クラカタウ 西祥郎作

この分は著者自身のホームページに掲載されていたものを読みやすいように著者の許可を得てまとめて転載したものである。
日付は初出の日を意味する。

「クラカタウ第一回」

ダトゥ・アリバティン・ジェンゴッはそのころまだ幼い子供だった。少年のかれはいまだかつて想像したこともないようなその光景を目の当たりにして恐怖に全身をこわばらせていた。身体はまるで金縛りにあったように動かず、頭も心も痺れてただ呆然としているだけ。海水が天を衝くまでに盛り上がって、海岸からこれほど離れた陸地の奥深くまで押し寄せてきたのだ。こんなことがありうるのだろうか?少年は自分の目に映っている現実を信じることができなかった。
 
数日来鳴動と爆発を続けながら活発に火と煙を噴き上げていたクラカタウは、沈静化するどころかその火山活動を一層激しくさせていた。1883年8月25日土曜日、ランプン州南海岸部カリアンダ地区の空は厚い黒雲に覆われて日中というのに暗い。そして突然大量の灰が空から降ってきた。気温の上昇が明らかに感じられる。暑い。採った魚を普段海で洗っている漁民は、海水が濁っているため魚が洗えない、と愚痴をこぼした。

「クラカタウの噴火が近いぞ」

ムラッブラントゥン村では村役が衆議一決して避難命令を出し、村民はダマルニッ丘とグヌントゥラン丘に移動した。ダトゥ・アリバティン・ジェンゴッ少年は家族に連れられてカリアンダ海岸の北にあるグヌントゥラン丘に避難した。村民が全員避難を済ませてから一夜明けた8月27日月曜日、海のはるか沖合いから轟々たる響きが近付いて来た。丘の上にいる村民たちは暗い中を、その方角に顔を向けて一斉に凝視した。闇の中を赤い閃光が三度ひらめいた。風は強くない。そして轟々たる大音響が頂点に達し、奔流する海水が怒涛となってひとびとの足元に押し寄せてきたのだ。

グヌントゥラン丘はただの低い高台にすぎない。標高はせいぜい70メートルだが、海岸からは4キロも離れている。丘の麓は海水に没した。丘全体が水没すれば、避難民はひとたまりもない。だが水は力尽きたのか、丘から引き始めた。海底にあった珊瑚や大岩が丘の麓に残され、一緒に運ばれてきた大小の魚も地面をのたうっている。避難民たちは歓声をあげた。普段めったに網にかかったこともない大型の魚も地上に転がっているのだ。何人かが丘を走り下りて魚を手づかみで集め始めた。それを見たほかの村人も手づかみの大漁に加わる。ところが何という皮肉だろうか。そこへ次の津波が押し寄せてきたのだ。丘から降りたほとんどの村人が見る見るうちに奔流にさらわれて行く。轟々と唸りを上げてほとばしる水流の響きと阿鼻叫喚がグヌントゥラン丘一帯に満ち溢れた。[ 続く ]

「クラカタウ第2回」

その水が引いてから海水はもう一度グヌントゥラン丘を襲ったが、その後はだれひとりとして丘を下りなかったために犠牲者を増やすことは免れた。結局、グヌントゥラン丘に避難したムラッブラントゥン村民は三十数人がその日、海水に呑まれて姿を消した。クラカタウの噴火がもたらした死は、津波によるものだけではない。山が砕け散るほどの大爆発はすさまじい熱波を生んだ。熱は円周状に拡がって陸地に達し、火山から噴出された高熱の火山性物質もカリアンダ一帯を襲って多くの人命を奪った。

ムラッブラントゥン村は跡形もなく地上から消え去り、好運にもクラカタウの猛威の餌食になることを免れた村民たちも裸一貫で大自然の中に投げ出された。村も水田も津波に一掃され、その上を火山性物質が分厚く覆っていた。村民は全員が山に入り、ジャングルの中で三年間採集生活をして露命をつないだ。植民地政庁からの援助はなにひとつなかったと語り継がれている。

ジャングルの中でひとびとは猿と鳥を見倣ったという。猿や鳥が食べるものは人間も食べることができるのだ。津波はあの一日で終わったというのに川の水はいつまでも塩辛かったと言い伝えられている。三年が過ぎ去り、ムラッブラントゥン村民は村が元あった場所に戻ってふたたび村を興した。村の地面を深く掘り起こすと、津波が海底からもたらしたさまざまなものがいまだに出現する。当時の海底の状況を調査したい研究者にとってはたいへんありがたい資源だが、それを遺跡として保護しようとする動きはない。[ 続く ]

