嗚呼、インドネシア
52話 マルバグン・ハルジョウィロゴ著作「ジャワ人の思考様式」を読んで
第一章 責任
[10]  この6000万人という数には、スリナムの全人口の三分の一であるジャワ人や中部ジャワからスマトラ、カリマンタン、スラウェシ、ブル、イリアンジャヤに移住した何千人というジャワ人を含んでいない。

P181の訳者註:訳者註では「何千人」ではなく数十万人ではないかと統計を引用して反駁している。インドネシア語ではribuanとberibu-ribu orangでは少し意味が異なる。原著では多分beribuになっていたように思われる。というのはribuanだと1000から9000までの数値であるが、beribu-ribuとなるとberjuta-juta以下の単位であるから、原著の表現であったあろうberibu-ribuでは1000から99万までの数を大まかに示すので、正しい。ただし、日本語では他に言いようがないので、数千人と書くよりしようがない。
たぶん著者はribuanよりberibu-ribuの方が詩的で発音がきれいだから使ったと筆者には思われるのである。
[11]  これら全てのジャワ人は一つの文化を共有している。彼らはジャワ文化の中心であるヨクヤカルタやソロの町がある中部ジャワの祖先と同じように考え、感じている。

2007年には東部ジャワのマランとスラカルタ(ソロ)を往復する機会が何度もあった。ソロ出身のジャワ人女性の話では、東部ジャワの女性の背は一般的に低いとのことであり、実際に両市のショッピングモールでマンウオッチングをした結果、やはりこの女性の話は正しいという認識に至ったのである。身長の高低は栄養状態によるものだという彼女の指摘は正しくない。中部ジャワの方が東部ジャワより食糧事情が悪い。これは地方を旅していれば目に付く貧困家庭の数でそれと分かるのである。しかるに、ジャワ人は血縁的に一つの部族ではなくジャワ文化を奉じる多数の部族の集合体である、と筆者は結論付けたいのである。これと同じことがイランの社会でもアラブ諸国でも観察できるからである。
「祖先」と言っても、11世紀初頭に中部ジャワのメラピ火山が大噴火し、それからこの麓は長期間農業ができなかったため、人口が増えなかったはずである。だから、15世紀以降の「祖先」ということになる。
[11]  まだ幸福と調和を大事にしているから、一般にジャワ補人は急ぐことを快く思わない。緩慢さ。それは、思考や行動にいっそうの迅速さが要求されている現代では、もはや不適切と考えられている。だが、そうした緩慢さを特徴としているのが彼らジャワ人なのである。

ジャワ人が他の部族と比べて思考や行動が緩慢であるとは一概には言えないであろう。確かに北スマトラのバタック人の行動はジャワ人とは対照的で早い。しかし、かれらは拙速なのである。
著者がこの文を書いたのは1983年頃であり、インドネシアは高度成長期であった。外国資本が大量に入り込み経済が活気を帯びてきた時期であるから、外国人やそれを利用したスマトラ人たちと比べて、著者の身近なジャワ人たちの思考と行動が特に気になったのだろう。しかし、著作から25年が経過し世界が注目している対象が変化してしまった現在、思考や行動が緩慢であることは指摘するほどの欠点にはならないだろう。というのは、浅い思考と敏速な行動が現在の地球環境の悪化を招いてしまったという経験から言えるのである。
[11]  インドネシア語とインドネシア文化は今日に至るもまだなお独自性を持つに至っていないのである。

そうでもないと感じる。25年という時間を経て、インドネシア語とインドネシア文化は同じ文化圏に属する隣国のマレーシアに比べると深いものがあると感じる。筆者はマレーシアにもいたことがあるし、付き合っている友人も多いからその違いが理解できるのである。
インドネシア語はマレー語に比べて発音が美しく芸術的である。もちろん大量のジャワ語が入り込んでいるためであることは言うまでもない。
また現代インドネシアポップ音楽であるダンドゥットはマレーシアでも人々の心を捉えていることから、インドネシア文化を卑下する必要はまるでないのである。
[12]  1928年の当時、すでに他のあらゆる言語・文化の使用者を合わせてもなおその数を上回った多数民族の言語と文化は、ストモ博士、キ・ハジャール・デワントロ、ブン・カルノのようなジャワ人の政治指導者がとった謙虚な態度のために、統一言語となる機会と名誉をインドネシア語に譲り、そして自らは今日なお数の上では依然として多数民族であるジャワ人だけの言語と文化になってしまったのである。

世界の趨勢を見るとその国家に居住している多数民族で文化の高い部族の言葉が国語になっているから、著者の言うとおりである。しかし、インドネシア語をインドネシア共和国の国語として採用したのは、ジャワ人の謙虚さだけではない。ジャワ語は後述のように封建時代の名残である敬語と謙譲語の使い分けが難しく、ジャワ人近隣部族を除く文化程度の低い他民族にはなかなか理解しにくいという理由と、もうひとつインドネシア語が歴史的に交易用語として定着していたという理由もあろう。インドネシアの諸部族語のほとんどはオーストロネシア語族に属し、昔から広く使われていた文法的にも簡単なインドネシア語(マレー語)が国語として適していたのであろう。さらにインドネシア独立のための「青年の誓い」にはジャワ人だけではなく西スマトラのミナン人も含まれていた。自分たちはスリウィジャヤ王朝の末裔であるとスマトラ人は思っているから、スリウィジャヤを滅ぼしたジャワ人の部族語であるジャワ語には少なからず反感を持っていたとも勘ぐれるのである。
[13]  ジャワ文化もまた、国家規模の機能は果たしていないとは言っても、死んだ一個の文化というわけではない。それどころか、ジャワ文化は、ジャワ文化の要素を適宜取り入れながら独自性を模索し続けているインドネシア文化と対等に渡り合えるほど、動的な一個の文化なのである。

同感である。現在一億人とも呼ばれる人口を持つジャワ人のもつ文化は当然国家規模の文化であることは世界的に見ても当然のことである。著者はジャワ人らしくちょっと遠慮しつつもここでジャワ文化の誇りを示そうとしていると、おもわずほくそえんでしまうのである。
第52話のトップへ戻る 次の章に進む
目次に戻る


2008-07-11 作成
2015-03-15 修正
2021/05/19
修正

inserted by FC2 system