ダビデの星とベツレヘムの星 第十一章 天文学者たちの旅 |
シッパルの天文校では、既に予測し期待していたその星を、最初は5月29日、夜明けの星の見える時間(へリアカル=日の出時)に、西空に見たと予想されます。 様々な会話が持たれました。この学校には、バビロン捕囚時の多くのユダヤ人もいましたから、「これは、メシヤの到来を告げるものだ」という者もいたことでしょう。 結論は、そのユダヤ人の王を拝みに行こうということになりました。 この天文学者たちの、「星を見ての旅立ちと、イエスを拝んだ」というマタイの記録も、イエスの誕生を飾る神話ではありません。 30頁で述べたAD66年に大替星が現れた時、ペルテルランド(アルメニヤ)の王様で、天文学者でもあったトゥリダテスは、この星こそ、待望の西の国の世界王を示すものだと信じ、天文学者を数人連れて、ナポリまで旅をし、ネロ皇帝を世界王として参拝したという記録があります。 私たち信徒の中には、真の神の子イエス・キリストの誕生に、学者とはいえ、星に対する信仰が絡んでいるようで、奇異な感じをもたれる方もいるかもしれません。 大切なことは、マタイによる福音書の1 ・2 章全体が、イエスはその誕生の時から、血筋の上からはイエスと同じイスラエル人(ユダヤ人)によって迫害され、異邦人によって求められるということを示していることです。 旧約聖書には血族的イスラエル人の救世主待望が記されています。 しかし神様がアブラハムに約束されたのは、アブラハムの子孫の一人即ちイエス・キリストが、血族的イスラエル人だけをを祝福するというものではありませんでした。 「地上の諸国はすべて、あなたの一人の子孫によって祝福を得る」(創世記22 : 18 ) イエスの誕生は、すべてのものの待望なのです。 旧約聖書の待望だけでなく、全人類・全時代、全世界の待望が、イエスによって成就されるというものです。 イエスは「ユダヤ人の王」であるばかりでなく、全世界の全ての人が待望している「永遠の世界の王」であるということです。 いつの頃からか、また何故なのかは全くわかりませんが、旧約時代のユダヤ人たちは、魚座を自分たちの救い主の象徴としていました。新約時代になって、キリスト昇天の後は、「魚」を救い主の象徴としましたが、これには理由があります。 「イエス」「キリスト」「神の」「子」「救い主」の五文字のギリシャ語の頭文字をあわせると、 (イクスース)となり「魚」という単語になるからです。 また、土星は、ユダヤ人の住むパレスチナの特別の星(守護星)と考えられていました。 メシヤですから、魚座のなかで、土星が大きく輝いたのを見て、「救世主が生まれた」とユダヤ人が考えても、不思議ではありません。 「天は神の栄光を語り告げ 大空は御手のわざを告げ知らせる」一詩篇19 : 1 星信仰は聖書と全くかかわりのないことです。 しかし、星の運行の不思議を、神の御手の業と見るということは信徒でも同じです。 でも、イエスを拝みに行った学者たちは、シッバルの天文校の学者だったとしても、ユダヤ人だったとは考えにくいのです。 学者たちは、へロデ王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」という表現をしています。 ユダヤ人なら「メシヤ」(ヨハネ1 :41)とか、「イスラエルの王」と呼ぶ筈です。 マタイが前述のように、イエスはイスラエル人(ユダヤ人)によって迫害されるが、異邦人によって求められることを示していることからも、この学者たちは、異邦人だったと思われます。 でも、人選の時、中にユダヤ人学者も選ばれていたかもという想像を完全に否定できるものでもありません。 いつ出発するかも議論されたことでしょう。 コンピュー夕の示す第一回目の5月29日に見て、直ちに出発したとは思えません。 この時出発するとなると、星の見える西の方向エルサレムまで、二ケ月弱の砂漠の旅1600キロは、暑い夏ということで、とても無理です。 また、彼らは、エルサレムからベツレヘムに行く時に、もう一度その星を見ています。(マタイ2 : 9 ) コンピュータは、二回目は、10月3日と示していますから、5月29日に出発したとすると、あまりにも日数がたち過ぎています。 いくらゆっくりでも5 ケ月もかかりません。 彼らの計算では、二回目は10月3日。これは、ユダヤ人のヨーム・キップール(贖罪日)に当たります。 学者たちはへロデ王に「新しく生まれたユダヤ人の王」と言っていますから、おおくのユダヤ人たちに、ユダヤ人待望の王メシヤの到来のことを聞かされていたに違いありません。 ですから、この晴罪日を選んだということも考えられます。旅にはちょうど良い秋です。 学者たちは、10月3日にその星を再確認して、6週間の旅をし、11月の末にエルサレムについたと思われます。 アラビヤ砂漠をシッパルからエルサレムに向けて真西に突き進むことはできません。 ユーフラテス川沿岸を、北西に進路を取り、旅の半ばに進路を南西に変え、ダマスコあたりから南下したものと思われます。 11月下旬、エルサレムに到着した一行はへロデ王に謁見し、「新しいユダヤの王」の出現を告げました。 この時、へロデ王は「不安を感じた」とわざわざ記録されています。 へロデは、キリストの先祖となる長子の特権を弟ヤコプ(イスラエル民族の始祖)に譲ったエサウの子孫で、イドマヤの土侯アンティパテルの息子です。 