「クラカタウ第3回」

スンダ海峡をはさんでランプンの対岸にあるバンテン地方の西海岸部一帯も、クラカタウの猛威を免れることはできなかった。1883年8月26日日曜日夜から27日月曜日の朝にかけて、ジャワ島西端部の海岸に住んでいるひとびとは夜を徹して地の底を揺るがしながら轟き続ける爆発音にまんじりともできなかったにちがいない。火山が吐き出した黒煙と大量の塵灰は上空を厚く覆い、細かい粒子が地上のすべてを包んだ。屋外にいるひとびとは例外なく手巾で顔を覆って細かい灰を吸い込まないようにした。屋内にいるひとびとも扉や窓を閉め切っていたが、微粒子の侵入を防ぐ術はなかった。大音響が轟くたびに地面が揺れ、扉や窓が振動し、屋内に置かれたあらゆる物が位置を変えた。海水は激しく波立ち、漁に出ようとする漁師はひとりもおらず、舟は波打ち際からできるだけ遠く離して内陸に引き上げられた。夜の闇が白み始める時間が来てスブの礼拝を告げる太鼓が鳴らされたが、この地域一帯は依然として深夜と変わらない闇の中にあった。そのとき地上を照らすものはクラカタウが噴出す火の明かりだけだった。鶏がときを告げ、羊や山羊がいつものように檻から出してもらおうと騒いだが、飼い主たちは寝付かれない夜の果てにまた朝が来たことを知って起き出したものの、再びランプを点けることを余儀なくされ、何をすればよいのか戸惑って普段の習慣を忘れてしまった。午前7時ごろ、東方の低い位置にある太陽がほのかな明かりを地上に投げ掛けたが、クラカタウの火口から立ち昇る黒煙がすぐにそれを遮り、ふたたび天空は闇に閉ざされた。
     
一層激しさを増すクラカタウの火山活動を観察していた村々の指導者は、もうすぐ大噴火が起こるだろうことを予測してそれぞれが住民に対して避難命令を下した。住民たちはすぐ東や南に向かって避難を開始したが、そのために海岸沿いの街道は避難民でごった返し、女子供老人の通行に困難をきたして逃れる足が緩慢になった。そんなとき、クラカタウの方角で耳をつんざく大音響が連続して轟いたために避難民はパニックに陥ってしまった。女や子供たちのすすり泣きが暗闇の底を埋めた。その混乱が鎮まる気配もなくおよそ半時間ほどが足早に過ぎ去っていき、そうして津波がやってきた。37メートルの高さにまで盛り上がった海水がクラカタウ島から50キロほど離れたアニエル、チャリタ、ラブハンの海岸に怒涛のように押し寄せて来たのだ。この津波は時速85キロという高速で四方に広がり、スンダ海峡両岸を薙ぎ倒してからセイロンを経てアラビア半島南端のアデンまで達し、東に向かっては太平洋を越えてハワイから中央アメリカ西岸にまで届いた。アデンまでは3千8百海里あって当時の優秀な船でも航海に12日を要したが、クラカタウの津波はわずか12時間でアデンに到達したという。
     
スンダ海峡の両岸は百ヵ村以上がその津波に滅ぼされた。海底にあった6百トンもの珊瑚や土石が陸上に運び上げられ、たまたまスンダ海峡を航行中だった艦船も波に運ばれて海岸から4キロ離れた内陸部に残骸をさらした。ウジュンクロンでは海岸から15キロの奥地にまで海水が到達した。このすさまじい勢いの波は地球を13周したと言われている。

ムラッ、アニエル、チャリタ、ラブハン、スムル、ウジュンクロンと連なるバンテン西海岸地区はすべての村が津波にさらわれ、家屋のひとつ、立ち木の一本も残さず姿を消した。その上に岩と泥と灰が数メートルの厚さで積もり、あらゆる生命が死に絶えていた。ひとびとは一週間ほどしてから滅びた海岸部を調べて回ったが、生きているものはなにひとつ見つけることができず、波が運び残した人間や家畜の屍骸が点々と散乱して至るところに腐敗臭を立ち昇らせているだけで、死者が誰であったのかを見分けることはもうできなくなっていた。クラカタウ火山の大爆発が奪った人命は36,417人と記録されている。1815年のバタビアとその周辺部における人口統計は47,217人という数字を示しており、喩えるならインドネシア随一の大都会の8割方が一日で死に絶えたほどの出来事だったと言うこともできそうだ。[ 続く ]

