嗚呼、インドネシア
32話 トロウラン遺跡
遺跡めぐり その2


3.2 チャンディ・ブラフ Candi Brahu S7 32'34.8" E112 22'28" 
 ブラフ寺院は、行政区画ではモジョクルト県、トゥロウラン郡、ブジジョン村、字ジャンブ・メンテに位置する。モジョクルト-ジョンバン街道に面した東ジャワ歴史考古遺跡保存事務所の前から北に1.8kmである。
トゥロウランにおける遺跡の構造物に主に見られるように、ブラフ寺院もレンガで構築されていて、西に向いている。平面は18mと22.5mの長方形をなし、残存する構造物の高さは20mである。
この建物は垂直方向で見ると三段になっている。脚にあたる部分は最下部で小さな部屋とテラスまでの構造物で構成されている。脚の部分の上部にある胴体にあたる部分は小さな部屋を覆うとともに屋根の下梁となっている。屋根部分は建物の最上部にあり小さな部屋をふさぐ形となっている。ブラフ寺院周辺に関する以前の報告によると、ムトゥラン寺院(Muteran)や グドン(Gedong) 寺院, トゥンガ(Tengah) 寺院、グントン(Gentong) 寺院など、現在では崩壊してしまった他にもいくつかの寺院が存在したとのことである。これらり寺院群の周囲には、仏教風の合金製の古い祭器以外にも金製の装身具や金属製の神像も発見されている。建造物の形状と寺院の東南の屋上に置かれた残存するストゥーパの一部分から、ブラフ寺院は仏教寺院であり、15世紀に建設されたものと推定される。
ブラフ寺院の歴史はトゥロウラン付近にある寺院群より古いとする意見もある。ブラフの名前は、ブラフ寺院の約45m西で発見された銅製の碑文であるアラサンタン(Alasantan)の中で述べられている聖なる場所、ワナル(Wanaru)あるいはワラフ(Warahu)という単語と関係がある。この碑文はムプ・スンドック(Mpu Sendok)がサカ暦861年(西暦939年9月9日)に作成したものである。調査中には灰や遺骸は一度も見つからなかったが、民間に伝わる伝承では、この寺院はブラウジャヤの暦王の遺体を荼毘にふした場所として機能したと言われている。この寺院の小部屋は現在空っぽである。ブラフ寺院は1990年から1995年にかけて復元作業が行われた。
筆者註
 歴代の王の遺灰を納めるチャンディであり、Trowulan遺跡群では最大のもの。このあたりは解像度が良いのでGoogle Earthでもはっきりとこのチャンディが確認できる。
 チャンディから見てその参道の方角は西から北へ35度に向いていた。
 この近くにもモジャパヒト時代のいろいろな遺跡があるが、現地住民たちが農地として使うために破壊が進んでいる。
 Trowulan遺跡を見学して不思議だったのは、このような恒久的な構造物を構築するのになぜ耐久性の低いレンガbatu batahを使用したのかということであった。恒久的な構造物を作るのなら、ボロブドゥールなどの寺院に見られるように、レンガではなく強度が安定していて加工しやすい安山岩を利用するのが技術的に正しいと思う。
 しかし、栄華を誇ったマジャパヒト王朝にも関わらず耐久性の低いレンガを使ったのはなぜだろう。レンガに使用する粘土は遺跡の近くを流れるブランタス川が大量に供給したことだったろう。構造物に使われているレンガの焼結温度は、現在のレンガの硬度から推測してみると稲の茎を焼いて得られる温度である800度である。
 これ以上の温度を得る技術がこの当時なかったのは、素焼きのテラコッタ製品が大量に出土することは釉薬の技術がなったことと、1000度以上を焼結に必要とする陶器はすべて中国製であったことから明白である。この根拠はこちらをごらんください。
 製陶技術が低いにもかかわらず、耐久性の低いレンガをあえて使ったのは、レンガがその当時としては最新鋭の技術の成果であり、それを誇るためだったのかもしれない。
 あるいはMajapahit王朝は、安山岩が採掘される山岳部を平定していなかったため材料の入手が困難であった可能性がレンガを多用した理由として推測される。

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2007-05-19 作成
2015-07-10 修正
2016-08-23 更新
 

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