嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第十一章 ジャワ人とブディ・ルフル
[92]  かつてジャワ人は何かを考えることができるようなると、両親やクバティナンの導師から、自分が生きていく中で高い徳(ブディ・ルフル)を身につけるように努めよと教えられた。

 日本ではこういう考え方は明治と共に消え去ったのではないだろうか。そして1990年代に入って、物質は心の平安を与えるものではないという考え方が定着してきた。これらの日本人はジャワ人に先立ってブディ・ルフルを行える社会的立場にいるのである。インドネシアの社会ではまだまだ人々の物質欲が強く、なかなかブディ・ルフルを身につけようとする人たちが少ないように見えるが、水面下ではかなり勢力を盛り返してきているとも感じられる。筆者の身のまわりでは、イスラムやキリスト教の強制が強いジャワ人よりジャワの華人が古来からのこのジャワ文化を継承しつつあるのではないかとも思われてならないのである。ジャワ人にイスラムは合わないという意見は別サイトに掲示してあるので、興味ある方はそちらにジャンプしてみてください。
[93]  実のところ、人間の悪い行いと言うものは、すべて強欲と妬みから発している。この欲望を制御できない間は、人はその社会生活において問題に直面するのである。

 著者の指摘は、社会をミクロに見た場合正しい。しかし、世界的なマクロな視点からはそうは言い切れない。強欲と妬み。これ以外には「民族・国家としての理念」がある。古くは宗教戦争がこの「理念」の違いがきっかけで勃発したものであり、近くでは米国の原理主義者的考え方が世界の民族問題を複雑化させているのである。理念は各人異なるものであって、それを押し付けてはならないのである。ホットドッグをコーラで流し込んでいる人たちには食事をしながらあれやこれや考える暇もないのだろう。
[93]  悪しき行いを避けようと努力することはしばしば実行がむずかしいが、それ自体、すでに欲望を抑制する試みではある。しかし、それに成功したからといって、徳のある人になれるとは限らない。そうなるためには、他人に対してよい行いをするという条件が満たされなければならないからである。

 著者は理論的に正しいのだが、この主張は現実から乖離している。誕生日を祝うことはインドネシアでも広く行われているうれしい行事である。「長生きするということはそれだけ罪を重ねるだけであるから、誕生日を祝い長寿を願うということはその当人にもっと罪を重ねろと言う意味になる」とジャワ人に問いかけたら全く反論がなかった。生きていることは罪を作ることだという一神教の教育が良く行き届いているからなのである。困ってしまったかれらに救いの手を伸べた。「長生きすることはそれだけ徳を積めることになるからめでたいのだ。キミタチは消極的な考え方を捨てなければならない」と。かれらはすでに古いすばらしい教えを実践していないということがこの例からわかるのである。
もうひとつ。ジャワ人からの「なぜ、悪いことは魅力的なんだろうか?」との問いかけに「悪いことが魅力的でなければ、だれが悪いことをするだろうか」と答えておいたが、読者諸兄諸姉は筆者の意見に賛同できるだろうか。
[93]  人はしばしば自分自身の利益のために良い行いをする、つまりそれによって賞賛を得たいと思うからである。賞賛を得るというのは、基本的に物質的な形で得る報酬と異なるところがない。

 筆者も若いときにここのところを悩んだ。慈善とは偽善が表面に現れたものではないだろうか、ということである。年を取ってきてわかった。慈善とは見返りを目的とせず好意で行うものであり本人がそう思っているものである。一方、偽善とは第三者がその人の行為を評価する言葉であるから、自分が正しいと思えば何を言われようが続ければよい。「偽善」と言う言葉を発する人たちはあなたに嫉妬しているだけだ。「継続は力なり」であるからあなたの慈善行為を十年以上続けていれば社会的な評価も変わってくる。でも、それは他人の評価であるから、そんな評価に心を動かしてはならないのである。
[94]  ジャワの人生哲学の中の高徳を達成するための教え、つまりピウランには欠点がある。人間は全ての弱さを一身に背負う存在であり、自ら切望するような完全な境地には到底達しないのであるから、ピウランを実現することは不可能なのである。