弟ヤコプの子孫にイエス・キリストが生まれ、兄エサウの子孫にイエスを迫害したへロデー族が生まれました。 イドマヤ人は、イシマエル(アラブ民族の始祖)人との混婚も多い民族でした。 へロデはローマに取り入って、ユダヤの王を名のっていましたが、ユダヤ人ではなかったのです。 昔ユダヤ人はシリア王エピファネスの圧政にたいして、マカバイオスー家が中心となって、BC167年から25年間戦って、BC142年に独立を勝ちとった事がありました。 このマカバイオス家(後のハスモン王朝)の衰えに乗じて実権を握るようになったのが、へロデの父です。 へロデは、BC40年にローマの権力によってユダヤの王となったのですが、ユダヤ人ではなかったので、BC37年に、ユダヤ人であるハスモン家のマリアンネを妻として迎え、二人の息子も得ました。 へロデは36年間の治世で、毎日のように誰かに死刑を宣告しました。特に、ハスモン家の再興を最も恐れ、その血筋の者を根こそぎに殺しました。 とうとうBC29年の末に、ハスモン家生粋の血筋であった自分の妻マリアンネを殺しました。 翌BC28年、マリアンネの実母アレクサンドラを殺しました。 そして、このBC7年には、マリアンネとの間の自分の息子たち、アレクサンドロスとアリストプロスもサマリヤで絞首刑にしました。 この二人の死で、ハスモン家の血が少しでも混じっている者は、全部いなくなりました。 この一安心したBC7年の11月の末に、東方の学者たちがやって来て、こともあろうに「ユダヤ人の王が生まれた」などと言ったのです へロデが「不安を抱いた」という歴史的背景がこれです。 イドマヤ人へロデは、ユダヤ人のメシヤの出現など、夢にも思っていませんでした。 やがてこの不安が、二才以下の男の子の虐殺の基となります。 祭司長や民間の律怯学者たちが呼び集められ、「メシヤはどこに生まれることになっているか」と聞かれました。 彼らは、古い聖なる写本から、約700年前、西ユダヤでユダヤ人の滅亡と回復を語っていたミカの預言から、生まれるのはベツレヘムであると応えました。 東方の博士たちの言葉は、人望なき暴君へロデを狼狽させ、ユダヤ人を、ミカの預言へと導きました。 博士たちがベツレヘムへ出発するとき、へロデはひそかに博士たちを呼んで、「行って幼子のことを詳しく調べ、分かったら知らせてもらいたい。わたしも拝みにいくから」といいました。 もちろん拝むためではなく、殺すためです。 博士たちは夢でへロデのところに戻るなという戒めをうけたので、イエスを拝んだ後、別の道から自分の国へ帰ったと記録されています。 へロデは自分を歓迎しない自国のユダヤ人の機嫌を取るため、BC406年に再建されたものの古くなってしまったエルサレム神殿の大修理をBC17年にはじめましたが、一向に工事ははかどらず、多忙でした。 最初の妻との間の子アンティパテルの動きも怪しい時でした。( BC4年、へロデの死の5日前に処刑される)ですから、学者たちが去って後、しばらくは、生まれたばかりの赤子のことなど、気に掛ける暇などありませんでした。 おそらく学者たちが去って半年くらい経って、思い出したものと思われます。 使者をベツレヘムに遣わして、学者たちがエルサレムによらずに帰ったことを知ったのかもしれません。 へロデは、学者たちがエルサレムに来た時、「ひそかに博士たちを呼んで、彼らから、星の出現の時間を突き止めた」と記録されていますから、BC7年2月の末から、木星が水瓶座から魚座に近付き始めることなど聞き出していたにちがいありません。 すでに1 年以上が経過しています。 ですからへロデは、ベツレヘム近郷の、2 才以下の男の子を皆殺しにしたのです。(マタイ2 : 16 ) さて、学者たちのエルサレムからベツレヘム行きの話に戻りましよう。 ベツレヘムは、エルサレムからへブロンへの道の途中にあります。アブラハムも通ったこの古代の道は、南北に直通しています。 学者たちは、ふたたびその星を見たとあります。 10月3日の日の出の頃に、二回目の星を見て出発した一行は、二週間ほどで星は見えなくなりましたが、11月の下旬には、目指すエルサレムに到着しました。 そしてヘロデ王との謁見があり、ミカの預言を聞かされて後出発していますから、このとき見た星は、彼らの計算と同じコンピュータの示す12月4日から見え始める、第三回目の大接近に違いありません。 木星と土星の相合は、大接近のため、一つの大きく輝く星に溶け合ってしまったように見えたことでしょう。 コンピュータは、エルサレムからなら、その相合星は、ほぼ真南に見えると教えています。 エルサレムからベツレヘムを通ってヘブロンへ至る古道は、エルサレムからほぼ真南に通じています。 学者たちは、朝早く出発し、ベツレヘムへの途上で、日の出から2時間ほど見えるその星を、真正面の上に見たことになります。 マタイが記録しているとおり、まさしく「星が彼らを先導した」のです。(マタイ2 : 9 ) イエスは、BC7 年ベツレヘムで生まれ AD29 年宣教を開始し、 AD33 年ニサンの月の14 日、十字架上で死にました。40 才の生涯でした。 ユダヤでは、40 という数字は、完成を示す数字です。 「わたしは、ダビデのひこばえ、その子孫、輝く明けの明星である。」(黙示録22 : 16) (終) |