嗚呼、インドネシア
32話 トロウラン遺跡
遺跡めぐり その8


3.8 トゥロロヨ墓地 Makam Troloyo
 スントノレジョ地点は行政区画ではモジョクルト県、トゥロウラン郡、スントノレジョ村、字シドダディに位置し、クダトン寺院群から約750m南方の地点にある。
 墓地とtralayaに関して最初に発表したのは1878年に発行されたJAVA Jilid IIという本の中で、P.K. Vethであった。Vethは、tralaya墓はアラビア文字の碑文があるといっている。Tralaya墓に興味を抱いた他の専門家達にはVerbeek, Knebel, N.J.Kromなどがいる。トロロヨの最新の調査はL. CH Damaisが行ったものである。墓標の文字の解読以外に、彼もマジャパヒトとの関係をさがそうと研究を行った。
 トゥロロヨ墓地群は三つの主要な墓地群から構成されている。そのひとつはワリソゴ(Wali Songo)のグループであり、二つ目はシェク・ジャエラニ・クブロ(Syech Jaelani Qubroh)、三つ目は七墓である。墓標の外面に記載された碑文は通常アラビア文字でトイバア(Thoyibah=「アッラーの他には神はない」の意味)の文章が盛り込まれている。トゥロロヨで興味を引かれるのは脱落している文字が碑文に存在する点である。さらに、描かれた文字の書き方にも不自然な点がある。墓標の頭部の中はマジャパヒトの太陽の浮き彫りで装飾されていて、このマジャパヒトの太陽には、雲の周りに放射状に出ている先がとがったロンタール(lontar=昔文字を書いたやしの葉)と呼ばれる装飾がある。トゥロロヨ墓地群にある数十基の墓標からは、ひとつとしてその墓に埋葬された故人の名前がないが、ひとつだけ小さな破損状態がひどい墓標には「Zain没年874H」と思われる名前が書かれているように思われる。この石碑はアラビア語を用いアラビア文字で書かれている。他の墓石の碑文は主に「KULU NAFSlN ZAIQATUL MAWTI FAINNAMA UJURAKUM YAWMAL QIYAMATI」(命を持つものはすべて死を感じ、最後の審判のあと神の意思は完成する)とかかれたものである。得られたデータから、記載されているのは1376-1611年のヒンドゥー時代からの装飾の柄、混乱を招くアラビア文字の記述と墓標の大部分は埋葬者の氏名が書かれていないこと、その他には、死と「アッラーの他には神はない」というムスリムたちにリマインドさせる意味を含んだクルアンの聖句がある。なぜなら、トゥロロヨ墓地はマジャパヒトの王都の中にあり、専門家たちは、トゥロロヨに埋葬された人たちはイスラム化したマジャパヒト王家の人たちであり、イスラムの伝播が1376年以前にジャワの内部に入り込んでいたとまとめている。
筆者註
 墓標に脱字があることからみるとイスラムの到来間もない頃の墓地なのであろう。
 トゥロウラン博物館長のアリス氏の話によると、マジャパヒト王朝が滅びた後、イスラムがまだ浸透していなかった地方では、元の原始信仰に戻ってしまったとのことだった。それゆえ、ポリネシア風の彫像が見られるとのことである。

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2007-05-19 作成
2015-07-10 修正
2016-08-23 更新 

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