「クラカタウ第4回」

太古の昔、スマトラ島とジャワ島は陸続きだった。それが分離したのは今から1万1千年前で、大爆発でスンダ海峡が作られ、クラカタウが残った。ジャワの古文書をひもとけば、スンダ海峡の中にあるクラカタウ山は海抜2千メートルの雄山で、島の周囲は11キロメートルある、と記されている。パララトンの書にカピ山という名で登場するこの山は紀元前500年に大爆発を起こし、爆発はランプンのラジャバサ村まで届いた。紀元416年には山の四分の三が吹き飛ばされるほどの大爆発を起こした。時代が更に下った1680年から1681年にかけても、クラカタウが起こした大爆発が記録されている。15キロメートルという巨大なカルデラが海面下に残され、リング状に三つの島が作られた。ラカタ島、スルトゥン島、パンジャン島がそれだ。その後造山活動が繰り広げられ、後にダナン山とプルブアタン山と名付けられる山が二つ海中から出現した。その二つの山は成長を続けてラカタ島にあるラカタ山と合体し、その一体となった山をひとびとはクラカタウ山と呼んだ。スルトゥン島とパンジャン島には火山がなく、スルトゥン島は海抜200メートル、パンジャン島は海抜146メートルの安定した島だ。一方、ラカタ島のクラカタウ山は成長を続けて海抜8百メートルにまで達し、そうして1883年の大爆発の日を迎えた。

前回の爆発から2百年たった1880年、クラカタウ山はストロンボリ式噴火期に入り、ガスや溶岩を周期的に噴出する活発な火山活動が数ヶ月間継続した。その後火山活動は鎮静したが、1883年5月に爆発を起こす徴候が出現した。火山活動は再び活発化し、その勢いは日増しに強まっていった。こうしてギネスブックに「史上もっとも強力な火山の爆発」として記録されるクラカタウ火山大爆発の日が1883年8月27日にやってきた。

その爆発エネルギーは原爆の21,547.6倍で、轟音は地上で発せられた最大音響であり、2万1千立方メートルの火山性物質が噴出されて地表面積78万平方キロメートルにばら撒かれた。火山灰は80キロメートル上空にまで昇って空を覆い、9月9日までかかって地球を一周した。上空に昇った火山灰は太陽熱の放射にフィルター効果を及ぼし、地球の平均気温を0.5℃低下させ、世界中に三年間にわたって異常気象をもたらした。世界の各地で太陽が青色や緑色に見え、アメリカ東部では夕映えが異常に赤く染まったために火事と勘違いした市民から消防隊への通報が相次いだ。大爆発の振動は4,653キロメートル離れたインド洋西岸モーリシャス諸島のロドリゲス島まで伝わり、オーストラリア北部のダーウィンでも、ミャンマーでも爆発音を大勢が聞いている。しかし、それほど有名になったクラカタウの大爆発よりも1815年4月に起こったスンバワ島タンボラ山の噴火は5倍大きなエネルギーを持っていたと推測されており、今ではそれが世界で史上最大の火山噴火と位置付けられている。それどころか、今から7万4千年前にカルデラ湖であるトバ湖を北スマトラの山中に作った火山の爆発こそがこの地上で発生した世界最大のものだとされており、そのエネルギーはクラカタウ山大爆発の50倍だったと見積もられている。[ 続く ]

「クラカタウ第5回」

1883年8月26日日曜日
午後2時、クラカタウ島から122キロ北東にあった船の船長は、とてつもない爆発で吐き出された黒煙が26キロ上空まで立ち昇った、と日誌に記した。ジャワ島西岸のアニエルは夕闇のほの暗さに包まれ、クラカタウから南南東に74キロメートル離れた灯台では灯台守が「14時30分、北の空は密雲に覆われている」と日誌に書いている。そのときの爆発音はバンドンまで聞こえた。
午後5時、ジャワ島全域が爆発音を聞いた。オーストラリア北部では、夜中に響いた轟音に驚いて住民が目を覚ました。

1883年8月27日月曜日
早朝、バタビアでは道路のガス灯や邸宅のガス灯が突然消えた。夜を徹して鳴動を続ける恐怖の轟音はスラカルタまで響き、ペナン島の住民も爆発音を聞いている。クラカタウは終日荒れ狂い、火山の吐き出した噴出物は広範な地域に降った。チレボンにも灰が降り、目を射る閃光はバタビアにまで達した。

午前6時半、津波がランプン州トルッブトンを襲い、高波がバタビアの海岸を一掃した。午前8時には、ジャワ島西端の一部地区は完全な闇に包まれた。午前8時半、西スマトラのメラピ山が噴火して地球の崩壊を思わせた。

