インドネシア不思議発見
19話 生活の中のイスらム(7)

(モスク=Masjid)
 Masjidの丸屋根にも深い理由があります。寺院建築は柱のない大きな空間が必要になります。お宅の天井の水平部材には屋根の重みやらで曲げと引っ張りの力がかかっています。今なら鉄骨や鉄筋コンクリ-トで広い空間が作れますが、昔の中東ではこれら力の方向に強い材料が豊富にはありませんでした。どこにでもある安い材料で建築するためには、建築材料はどうしても石材に限られてしまったのです。石の大きな梁を壁から壁へ渡して天井を支えるとなると、とてつもなく大きくて長い寸法になってしまいます。こんな大きなそして無傷の石材を探すのも困難ですし、いったいどうやって石切り場から建築現場まで運んでくることができるのでしょうか。結局、人間が数人かかって手で運べるくらいの重量ものものしか使えないという技術的問題になってしまったのです。これを解決したのがア−チでした。それでmasjidの屋根は丸いのが原則なのです。ア−チで支えれば柱を使わずかなり大きな空間がとれますが、使う石材の圧縮強度の点で空間の大きさが限られてしまいます。

 地球上でも珍しく石灰岩が大規模に露出してるのがアラビア半島から英国のド−バ−海峡までなのです。ド−バ−は「白い崖」という意味だそうです。この加工しやすい石灰岩を中東では主な建築材料としたためにmasjidの色は白となっているのでしょう。もちろん、装飾したmajidもたくさんあり、特に有名なのはイスタンブ-ルのブル−モスクではないでしょうか。実際には石灰岩は多少黄色みを帯びていますが、中東の強烈な日差しの元では「白」に見えます。

 Menara(尖塔)はmasjidの位置を遠くから知らせるためと、敵来襲の見張りに使うとか言われていますが、普通は一日五回の礼拝の時間を信者に知らせるために使われたのだと思います。今では拡声器でいっぺんに全方向に知らせられますが拡声器のなかった当時は左と右と一回づつ同じことを肉声で叫ぶ必要がありました。それで第1話でお話したAzaanは同じ文句を二回繰り返しているのだと思います。
 断食月には一晩中なにか拡声器で叫んでいて、睡眠不足で不機嫌になります。これは、拡声器を使うから問題が起こるのです。この拡声器を売って大儲けをした会社は「東亜拡声器」(か、東亜電気かどちらか)という日本の会社でした。自分で売り込んだ品物で売りつけた日本人自身がいま迷惑しています。これを「自業自得」と言わずしてなんと言いましょうか。

 Masjidの中へ入ってみましょう。白いタイルの床で、奥の方はちょっと高くなって演説台のようなものがあります。れいれいしくアラビア語で書かれたものが額にはまっているのが見えますが、他には礼拝用の建物としては仏像も神像も絵画もなく、教会や仏教寺院にくらべると、やたらがらんどうで拍子抜けしそうです。
 白いタイルの床には線が引いてあります。これは礼拝の時に信者が横一列に並ぶようにするためなのです。演説台は、次にお話しする金曜日のSholat Jumatの際のお話(Khotbah)に使うためのものです。他にめだつものは常連の信者が毎日使うためのカ−ペット(Sujadah)くらいなものです。れいれいしく書いてあるのは「アッら−・アクバル」とか「預言者ムハンマド」とかで、もちろん「ナントカ大明神」とか「天照大神」とは書いてありません。

 金曜日の昼下がりに男ばかりがsejadahを肩に、インドネシアの黒いペチ帽子を被ってmasjidに続々と詰めかけているのに気が付きましたか。これはSholat Jumatという、キリスト教で言えば日曜日のミサなのです。なぜ日曜日ではなく金曜日かというと、イスらムでは金曜日が休日だからなのです。ですから、ウィ-クエンドは木曜日の晩になってしまい、サタデ-ナイトフィ-バ-は絶対にできないのです。インドネシアではMalam Jumat(木曜の晩)というとお化けの活躍する夜ということになっています。
 Sholat Jumatには女性が出席することを義務つけられていないために、むさくるしい男ばかりが集まり一種異様な感じですが、出席する前には必ずmandiをしてきますから、ひどい体臭は感じられないのがせめてもの救いです。

 このSholat Jumatは正午前後から始まります。Masjidは信者の礼拝の場所ですから、お葬式でここを使っても毎日の礼拝の時間を避けています。
 奇妙なのは、Sholat Jumatが始まる前に各人めいめいが勝手に礼拝を始め、立っている者あれば、伏せている者あり、座ってなにかぶつぶつつぶやいている者も見えます。これはmasjidを尊敬するための礼拝なのだそうです。そういえば、信者達は黙礼も一礼もせずにずかずかとmasjidに入ってきます。

 Khotbahという法話が始まると大体全員下を向いてじっとしています。話の内容に感激しているのか、ただ眠たいだけなのかはわかりませんが、大部分の信者が「早く終わらないかな」と思っているのだけはたぶん確かでしょう。この間に寄付金箱が回ってきますが、半数以上の人はただ右から左へ回すだけの仕事をしています。こころざしだけでもいいのに百ルピアもケチるなんて、あきれてしまう!これが終わった後で、集団礼拝があり、お開きになります。

 インドネシア人が雄弁なのはこのKhotbahを毎週聞いていて、話し方の勉強をしているからなのでしょう。会議の席上ぼんやり聞いていると、彼らはなかなか雄弁で抑揚にもリズムがあり、日本人の我々にはとても良い子守歌になります。でもよく聞くと、話手の意図と論旨の方向がはっきりせず、雄弁でもだらだらとした言い訳や質問の内容に対してトンチンカンな回答の連続で、段々イライラしてきます。こんな人たちの話し方の内で、発声方法や抑揚には合格点をあげることはできます。でも、しっかりとした考え方の基盤に立った内容が伴わない発言には零点を献上したいのです。これにほとほと手を焼いているのは日本人なら誰でも同じだと思います。

 伊丹十三氏の言葉に「英語がしゃべれないのは、考えがまとまっていないからだ」というのがありました。これを応用すると「論旨を通して話せないのは、考えがまとまっていないからだ」ということになります。さらに変形すると「雄弁だが発言の論旨がはっきりしないのは、考えがまとまっていないからだ」となります。これが一回二回ならまだしも毎日々々なのはいったいどういうことなのでしょうか。毎回「考えがまとまっていない」ということは「考えをまとめる頭がない」という「じゃりん子チエ」の父親の竹本テツと同じだという結論に達してしまいそうです。

 日本の戦時賠償で、1950年代に日本人の技術者がインドネシアに入り始め、その後も政府援助や民間技術協力などで、日本以外の国からもたくさんの技術者がインドネシアに来て働いてきました。これからもう半世紀に近くなります。でもたくさんの外国人技術者がまだ働いているのを見ると、インドネシアへの技術移転はまだ十分ではないと思います。
 
 技術移転には送り手と受け手がそれほど違わない技術レベルにあることを要求します。大多数を占める、ほとんど「テッちゃん」に近い人たちに中・高度な技術移転を要求すること自体に無理があるのではないでしょうか。「技術移転の問題」については、別な機会にお話しする予定ですから、今回はここまでにしておきましょう。
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2015-03-03 修正
 

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