 ジャワ王朝がイスラム化してから、こういう0 or 1の考え方がますますひどくなったような気がしてならない。もともと「頭を使うと疲れる」人たちだから「不可能だ」と教え込めば「ああ、不可能なんだ。だったらやーめた」と思い込むだろう。ここが政治家の策略であったのだ。だからジャワのマタラム王朝はオランダにぼろぼろにされながらも存続できたのだろう。
 またイスラムの教えには輪廻転生がないから「人生一回こっきり。死んじゃえば、はいそれまでよ」というわけで、ピウランは絶対に実現できないと思い込ませてしまったのである。しかし、マタラム以前のジャワ社会では輪廻転生が常識であったから、今生で達成できずとも、来世でも来来世でも努力してピウランを達成しようという希望まで捨てさせられてしまったのである。この点、イスラム化しなかった日本は助かっているとおもう。
[95]  神との関係を悟ることによって、やはり人は自分がいかに小さな存在であるか、自分の生を定める上で以下に能力が限られているか、ということも知る。人は神の定めた人生を歩んでいるに過ぎないのである。このような限界を真に悟ると、人はもはや大それた野望を抱こうとはしない。どのように人生の計画を立てたところで、その結果はそれを生かしている神によって定められているからである。

 まあまあ、なんと政治家が喜びそうな発言でしょう。こういう主張がまかり通るなら社会は安定するのである。金持ちは金持ちでいて、貧乏人は貧乏であれ、ということだからだ。まず、神との関係を悟れば、自分がいかに小さくかつまた大きな存在であるかが分かる。さらに、神ではなく自分が生まれる前に定めた人生計画を進めていることもわかってくる。この人生計画は人によって細かく決められていたり大雑把であることもあることが退行催眠治療の研究から分かってきているのである。神が定めた運命であるからして、それが現状に合わなければ神にクレームしたり神のせいにしてしまえばよい。実際には自分の努力不足で仕事がうまく進まなかった人は、その失敗を神様のせいにしてストレスを発散しているのだろう。こういう手合いをインドネシアではよく見かける。
[96]  ジャワの人生哲学のよいところは、人生を考えるときに、自分の能力の限界を悟らせ、また運命は全能の神によって定められたものであるがゆえにいかなる運命も受け入れるべきであることを教える点にある。

 能力というものは努力によって伸びるものである。努力しなければ伸びない。能力が伸びないことを神様のせいにしてはならないのである。運命は自分で立てた人生計画であるから責任を持って受け入れざるをえないのが本筋だが、こう考えるとまたジャワ人は「悩んで」しまうので、著者のいうように理解しておいたほうが脳にかかる負担を軽減させる意味でジャワ人には適しているのである。
[97]  もし充分な努力をした上で、なお人生における成功を達成し得なかったとすれば、その説明は、彼の運命を良きにつけ悪しきにつけ定めた神に求めなければならない。

 
しかし、その説明はあったためしがない。なぜなら「自分で決めた人生計画に対して文句を言うとは言語道断、ワシの知ったことではない」と神は考えているからである。
[97]  「受け入れる」態度は、その人の現在の生活状態を、それ以上でもそれ以下でもない形で映し出す。そのためには、それがたとえどのようなものであれ、運命を定めた大いなる愛の神に感謝しなくてはならない。

 「達成目的に30%近づいた」と運のよさを感謝するか、あるいは「70%も残っている」と運命をうらむかで、その人の人生観は変わってくるのである。どちらがよいかと言えばもちろん感謝する方である。もっとも口の悪い人は、彼らを楽観主義者とよぶだろうが、悲観主義者よりよほど幸福な生活が送れるのは確かである。なぜならば幸福かどうかは自分で判断するものであるからである。
典型的なジャワの楽観主義者はこうである。
交通事故で左手を折ってしまったときには「でもまだ右手が使えるから仕事ができる」と考える。
両手を折ってしまったときには「でもまだ脚が使えるからどこへでもいける」。
さらに、両手足を折ってしまったときには「でも命に別状がなかったからよかった」と。
最後に事故で死んでしまったときには
「ああ、もう新たに罪を作らなくて済む」と。
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2008-07-15 作成
2015-03-15 修正
2016/09/10 修正
 

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