午前9時、バタビア市内パサルスネン地区ではそれまで太陽が輝き市場は盛況を示していたというのに、一転して空は真っ暗になり視界が狭まった。暗闇に包まれた街中に灰が降り、この世の終末を想像したひとびとのすすり泣く声が随所に流れ、母親は赤児や幼児をベッドの下にもぐらせて灰を避けた。

午前10時2分、三度目の強力な爆発が起こり、爆発音はシンガポールでもセイロンでもはっきりと聞こえた。アニエル村民は、恐ろしい大音響に続いて激しい泥の雨が降ったと語っている。朝から闇に包まれていたセランでは、積もった泥のために多くの立ち木がねじれて折れた。

午前10時15分、ボゴールでは街灯を点けなければならなくなった。アニエルの灯台は稲妻に襲われて職員が焼死した。

午前11時、クラカタウの北西にあるインド洋に面したブンクルの灯台が高波で破壊された。一方津波はジャワ島西岸の漁村を襲い、大勢の住民を海中に運び去った。高熱の噴出物や泥雨も多くの人命を奪った。

その日バタビアでは夕方にかけて気温が10℃も低下した。クラカタウ火山の大爆発で吐き出された火山灰は上空を濃く覆ったため、ジャワ島とスマトラ島の大部分は三日間闇の中に置かれた。ラカタ島の北側三分の二が吹き飛ばされてダナン山とプルブアタン山が姿を消し、火口は海面下250メートルまで沈んだ。ふたたび三島が円周状に並び、その内側の海中にカルデラが作られた。クラカタウの爆発は27日で終わり、28日には火山活動が鎮静化した。

1927年、海中のカルデラがまた新島を生んだ。やむことのない造山活動によって噴火とともに水面上に姿を現したこの島には、クラカタウの子という意味でアナクラカタウという名が授けられた。今この島は海抜230メートルにまで成長しており、毎年数メートル高さを増している。[ 続く ]

「クラカタウ第6回」

スンダ海峡に面したワリギン郡でラデン・チャクラ・アミジャヤ郡長は役所にいた。その日は日曜日だったから役所にいるのは郡長の家族と使用人だけだった。地方行政首長は役所を自分の住居にしていたために、妻子もそこに一緒に住むのが普通なのだ。クラカタウの噴火が日を追って激しさを増しており、鎮まる気配はない。住民の不安は日増しに高まっていた。郡長の妻、ラデン・アユ・サディジャも心の奥底で不安と闘いながらも周囲のひとびとには威厳ある姿を見せていたが、隣に座った妻の赤い目を見た郡長には妻の心の葛藤が手に取るようにわかった。

「はっきりしないことに心を患わせても、なにも好転しない。あそこに大きな危険があるのも確かだが、それがわれらの身になにをもたらすのかはまだはっきりしない。それを泣いても怒っても、詮のないことだ。われらの運命は寛大で慈愛あふれるアラーの御手に委ね、われらはわれらにできる日々の勤めを果たすことだ。さあ、ラデン、悲しみを続けていても仕方がない。」郡長はクラカタウを指差しながら妻に語った。

「それは本当にその通りですわ、旦那様。もうこの数週間、何度も繰り返して夢に現われているおそろしいできごとをわたしが怖れているわけではないのです。もしわたしとあなただけでしたら、わたしは運命をアラーに委ねて平常心でその危険に対面するでしょう。でももし、椰子の木より高い大波にこの海岸一帯が洗い流され、天から降ってくる火と煮えたぎる泥があらゆる生命を滅ぼすなら、わたしたちの子供ハサンとスリヤティの運命はいったいどうなるのでしょう。それを思うとわたしは悲しみを払うことができません。」
「おまえは毎夜、そのような夢に悩まされているのかね。」
「ええ、そうです。でももうそれは夢でなく、床に就いて目を閉じるとまるで昔体験した思い出のようにわたしの脳裏に浮かんでくるのです。そしてわたしの耳には、そんな危険に襲われた住民たちの泣き声まで聞こえてくるのです。」
「そんな状態を放っておいてはいけない。来月になったらわたしと一緒にセランに行って、オランダ医師に薬を処方してもらおう。きっとおまえは神経の病に冒されているにちがいない。」
「あなたがこれを病だと思うのなら、オランダ医師にでもドゥクンにでも診てもらいましょう。でもわたし自身はこれが病の結果の幻とは少しも思えないのです。これは将来起こることの予見にちがいありません。海中のクラカタウ島が黒煙を吐き、まるで雷か大砲のような轟音をたてるたびにこの地面が揺れ、そのたびにわたしはあのクラカタウがこっちにいるわたしたちみんなに大きな災厄をもたらす予兆を感じるのです。」
     
