度欲おぢさん的イスラム相談室
第八相談室 イスラムと仏教とキリスト教

日本人はあまりイスらムについて知識がないので、戸惑うことが多いと思います。この相談室での説明で、生活の中で日本人の目につくムスりム達の行動を紹介し、その理由なども明らかにしました。こうなると、行動の規範となっているイスらムと言う宗教について、もう少し詳しくお話しなければなりません。少し長くなり退屈でしょうが生アクビを殺して耐えて下さい。さっそく本題に入ります。

 世界三大宗教のイスらムとキリスト教、仏教との比較表をつくってみたらこのようになりました。

イスらム教

キリスト教

仏  教

聖・俗の区別

なし

あり

神様の数

単一

多数

神の救い

神様に頼む

自分で解脱する

発祥地

中東

中東

インド

神 像

なし

あり

地上の法

含む

含まず

使用言語

アラビア語

現地語

 「聖職者がいない」という点がイスらムの大きな特徴としてあげられます。従って出家・在家に分かれていないのです。東南アジアに広まっている小乗仏教では出家のみが救われて、在家はまったく救われないとしています。しかし、イスらムでは聖・俗の区別がなく誰でも救われるとしています。ブディストライタ−と自称しているひろさちや氏は同氏の対談集で「ムスりムは総在家信者」と呼んでいましたが、筆者には「ムスりムは総坊主」に見えます。信者が聖・俗に分かれていないことを理由として、イスらムを宗教として認めない学者もいるようです。聖・俗に分かれていないということは日本でいえば日連正宗ぬきの創価学会のようなものです。でもあとでおはなしするように、強制寄付の額も、一年一人米リットルと極めてわずかです。また、断るのに苦労する新興宗教の説伏(しゃっぷく)などという入信勧誘は絶対禁止になっています。  

 イスらムには出家・修行するためのお寺や修道院もありませんが、イスらムを学ぶためのPesantrenというイスらム塾がインドネシアのみならず世界中のあちこちにあり、ここでクルアンやその他の聖典を学んだりして、信者達の指導者(Kiai)を養成しています。その中には過激派もいてアルカイダもその一つです。

 筆者の菩提寺(天台宗)の住職の話では、明治時代に英語のReligionの訳として宗教という概念を日本に持ち込んだということで、一神教への信仰が「宗教」の本来の意味ですから、この概念になじまない仏教は厳格な意味での「宗教」とはいえないとのことでした。ですから、仏教を多神教なので宗教(religion)として認めない学者もいます。これは近代をぎゅうじった西洋のキリスト教徒の独善と言わざるをえません。では仏教は何かというと、東洋哲学であるとこの住職さんは言っていました。全世界の宗教の指導者が集まり、世界宗教家会議が開催されるのは日本であり、開催主体は仏教団体だとのことです。どんな宗教でも良いものであれば何でも包み込んでしまうのが仏教だと思います。日本の仏教を大きな目でみれば包括的、狭い視野からみれば「何でもありの変な宗教」とも言えるとも思います。

 特に日本では幕府の命令で江戸時代に寺に「宗門人別帳」という書類をつくらせ、信者の戸籍代わりに使っていたことと、その費用をまかなうために寺に墓地の管理をさせていたことが、日本以外の仏教との大きな違いではないかと思います。さらに明治以来の「富国強兵」の国家方針で人心を仏教から切り放すための「廃仏棄釈」運動が盛んになり、昭和生まれはほとんど宗教とは関係のない毎日の生活を送っています。いわゆる「ホットケさま」です。人生で神仏を意識するのはお宮参りと初詣、結婚式、お葬式、法事くらいなものでしょうか。

 神様の数が仏教では複数なのに対しイスらムとキリスト教では単一です。イスらムではアッら−、キリスト教では「主」と呼んでいます。この二つはまったく同じものなのですがイエスを「神の子」として認めるキリスト教とイエスを「預言者イ−サ」とするイスらムの教義の違いにより、二つの宗教は別なものとされています。

