保ちたいと言う願望がないまぜになっているからである。それゆえ、フランス語のノブレス・オブリジュ(高い身分に伴う義務)という表現と関係あるものとして見ることができる。社会的地位が高いほど自分自身に対する責任も重くなる、つまり金を出し渋るような人間に見えてはいけないのである。そのため、ジャワ人は多かれ少なかれ金の事に無関心なそぶりを見せる。金の心配などしたことがない、金を出すときに考え込んだりしない、これをジャワ語ではランルンというのだが、そういう印象を人に与えたがるのである。 日本人にも昔はこういう人がいたが、今では「一億全員小粒」になってしまったため、まずこのような人は見かけなくなった。インドネシアに出張したり転勤したりすると、手当てが出る上にインドネシアでは物価が安いからこのランルンができる。確かにジャワ人たちは金のことに無関心なそぶりを見せるが、日本と同じくガリガリ亡者もいるから、注意が必要である。 |
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[134] | 一般にジャワ人はこのような態度に感じ入る。それだけではなく、このような態度の人物は賞賛の的になることだろう。頼まれなくても、金がなくて困っている人には誰でも救いの手を差し伸べようとする人、久しぶりに会った仲間を誘って食べに行く人、レストランで一緒に食事をするといつも先に立って勘定を済ませる人、(中略) 特にこういった人々が賞賛の的となる。質素倹約の精神で安く上げようなどとは考えず、勇ましく登場するこのような人々が、ジャワ社会ではよく気前がいいと呼ばれるのである。 日本でも基本的にはまったく同じだが、ジャワ人のように「感じ入る」のではなくて、「格好付けやがって」とねたむ場合が多い。また、日本人は「この前奢られたから今度は奢らなくてはならない」といつまでも覚えているが、ジャワ人はこういうことにこだわらない。「金のあるヤツが払う」のが常識になっている。しかし、あまりに高額だと、彼らもちょっと心配するようである。 これは華人によく見られる。ジャカルタの華人の友人の店を訪ねたところ昼ご飯に誘われた。彼は新規に開店したばかりで懐具合もよくなかろうにと思ったが、彼が誘うままに屋台でご飯をご馳走になった。経済的に苦しい中で筆者を大事にしてくれた、その気持ちだけでお腹だけではなく胸がいっぱいになったのである。「貧者の一灯、富者の万灯」とはよく言ったものである。 |
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[135] | 物質的に恵まれた状態と、あまり計算高くなく鷹揚に金を出す人という理想的な組み合わせは、フランス人のいうノブレス・オブリジュ(中略)という考えを基礎としている。つまりそれは自らの尊厳と威信を保つという責任なのである。地位も富もある者はつねに社会の注目するところであり、そのすべての行いは人の評価するところとなるにもかかわらず、金持ちが金を出し惜しみ、得することが明らかなときだけ出す、といわれるのは最も恥ずべきことである。 貧富の差が激しい社会ではこのノブレス・オブリジュが一般的な考え方である。世の中に貧富の差があるのはなぜか、という問いかけには二種類の回答がある。
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[136] | 気前のよさという性格は持って生まれたものであり、それを持っていない者は、苦労してみせかけだけの気前のよさを見せる必要はないということである。どんなに練習を重ねて見せびらかしたとしても、付け焼刃は最後には本物でないことがばれてしまうのである。 筆者がインドネシアで気前がよく見られるのは、出張旅費が入るからである。すなわち生まれつきのものではない。著者は金持ちの家系に生まれたから「持って生まれたもの」といえるのかもしれない。 インドネシア人は、筆者をふくめ、日本人をよく「ケチ」と呼ぶ。ケチかどうかはお互いの金銭感覚が大きく違うからなんともいえない。ここでブラックな反論をふたつ。
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2008-07-22 作成
2009-09-28 追加修正
2015-03-16 修正
2016/09/10 修正