郡長は立ち上がると考え込んだまま室内をゆっくり歩いた。そして妻に向き直ってから言った。
「この5月ごろから漁師たちは、あのクラカタウ島の火山がときに激しく動き、また暫くは鎮静するということを報告している。これまでのところは、あの山が人間に災厄をもたらしたことはない。よしんばあの山が大噴火を起こしたところで、こんな遠い場所にまで危険を及ぼすことはないだろう。カラン山やチワリラン山が噴火するのとは影響が異なる。こちらの山が噴火すればたくさんの町や村が破壊されるにちがいない。しかし海中にあるあの小島で噴火が起こったとしても、ここにまで危害をもたらすとは思えない。断言してもよい。だから理由のはっきりしない不安に涙を流したりしないで、おまえは貴族の娘としての矜持を保ち、住民たちには威厳を示してもらいたい。おまえの夢の話は決してわたし以外のだれにもしないように。そうだ、おまえの気分転換を兼ねて、子供たちを明朝ランカスビトゥンへ送って行ってはどうだろうか。県令であるわたしの父のもとで暫く静養するのがよい。月が替わったら、三四日してからわたしもランカスビトゥンに行き、おまえをセランに伴って医者を訪問することにしよう。もし必要ならバタビアで治療を受ければよい。」
「旦那様、あなたを危険の中にひとり残して去ることはわたしにはとても・・」
「その危険はおまえの頭の中にあるだけだ。」
「わたしもそれがただの幻であることを望んでいるのです。ですから、どうか明日一日待ってください。その日に大きな災厄がこの地を襲わなければ、あなたが奨めるようにランカスビトゥンへ出発することにいたしましょう。」

郡長は妻との会話を切り上げて、外の様子を見るために役所を出た。[ 続く ]

「クラカタウ第7回」

波打ち際に下りると、住民たちは普段通りの暮らしを営んでおり、海の波も空の様子もいつもと同じで異変が起こるような兆しは感じられない。ひとつだけ違っているように思えるのは、はるか遠くに浮かんでいるクラカタウ島の山頂から吐き出されている火と煙が昨日見たものよりも強まっていること。住民たちに尋ねると、その通りだという返事が返って来た。それどころか、地の底を揺さぶる轟音も大きくなり頻度も増している、とかれらは言う。郡長はひとわたり住民の様子を見回ってから役所へ戻った。

戻る道すがら郡長は、ここ数日来妻から聞かされた夢の話を反芻していた。世界は暗闇に包まれ、空から火の雨が降り、海水は陸地に流れ込んですべてが水の底に沈む。それはクラカタウがもたらすのだと妻は言う。

郡長の妻サディジャは一年程前に高熱の病にかかった。何日も高熱にうなされた後で病はやっと快方に向かったが、それ以来妻はまるで別人になったかのように僅かな刺激に過敏な反応を示すようになった。茫然と自分の中に閉じこもる時間が長くなり、常人とは思えない振る舞いを見せることも起こった。郡長は妻の脳が熱に冒されたのだとその現象を理解していたが、その一年間に何度か妻の口から出された予言めいた話が現実に実証されたことから、妻には透視能力が備わったのではないかという気持ちを完全に否定することもできないでいた。ある夜中に妻の悲鳴で目覚めた郡長は、サディジャが夢に見た難破する船の情景を聞かされた後、妻をなだめて再び眠りに落ちた。そして翌朝届いた報告と妻が見た夢との間の符合に驚かされた。ラブアンからアニエルに向かっていた船が突然の時化に襲われて難破し、乗組員の6人が波に呑まれたという知らせは、妻が見た情景にぴたりと一致していた。また別の時は、チレゴンにいる祖母が横たわり白布で包まれている夢を見たという話を妻が郡長にした。そして翌日の午前中に、サディジャの祖母が前夜死去したという訃報が郡役所に届いた。

「クラカタウ第8回」

なんとなく不穏な気持ちがほとんどすべてのひとびとの心の一隅を占めていたが、その日は特になにが起こるということもなく暮れた。しかし夜が深まるにつれてクラカタウ山頂が噴出す火は一層大きくなり、夜を徹して轟く地底からの大音響と振動はひとびとの安眠を妨げた。はるか遠くのクラカタウ山上空は赤色に染まり、ときおり目を射る閃光が空中を走る。家の外では細かい灰が音もなく降っている。何十門もの大砲を一斉に撃ち鳴らしたかのような耳をつんざく轟音が家屋を振動させ、地面も一緒に揺れた。郡長は非常呼集をかけた。郡役所はこうこうたる明かりに照らされ、警官や役人など大勢のひとびとがやってきては郡長の指示を受けて慌しく去って行った。それぞれが担当地区の治安を守るための配置に就くのだ。郡長は用人頭を呼んで手紙を持たせた。「馬で県令役所までこの手紙を届けるために急行せよ。」手紙の内容は現地状況の報告であり、どう対処すればよいのかその指示を求めるものだった。
     