 古代インドでの宗教はあまり単一の神様のようなものを認識していなかったのではないかと思います。インドにア−リヤ族が移動してきた時の宗教が土着のドラビダ人達の宗教と入り交じり、インド土着のシバ神がヒンズ−教の神様としてあがめられるようになったのではないかと思います。ネパ−ルで現地の友人から聞いたところによると、ヒンズ−教では神様の中にもランクがあり、一人の大神様の下にいく人かの中神様、その下に手下の小神様が会社の組織図のように組織化され、職務分掌もはっきりしているとのことです。どうもア−リア人達はインド亜大陸の北半分が本拠地だったらしく、南に行くに従って原住民との混血の濃度が濃くなり肌の黒い人が多くなると共にカ−ストの高い人の数が少なくなっていきます。おっと、脱線。

 中国に仏教が伝わり、日本の奈良時代後期から平安時代には密教という新しい宗派が中国にできました。これを習って日本で広めたのが最澄と空海でした。この密教という宗派ではイスらムのアッら−のような存在を「大日如来(ダイニチニョライ)」とか「毘る遮那仏(ビルシャナブツ)」と呼んでいます。アッら−と同様に大日如来は宇宙創造のずっと以前からある存在なのです。ですから、天台・真言密教に詳しい方なら「アッら−」という存在を認識しやすいかも知れません。

 「宇宙創造のずっと前からある」と言いましたが、最新の宇宙理論によるとビッグバンの前には時間というものが存在しなかったとあります。時間がなかったのだから「以前」も「以後」もありませんね。時間というものは物質が変化することで生じると考えるのがよさそうです。

 日本では神様の大安売りで、色々な神様がいたるところにいるというアニミズムから脱しきっていないような宗教感覚を持っている人がほとんどです。仏教にも「山川草木悉皆(しっかい)成仏」という考え方がありますが、基本は大日如来だと思います。仏教についての詳しいことはあなたの家の菩提寺(先祖伝来のお墓のあるお寺)のお和尚さんに聞いてみてください。一番てっとり早いのは「般若波羅密多心経(はんにゃはらみったしんぎょう)」を説明した本を読むことです。このお経は浄土宗と浄土真宗以外のどの宗派でも使っているものです。東京駅前の八重洲ブックセンタ−には、たしか「般若波羅密多心経」に関する本だけで2メ-トルくらい並んでいたと思います。読み易いものは、しばしばこの文に出てくる「ひろさちや」氏の著書です。「般若波羅密多心経」への関心の程度によって適宜選んでください。カッパブックスていどの価格と大きさですからいつでもどこでも読めるようになっています。インドネシアでイスらムという宗教をまじまじと見せつけられて、「自分の心のふるさと」はどこにあるのだろうと思った方もいらっしゃると思います。あなたの「心のふるさと」を一生懸命さがしてください。たぶんあなたの「心のふるさと」は「般若波羅密多心経」の中に見つけることができるでしょう。これがあなた自身への一番大きなインドネシアみやげになるかもしれません。

 また、同氏の黒田壽郎との対談集では「日本人にもっとも欠けているのが現実を越えたところから批判する宗教的原理である」と指摘してしています。筆者はこの意見に深く共鳴を覚えるとともに、これが日本社会を進めていく上で今後一番大事なポイントになろうと考えます。

 脱線して仏教の話になってしまいました。ごめんなさい。ムスりムたちをからかう上で、「神様は一つ=アッら−フソマッド」という点を指摘するのもおもしろいのですが、下手すると命を奪われるかも知れませんから、相手と状況を十分に把握してから実行に移ってください。筆者はこんな風にからかっています。
 「神様は数え切れないほどたんさんいるのだ」と。まず、これ聞いたムスりムの、知ったかぶりが「アッら−は一つだ」と青筋たてて突っかかってきます。「神様はどこにいるのか」と聞くと「どこにでもいる」と答えてきます。「どこにでもいるのなら一つではないはずだ」と切り返すと、相手は答に詰まります。ここでインドネシアから救いを出します。「神様というものは一つと言ってもいいし、たくさんいると言ってもいいのだ。神様は人間の考えだした算数では勘定できないものなのだ」と。

