インドネシア不思議発見
45話 インドネシアの食器

 インドネシアで、町のレストランで食事をするときにいつも感じるのは、食器の質が悪いということした。もちろんカキリマで出される食器はもっと悪い質のものです。
 一方、お金持ちの家に招かれたときに出される食器はガラスか西洋風のお皿ですし、台所を見せてもらっても、食器の種類のバリエーションが日本ほどありませんし、模様もなんとなくインドネシア独自のものではなく取ってつけたように感じます。

 今はもう見なくなりましたが、二十年程前はカキリマから買ってくる食べ物はほとんどバナナの葉に包まれて、竹の楊枝でとめてありました。食べるときもバナナの葉をお皿代わりにしていました。また、ソトなどのスープはいびつで欠けた汚いどんぶりにいれてくれました。このどんぶりは程度こそ良くなってきてはいますが、いまでも同じタイプのどんぶりです。

 このようにインドネシアで食器が発達しなかったのは、アラブ・インド風に手づかみで物を食べる風習が続いたので、バナナの葉のほうが安くて使い勝手が良かったからかもしれません。また、食事に動物性の油脂をたくさん使うため、石鹸が不足していた時代にはきれい洗えなかったという理由もあるかもしれません。

 陶磁器が庶民の生活に出回ってないということは、その価格が高いからということになります。すなわち、国産できなかったため輸入品に頼っていたのではないか、という推定が成り立ちます。ではなぜ国産ができなかったのか……………。
 食器の質の悪さを説明するのに行き詰まってしまいましたので、陶器の専門家である、よろず掲示板に時々出ていらっしゃる「茶碗屋」さんにお知恵を拝借しましたところ、意外な事実がわかりました。

 土器に近い釉薬(うわぐすり)のかかっていないものは、各地で大量に作られていました。代表的なものにはkendiと呼ばれる土瓶やGuciと呼ばれる大きな水かめがあり、これらは庶民の生活に密着した日用品でした。土器の製造で有名な中部ジャワのKasonganという村では、瀬戸と同様な技法で、手びねりの置物を作っているし、常滑や備前と同様な「たたき」という技法で大きな素焼きのカメも作っています。
 素焼きのカメは、中に入っている水がカメの壁を貫通して少しづつ外に漏れていき、カメの表面から少しづつ蒸発するので、その気化熱で、カメの中の水はいつまでも冷たいという利点があります。ジャワにはロクロの技法もあり、昔はかなりの量の焼き物を作っていたようです。
 日用品以外には、瓦やレンガなどの建設資材を焼いています。特に、カラワン付近に多く、草葺の低い屋根と煙突が見えたら、これを作っていると思ってよいでしょう。
 さて、本題にはいって、国産陶磁器がなかった理由をまとめてみましょう。

(1) 良質の陶磁器材料がなかった
 高級陶磁器である白磁を作るには、陶土と粘土、白土と呼ばれる土が必要です。 インドネシアではLaterite(ラテライト)と呼ばれる赤土が地表を覆っています。このラテライトは鉄分を大量に含んでいます。鉄分を含んだ土で焼き物を作ると、黒か赤茶色にしかならず、白い陶磁器を作ることができません。 雨水によってラテライトから染み出した鉄分は、その下層にある陶土や白土にも鉄分を含ませることになります。特に磁器の場合には粘土以外に、バンカ島やブリトン島で取れるカオリンと呼ばれる白土が必要になりますが、これらの島でとれた白土は鉄分とチタンが多く、焼結してつかう磁器生産の材料としては使えません。中国では景徳鎮が有名です。この景徳鎮の近くには良質の材料が大量に埋蔵されていて、いままで数千年間の需要をまかなっています。