郡長はいま、妻が夢に見た光景を信じていた。夜が明けたらすぐに住民をすべて高台に避難させなければならない。ぐずぐずしていては海水が海岸にいるすべてを呑みこんでしまうだろう。郡長は中国人の店に人をやって、米・塩・魚やその他食糧の在庫を調べさせた。できるだけ多くの食糧を人間と一緒に避難させなければならない。そのための運送機関としてその量に見合うだけの牛車を中国人の店に送らなければならない。郡長はその手配を済ませた後、妻と子供の避難準備に取り掛かった。
     
ラデン・アユ・サディジャはこれまでの不安からうって変わった落ち着きを見せていた。自分の予見が的中したことにむしろ安心したのかもしれない。郡長は妻に、身の回りの物を用意して子供たちと避難する準備をするよう命じた。

村々の宗教師や名士たちはモスクに集まって神への祈りを捧げた。アラーよ、どうかわたしたちに安全を。住民たちはほんの暫時の仮眠しか取ることができなかったにちがいない。しかし夜はいつまでたっても明けなかった。8月27日月曜日の朝が来ていたというのに、クラカタウの黒煙が全天を覆って夜明けを隠していたのだ。[ 続く ]

「クラカタウ第9回」

朝6時ごろになって、郡長はすべての行政官と町長村長その他村役人を集めて避難命令を出した。できるだけ早急に高い土地へ避難し、襲ってくるかもしれない大波から逃れるようにせよ。手配を済ませてある食糧確保をつつがなく遂行せよ。避難命令と訓令は短時間に終わった。大勢のひとびとが郡役所から急いで自分の村に戻って行く。郡長は必要な指示を部下に済ませてから、妻子を避難させるために急いで住居に入った。家の中では既に出発の準備が整っていた。

「出発は早いほど良いですわ。さあ、あなたも早く出発のご用意をなさいませ。」
「わたしはここの住民がすべていなくなるまで、ここを去るわけにはいかないのだ、ラデン。おまけに災害があれば、それに乗じて物を盗みあるいは強奪する賊が現われる。住民たちが置いて行った財産は守られなければならない。地域の長にはそれらの務めがあるのだよ。」
「ではわたしたちの出発はいつに・・・?」
「おまえと子供たちが先に出発するのだ。わたしはすべてが終わったことを確認してからおまえたちの後を追う。」

サディジャは夫の目をしばらくじっと見つめ、そして言った。「本当にそうですわ。首長たる者は民の安寧を守る務めがあるのです。それでこそ偉大な首長であり、住民の頭となれるのです。あなたが他の住民たちを置いてさっさと避難するなんて、とてもふさわしいことではありません。わたしも偉大な首長の妻として、夫をひとりで危険の中に置いて行くことはできません。夫婦は生きるも死ぬも一体なのですから。」

郡長はそう言う妻の考えを変えさせようと努めたが、この日は意外なほど頑固に主張を変えない妻に手を焼いて諦めてしまった。8歳のハサンと5歳のスリヤティだけを、使用人頭のクルナインと女中のサティマを付けてランカスビトゥンまで送らせることにし、郡長と妻は首長の職務をまっとうしてから残させた馬で後を追うことにした。

クルナインとサティマに指示を与え、ハサンとスリヤティを馬車に乗せる。荷車には家財道具が積み込まれる。出発の準備が整うと、郡長と妻は子供たちに別れを告げた。時間はもう10時を過ぎた。クラカタウは荒れ狂い海は煮えたぎっている。サディジャは二人の子供にひとつずつ、祖母からもらった形見の腕輪をはめた。涙の中で親子の別離が繰り広げられ、馬車と荷車は郡役所を出た。妻のその振る舞いにこれが永遠の別離になることを予感した郡長は一行を呼び止めると家の中に駆け込み、鎖にメダルの着いたふたつのペンダントを手にして戻ってきた。それをひとつずつ子供の首にかけると、群長は愛する子供たちに最後の別れを告げた。[ 続く ]