 いつもの意地悪じいさんのザイヌディンL.Y.師は生意気で知ったかぶり(besar kepala)のムスりムをからかうのにいつもこう言っているそうです。

 「お前はアッら−がいることを信じているんだな。もしそれが本当なら、お前はまだムスりムとしてかけだしで、礼拝などの形式だけをおっかけている形式主義者なだけだ。なぜなら、アッら−がいるかいないかお前は知らないから『信じる』しかないんだぜ」と。さらに食い下がる奴がいたら、「本当にアッら−がいるのなら俺に見せてミレ!」
 と、たたみかけるとまず黙ってしまうとのことです。

 この意地悪じいさんはさらに続けます

「アッらーは唯一絶対である」ということに固執する人は「アッらー二つ以上存在する」と言う疑いを拭い去るためにわざわざこう言っている。なぜなら、アッらーがすべてであれば、それしか存在せず、数える必要はないし、数えられないのである。

と。

超能力者やほかの宗教である程度まで悟った以外の普通の人はこんなことをしない方が良いでしょうし、そういう人はこんなバカな議論はしません。こういう議論を吹っかけてくる奴に限って、半可通なんです。

 神の救いと言う点で大きな違いが仏教とその他の世界宗教との間にあります。イスらムとキリスト教は世界最後の日(Kiamat)の後、最後の審判がありあの世(Akherat)での人生が決まるといった筋書きになっているのに対し、仏教では現世の努力で直ちに救われる「解脱(げだつ)」すると言っています。オウム真理教のような超能力を得ることを目的として信仰の道にはいっても「解脱」できるとは限りません。日本教徒の陥りがちな「手段の目的化」がオウム真理教の一件で世界に露呈してしまいました。これは梅原猛氏が指摘しているように、「聖徳太子以来の『ええとこ取り』の国民性がそのまま残っている」のではないでしょうか。なお、ザイヌディン師によれば、超能力はそれ自身を目的としている人たちにではなく、ただ無欲で信心深い人たちに神様や仏様がより深い修行の為にくださるものなのだそうです。

 ムスりムたちは毎日の礼拝や金曜日正午からのSholat Jumatなどに出席したりして自分の持ち点を高めることによって、最後の審判の時に神様に救ってもらおうとしています。ですから、彼らがアッら−への内申点を低くするようなクルアンで禁止されていることをやってしまった時には、遠山の金さんばりに、「神を恐れぬ不届き者、地獄に落ちろ」と脅かしてやるのも一つの手です。私たちはかれらを「市中引き回しの上、打ち首・獄門」にはできませんから、この程度のうさ晴らしで済ませておきましょう。

 イスらムとキリスト教の発祥地はその当時余り裕福ではなかった地域の中東ですが、仏教は当時の世界では有数の裕福な大帝国であったインドです。てすから、イスらムとキリスト教では「神はあって、あって、あり続けるもの」としていますが、仏教では「空(クウ)」としています。何にもない中東地域では「神はあって、あって、あり続けるもの」として認識され、一方、なんでもあったインドでは「有無というのは意味がない。われわれは空(クウ)を悟らなければならない」と認識されていました。人間というものは、あまのじゃくで「ないものねだり」をするものなのですね。

 オウム真理教のそもそもはヨガ道場から始まったと聞きます。ここ十数年間、特に若い日本人たちはあふれる物財に溺れながらも、それで満足できず、他のもので心の平安と幸福を追い求めています。それは豊富な物財が必ずしも幸福を意味するものではないことに若い人たちが気づいたからだと思います。物財を通さずに心の平安を直接得たいという欲求がオウム真理教を大発展させ、あの地下鉄サリンガス事件を引き起こすことになったと思います。このような惨事を避ける意味でも読者の方々に宗教の正しいあり方と正しい信心の仕方を学んでいただきたく思っています。イスらムについてのこの文ではイスらムを通じて見た今後の日本人のあり方をも模索していきたいのです。  

 イスらム法というものがあります。国家・政府としての法律ではなく信者全員に適用する法律で信者達はこれをしっかり遵守することになっています。生活をしていく上で直面するいろいろな問題はクルアンに問題解決方法の主旨がしっかりと記されています。
 結婚、離婚、養子、商売の方法、利子に関する定め、遺産相続の方法など、礼拝の方法以外にも日常生活に密着したことがたくさん書いてあります。この法律に従って生活して行けば何の不自由もなく死ぬまで楽に生きることができます。