(2) 陶磁器を作るだけの技術がなかった
 陶磁器というものは土で形を作って焼き固めただけのもので、土器は世界各地で古くから生産されていました。一方、陶器は釉薬をかけて1100度から1200度の温度で焼かないと陶器としての性質が出ません。陶磁器の生産のためにはどうしてもこの高熱が必要になります。高熱を出す技術が当時の先進技術であり、秘密とされていました。  中国では紀元前から陶磁器の生産が行われていたようですが、遣隋使や遣唐使を派遣していた日本でさえ、鎌倉時代中期の13世紀に瀬戸で焼かれていただけで、その技法は門外不出とされていました。瀬戸と同じ愛知県の常滑でさえ、その当時は無釉薬の焼き締め製品しか作っていませんでした。この頃の日本の陶磁器生産地が「六古窯」と呼ばれる常滑、備前、信楽、丹波、越前、瀬戸でした。
 白磁が日本でできるようになったのは、17世紀初めの豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に連れてきた朝鮮の陶工李三平が、有田の泉山で陶石と呼ばれる磁器を作ることができる原料を発見して以来のことでした。その後、肥前藩の手厚い保護の元で急速な発展を遂げました。これがいわゆる伊万里焼です。
 欧州で白磁が焼かれたのはさらに100年ほどくだった18世紀はじめに、ドイツの錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベドガーがアルプスでとれるカオリンをつかって焼いたのが初めといわれています。白磁の製造には、カオリンという白い土が必要なこと、透明な釉薬が必要なこと、1300度から1400度近い温度でしかも還元焼成(酸欠状態で焼く方法)することが必要です。原料だけでなく科学的な技術がないと出来ないし、中国白磁はきわめて高価であったため、国の事業として開発、保護するぐらいの貴重な工業技術だったということになります。
 日本や欧州とはことなり、古代から製陶が盛んであった中国の景徳鎮の陶磁器には「銘」がありません。これほど高度な技術を駆使して作られたものに銘がないのは不思議と思われましょうが、古代から景徳鎮では分業による大量生産が盛んに行われていたため、銘をつけることができなかったと言われています。 このように陶磁器は、科学的な技術を集結させないと生産に結びつかないという点が、インドネシアの伝統的民芸品であるバティックなどの手工業とはかなり異なります。もちろんバティクの染料なども技術の成果とは言えましょうが、高温を長時間にわたって均一に行き渡させ、温度管理するという技術は飛びぬけて高いものと考えられます。

(3) 国産のための技術開発に投資するよりも、輸入したほうが手っ取り早かった。
 日本で白磁の生産ができるようになった時代、インドネシアは香料の貿易が盛んであり、中国の技術を盗んで血の出るような努力をせずとも、香料と引き換えに中国陶磁器を輸入することができたという経済的背景もありました。 この時代はちょうど大航海時代で、オランダがインドネシアを徐々に植民地化していく時代であり、オランダのねらいは香料とゴムなどの熱帯産品の供給地であり、中国や日本の陶磁器貿易の中継地として利用することでした。かれらの自国ではデルフトと呼ばれる白磁をまねて、薄茶色の陶器に白い釉薬をかけてつくられた白色陶器を生産していましたが、中国磁器や肥前磁器はあこがれの的で非常に需要の多いものでした。しかし、日本や欧州でようやく陶磁器が焼けるようになって、その先進技術が国家秘密とされていた時代には、わざわざ植民地のインドネシアで陶磁器を焼こうという発想もありませんでした。 今でも、瓦やレンガは原始的な窯で焼かれており、焼成炉には程遠いものです。原始的な窯ですと、せいぜい1000度までしか温度が上がらず、陶磁器の焼成温度である1200度から1400度には到底達しません。この温度は溶鉱炉の炉内温度よりも高く、青銅器や鉄器は作れても陶磁器は作れないという技術的な問題点がありました。
 このような時代背景があり、独立までは工業としての陶磁器産業がインドネシアではありませんでしたが、独立後には日本などたくさんの企業から技術導入して、陶磁器生産が始まりました。 サンゴーという日本企業から技術導入してsangoというブランドで洋食器を生産していますし、大量にでまわっていますので、ご覧になる機会も多いと思います。また衛生陶器のTOTOやINAXはそれぞれタンゲランとスマランに工場をもって生産に入っています。だいたい食器、瓦は日本から、タイルはイタリアからの技術導入に頼っています。多くの工場は原料の一部あるいは大半を輸入に頼っていますが、INDOKERAMIK社では純国産原料だけで白磁を生産していました。上でお話したように、原材料に問題があるため、かなり灰色に近い製品で主にインドネシア国内向けに出荷しています。 ワルンでよく見かける、鶏マークのついたどんぶりはMangkok AyamとよばれていてINDOKERAMIK社の主力商品でした。 インドネシア人の食生活は、大皿に持ったものを取り分けて食べるのが主流で、それにあった直径21cmの深皿(リムスープ)やnasi goring やmie gorengなどを取り分けて食べるお皿の需要が多いことがいえます。 お茶碗とお皿と湯飲みのある日本の食生活や、西洋のようにコースで料理を食べる食生活とは異なるため、インドネシアでは使う食器の種類そのものが少ないことが言えます。
 また、便器のデザインはインドネシア独特のもので、キンカクシがありません。これはトイレに洗濯たらいを置くスペースを確保するものであるという説もあります。

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2001-02-28 作成  ジャカルタにて
2002-07-30 更新  読みやすく改訂と写真を追加
2015-03-05 修正
 

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