「クラカタウ第10回」

サティマは子供たちの横に座り、クルナインは御者の隣に座っている。御者はとても用心深く馬車をゆっくりと進ませる。周りが暗いために道路の様子がよく見えないのだ。およそ半時間進んで、一行はワリギン郡役所からおよそ3キロ離れたチダグル村に達した。街道はここでふたつに分かれる。そこから南東に向かえばメネスを経てランカスビトゥン。郡長が命じたのはその方角だ。もうひとつ道は北東に向かって伸び、カラン山麓のマンダラワギに至る。一行がチダグル村を通過しつつあるとき、この世のものとも思えない大音響が連続して轟いた。それはこれまでクラカタウが発した音の中で何倍もの強さを持った音だった。馬は驚いて棒立ちになり、方角も定めずまっしぐらに走り出した。そのときスリヤティを膝に乗せて座っていたサティマが馬車からふたり一緒に放り出された。ハサンも放り出されそうになったが、馬車の柱にしがみついてそれを免れた。大音響に驚いて家から道路に出てきた近在の村人でいっぱいの街道を馬車は7百メートルほど走り、沿道の立ち木にぶつかって粉々になった。御者は重傷を負い、ハサンも石に頭を打って出血し、意識を失った。クルナインだけが軽い擦り傷ですんだ。そしてスリヤティとサティマがいなくなっていることをクルナインはそのときはじめて知った。ふたりを探さなければ。だがハサンの手当ても必要だ。空はますます暗くなり、自分の手のひらもよく見えない。クルナインは決心した。ハサンを背負って街道を東に向かおう。乗り物が通りかかればそれに乗せてもらうことにしよう。そうしてチュニンかメネスに着いたら村長か郡長にハサンを預けてスリヤティとサティマを探しに戻るのだ。
     
結局なにひとつ乗り物に出会わないまま、クルナインはひたすら歩いてチュニンに至り、ハサンを村長に預けると少し休息してからすぐにチダグルへの道を引き返した。そうして1.5キロほど進んだとき、はるか前方から水音混じりの轟々たる響きがこちらに向かってくるのを耳にした。続いて暗い視界の中で前方に広がっている村、水田、畑、立ち木などすべてを呑み尽くしながら迫ってくる水が目に映ったとき、クルナインはその光景に背を向けて全力で走った。そしてチュニンの村長の家からハサンを運び出すとメネスに向けて走った。メネス郡長の家に着くまで、クルナインは一度も足を止めようとしなかった。1883年8月27日月曜日、クルナインの恐怖の一日はこうして終わった。

ハサンとクルナインを迎えたランカスビトゥン県令は、ふたりが何とかたどり着いてくれたのを喜ぶ一方で、もうひとりの孫と息子と嫁の安否を気遣った。すぐにひとを出してチダグル村周辺を捜索させたが、粉々になった馬車と馬の屍骸、そして半ば泥の中に埋まった御者や見知らぬ住民の死体が見つかっただけで、スリヤティとサティマが散乱した死体の中に混じっているのか、それともどこかに逃れて九死に一生を得ているのかは杳としてわからなかった。
     
またワリギン郡の様子を調査に行った役人たちは、郡役所をはじめ海岸一帯は住居から椰子の木一本にいたるまで跡形もなく姿を消しており、津波が運び残した死体や残骸あるいは丸太などが散乱しているだけで、生きているものはなにひとつ見つからなかったと報告した。海岸には火山が噴出した灰や泥が厚く積もっており、その中に半ば埋没した多くの死体は腐乱が進んでいて、それがだれだったのか見分けがつけにくくなっていた。ラデン・チャクラ・アミジャヤ郡長とその妻のラデン・アユ・サディジャの運命がどうなったのか、それはランカスビトゥン県令にもそれ以外のだれにさえも判ることではなかった。[ 続く ]

「クラカタウ第13回」

1927年12月のある早朝、ラデン・ムリアは副郡長役所の執務室で業務書簡の処理をしていた。役所の表のベンチに座っている用人の隣にやってきた男がひとり、何も言わずに腰をおろした。タバコに火をつけ、朝の冷気の中で腕組みして寒さを払おうとしている。仕事を一段落させたラデン・ムリアがその男を呼んだ。副郡長よりはるかに年上のその男が執務室に入ってきて椅子のひとつに腰掛ける。