 ザイヌディン師によれば「あの当時の人間でも理解できるように、当時の習慣に従ってとにかく、しつこく・細かく書いてある」とのことです。
イスらム銀行という組織では融資先から利子を取らずにどうやって組織を維持していっているのか不思議です。師匠は金融関係の知識が豊かではないらしく、この質問には答えてくれませんでした。イスらム法の基本はクルアンの第二章から四章にかけて詳しく述べられています。もし読者のみなさんで興味をお持ちのかたがいらっしゃったらご自分で調べてみて下さい。ムスりム達と仕事をする上でこれらの基本を理解しておくとネゴの際にかなり強力な武器になります。相手がイスらム法をはずれてメチャメチャを言い出したら「お前は無信仰者(kafir)だ」と言ってやると、まず黙りこんでしまいます。でも相手がムスりムでないとこの手は使えませんので注意して下さい。

 神像・仏像はキリスト教と仏教にありますが、イスらムには全くありません。これはイスらムが始まった時代に中東では牛などの像を金で作ってそれを拝むのが普通の宗教だったのですが、ムハンマドが神から啓示を受けて「これらの神像はすべてインチキ神様である」としたことから、モスク(masjid)に像を安置しなくなったのでしょう。

 ザイヌディン師は神像・仏像についてこんな風に言っていました。

 「像や絵画というような視覚に訴える具体的なものを象徴とせず、言葉という情報伝達方式だけを使って宗教を広めていったという点にイスらムの画期的な点があると思う。言葉だけを使うということは、当時はほとんどが文盲だったから、人が受け取る情報量の70%を受け持つ視覚を制限することになる。また言葉というのはファジ−的な広がりを持つデジタル信号による意志の通信なんだ。だから、神像や仏像を通じて視覚からのアナログ信号を利用して受け取る情報量を増やす方法に比べて、イスらムはかなり大きなハンディキャップを負っていると言ってもいい。このように言葉を多用することから、論理的な思考が進みヨ−ロッパが中世の暗黒時代に苦しんでいたときに中東では学問・技術が開花するとともに、たくさんのアラブ人たちが経営コンサルタントとしてヨ−ロッパの国々に雇われていた。いまのヨ−ロッパ人たちは植民地時代の栄華を誇り、その前に技術移転をしてくれたアラブ人のことなどはすっかり忘れ去っているようだ。この恩知らず!当時のアラブからの技術移転の結果は「アラビア数字」「カセロ−ルのカセ(ガラス)」「鷲が翼を広げた形の家紋」などにいまでも残っているんだよ」と。

 「日本人は仏像に向かって礼拝するのか」とインドネシアの人は軽蔑した口調で尋ねてきます。この時には慌てず怒らず、「あの仏像は無限の昔からの仏教上での英雄達を模写したものだ。余りに古くて名前も分からないし、すでに人間じゃないから人間の名前もない。インドネシアでもその功績をしのんでたくさんの独立の時の英雄の像が立っているじゃないか。君達は独立の英雄を尊敬しないのか、この非国民!」と言い返します。すると「英雄の像に向かって礼拝しない」と切り込んできますから、「じゃあ、像の前でかしこまっているのはなんのためだ」といってやり、続いて「お前は像しか目には入らないのだな。このドメクラ。仏像はその付近に他次元への入り口があるのだ。また仏像の形は空手で言うカタを示していて、アッら−とのホットラインをつなぐ方法の一つなのだ。単なる言葉だけにこだわっているお前は本当にバカだ。Benci tapi rindu (憎いけど恋しい)と言う意味は分かるだろう。恋しいのはまだ愛しているからだ。お前は愛と憎しみが正反対のベクトルを持っていると思っているだろう。そうなら、なんで一夜にして激しい愛が激しい憎しみに変わることができるんだ。ベクトルの方向を急に変えることは力学的にもむずかしいことは分かるだろうが。そうやって自分で勝手に作り上げた言葉による論理という繭の中でぬくぬくと生きているだけなのがお前の生きざまなんだ。そんな奴にアッら−の思し召し(rejeki)なんか来るわけがない」。そこで一息おいてから西に向かって「アッら−、この愚か者をどうか許してやってください」と相手に聞こえるように言います。このような議論は論点をすり替えて終わりにしましょう。

 ここで新しい登場者の「第二のカモカのおっちゃん」の隠智和尚が顔を出して「チミィ−、言葉にこだわっているようでは悟りにはまだほど遠い。唯摩経には『不立文字(ふりゅうもんじ)』と言う言葉がある。お釈迦様は言葉では表しきれない悟りを得たんだよ。言葉にこだわっているようでは神仏の秘密を知ることはできない」とのたまわったのです。アッら−を中途半端にしか理解していないムスりムにこの不立文字の話をすると馬鹿にしますので、「この形式主義者の愚か者」とののしってやりましょう。宗教にとって形式主義におちいることは最大の堕落ですから。

 イスらムでのお祈りの時に使われる言葉はアラビア語ですが、この言葉は現在のアラビア語とはずいぶんと違っているとのことで、ヨ−ロッパでいえばラテン語に相当するような言葉なのだそうです。クルアンがまとめられてから千年以上もたちますが、一字一句変わっていないのだそうです。もちろん、このクルアンのアラビア語も現地では充分通用するとメッカ巡礼にいった人(Haji)たちが言っていますので信用できそうです。インドネシアでは、アルファベットでのインドネシア語を使った学校教育が始まったのは独立後であり、それまではオランダ語を除いてはその地域の部族語で学習していたとのことです。ですから部族語しか話せない人が大多数を占めていたとのことです。従って、その当時、識字率の一番高い言葉はイスらムでつちかったアラビア語ではなかったかと思います。

 どこでもどんな人種でも貧富や社会的地位を問わずムスりムは平等ですから、戒律さえ守っていればどこの国でもどこのマスジッドでお祈りができます。言葉がわからないと旅行者もそれを受け入れる現地の人たちも不安なものですから、古代のアラビア語でお祈りは一貫して行われるのではないかと思います。慣れていない人にはアラビア文字は「ミミズ君」のように見えますが、文字が33個しかありませんし、形の全く違う文字は18種類だけなので、読むだけならそれほどむずかしくはありません。でも発音が難しいのです。

 一方、キリスト教では信者が毎日使っている言語でお祈りを捧げています。でも「ア−メン」は共通なようです。ちなみにイスらムでも「ア−ミン」です。この言葉は呪文のようで意味はよく分かりません。

 日本の仏教は中国から入ったものですから、漢訳されたものがそのまま使われています。「摩訶般若波羅密多心経」を例にあげると「観自在菩薩………般若波羅密多心経」まで約300字はすべて漢字です。中国人は漢訳が終わるとサンスクリット語の原本はすべて焼き捨ててしまったとのことで、中国にはサンスクリット語で書かれた仏典はないそうです。しかしこの一番短いお経の中にもちゃんとサンスクリット語の単語は残っていて「最初の『摩訶』や『般若波羅密多』、『菩提薩多 = オウム真理教で一躍有名になったボデーサットバの音訳』『あのくたらさんみゃくさんぼだい』『ぎゃ−て−ぎゃ−て−、はらぎゃて−、はらそうぎゃ−て−、ぼじそわか』などです。どうしても漢訳できなかったのか、漢訳しない方が良かったのか分かりませんが、今でもちゃんと残っています。インドネシアにも仏教徒は人口の数パーセントいて、Semarangのお寺からいただいてきた「お祈りの手引き書」にはちゃんと「般若心経」が載っていました。でも筆者の分からないサンスクリット語らしい言葉で全文書かれていました。この「お祈りの手引き書」を見ると、訳の分からないいろいろな形の手印(シュイン)を組んだり、種々の仏具などが書いてあります。ある程度悟った人には手印が意味することが分かるのでしょうが、門外漢の筆者には仏具などはオカルチックに見えます。イスらムの「礼拝指導書」には、あまりこのようなオカルト的な要素がなく理路整然としているので、人間の理性が目覚めてきた中世以降に世界の各地域に広がったのではないか思います。

  前出のひろさちや氏は、イスらムが本格的に日本に上陸してきたらすさまじい速さで日本がイスらム化するのではないかと言っています。理路整然としてモヤモヤとしたところが少なく分かりやすいイスらムは日本人に取り込み易いのではないかというのが同氏のあげた理由でした。 

 現在、中東などの産油国をのぞいて、ムスりムの多い国のほとんどは開発途上国に入っています。その理由としてイスらムが経済の発展を阻害しているという指摘があります。イスらムの社会システムが西洋キリスト教を母胎とした社会システムに効率の点で劣っているので経済発展が遅れているのだという理由が西洋側からあげられています。しかし、仏教発祥の地インドにしろ中国にしろイスらム諸国にせよ、すべて帝国主義時代に西洋諸国の植民地か半植民地になっていた地域です。これらの地域からさんざん富を収奪しておいて、後は「知らぬ顔のはんべい」を決め込み、これらの国々の宗教のせいにするのは余りにも勝手ではないかと思います。インドネシアを例にとると、イスらムが悪いのではなくて、ムスりム達が怠け者だから経済発展が遅れている。すなわち、すべて人的資質(Sumber Daya Manusia)の問題であると先日の法話の際にKiaiが強調していました。でも、インドネシアのキリスト教はその数と勢力をどんどん伸ばしていっているのに対しイスらムはパッとしません。やはりムスりム達の人的資質に問題があるのでしょう。この現実からみると、イスらムは経済発展の足を引っ張っているという指摘もあながち否定できません。別な見方をすれば、怠け者でも信心すれば救われるといった教義のイスらムが、怠け者が多い地域に適していたとも言えると思います。

 イスらムやムスりムに関する情報は今まですべて西洋経由で入ってきましたから、西洋人たちに都合の良い情報だけが日本人の耳に届いてきていました。アラブに対して潜在的に劣等観を抱いている西洋人が自分に都合の悪い情報を日本に流すはずがありません。ここに日本人の持つイスらム観のまちがいの理由があるのではないでしょうか。「イスらムはおっかない宗教だ」と言われていますが、実際にクルアンを読んだりKiaiなどつきあったりしていると、そうではないことがだんだん分かってきます。

 何につけても、一方から受け取った情報だけではなく、別な情報源でウラを取った上、自分の感性も総動員して判断しなくてはなりません。これが情報時代に生きている我々にとっての宿命なのでしょうか。

 イスらムでは無理強いをして入信勧誘をしてはいけないことになっています。クルアンの第二章 牝牛 = Al Baqarah 第256句(Ayat)にはこうあります。

  宗教には強制があってはならない。正に正しい道は迷誤から明らかに(分別)されている。それで邪神を退けてアッラーを信仰する者は、決して壊れることのない、堅固な取ってを握ったものである。 

 ですから、あなたの身近にものすごく熱心なムスりムがいてもあなたをイスらムに絶対に誘わないのです。もしあなたがイスらムに関心を寄せていることを話せば、いろいろと実に親切に教えてくれるでしょう。 

[参考文献]

  1. 「聖クルア−ン」 日本ムスリム協会発行
  2. 世界の聖典 3「ひろさちやが聞くコ−ラン」ひろさちや+黒田壽郎対談集 すずき出版
  3. 入門 般若心経の読み方 ひろさちや著 日本実業出版社
  4. Tuntunan Puja Bhakti Vajrayana Indonesia (インドネシアVajrayanaお祈りの手引き)
  5. Sangha Agung Indonesia刊
  6. 「風と炎と」 堺屋太一著 文芸春秋社刊
  7. 「日本人・いのちの風光」梅原猛vsひろさちや対談集 主婦の友社刊
  8. 「アラビア語の初歩の初歩」 平田伊都子著 南雲堂刊
  9. 「無」ほんとうの強さ 本荘可宗著 ワニの本 256
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頁作成 2009-09-24
追加訂正 2010-11-26
訂正 2016/09/11

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