「ハリさん、もうあのキアイに会って来なさったか?」
「はい、わしは二日間あそこにおりました。昨日家に戻ったばかりです。」
「あのキアイは危険人物だろうか。あんたはどう思いなさる?そもそも、あの山でいったい何をしているのかね?」
「わしがあの付近の村人から聞き集めた話と、わしがこの目で見てきたあのひとの仕事から思うに、危険な人物ではないと思われます。政治のことも宗教のことも一言も話さず、ただ山の中で祈祷し、毎週金曜日になると集まってきた病人に治療を施しているだけですから。おまけに病人が差し出す治療費を何ひとつ受け取っておりません。」
「あのキアイに師事する村人はどのくらいいるのだろうか?」
「ひとりもいないようです。あのひとは多分ムスリムではないでしょう。わしがアルクルアンの文句やら宗教の話を質問しても理解を示さず、あのひとに近しい村人の話では、ワヤンに出てくる神々の名前をいっぱい混じえたカウィやサンスクリットの言葉をよく口にして、カンジュン・ナビ・ムハマッの名前を唱えたことは一度もない、と。」
「だったらその者はキアイやサントリではないということか。」
「まったく違います。しかしあのひとはなんと呼ばれようと少しも気にせず、他人に好きなように呼ばせております。村人は『爺』と呼んでおり、本人は自分のことを『行者ヌサ・ブラマ』と呼んでおります。そして今は故人となったあのひとの父親は村人が『行者アシェカ』と呼んでいたそうです。」
「あんたはその父親をご存知かね?」
「いえ。でもわしの親たちの話だと、もう何十年も前からあのひとはアシェカ爺と一緒に何度もあの場所にやって来ている、と。」
「どうやらその者はイスラムがジャワに渡来する前の宗教であるヒンドゥ教あるいは仏教の信者を思わせる。」
「さようです。あのひとが言うには、自分は今でもバドゥイが持ち続けている古い宗教を信仰しているのだ、と。」
「だったらその者はバドゥイなのか。」


「クラカタウ第14回」

バドゥイという言葉が副群長ラデン・ムリアに意外な印象をもたらした。はたしてあのバドゥイの民が不穏な動きを起こすのだろうか?

「あのひとがバドゥイであるのは間違いありません。ただあのひとは賢く、行儀正しく、聡明で学問があります。同類としか交わろうとせず排他的で、田舎者で無作法で後進的な生活や奇妙な習慣を行っているクンデン山系に住むバドゥイたちとはまったく違っております。」
「その者がどこから来たのか誰にもわからない、というのは本当なのか?」
「だれひとり、それを言える者がおりません。本人に居所を尋ねても、ただ笑って『ここから遠い、遠い、ずっと遠いところだ。』と言うだけで名前を言おうとしません。村人の中にあの爺をマリンピン近くの南海岸で見たことがあると言う者がおり、バドゥイが住むマリンピン東の山中が居所ではないかと推測されます。」
「もし居所がそれほど遠い場所であるなら、その者はいったい何用あってこんなところまでやってくるのだろう。無料で病人を治療しに来るだけが目的ではあるまい。」
「確かにそれが誰にとっても謎であります。毎年12月になるとやってきてチワリランの山頂にひと月逗留し、その後人知れず去って行く。どこから来てどこへ行くのかだれも知らない。そして隠者のように小さな仮小屋に住んで人寂しい山頂でいったい何をしているのかもよくわからない。」
「その者はこれまで仲間と共に来たことはないのか?」
「以前はもう故人となったアシェカ爺といつもふたり。その後はいつも男の手伝い人をひとり連れて来ておりましたが、今回はじめて妻と娘を伴ってやって来ております。」
「ということは妻子があるのだな?」
「これがまた妙な話で、二十歳くらいのその娘が素晴らしい美女。とても田舎に埋もれて暮らしてきた娘とは思えない美形です。もちろん立居振舞や口の聞きようは田舎者そのものですが。」
「話を聞けば聞くほど興味をかきたてられる。その行者が妻子を連れてきたのは今回がはじめてだというのか?」
「さようで。あのひとが言うには、昨年は共産主義者の叛乱があったため、どの道を通っても兵隊や警官に止められて訊問されたので結局チワリラン山を訪れるのを取りやめることになったが、妻子を連れていれば悪事を企てているような疑いを持たれないだろうと思って今年はふたりを連れてきたのだそうです。」
「毎年その山に何をしにくるのか尋ねてみたのかね?」
「はい。わしだけじゃなく大勢が同じ質問をしており、それには『宗教の勤めを行っている』という返事をしております。」
「どんな勤めなのだろうか。病人を救うということか?」
「昔、父親と一緒に来ていたころは、病人の治療はしておりません。治療を始めたのはここ数年で、実によく効くということで今では多くの病人が門前市をなしております。」
[ 続く ]



「クラカタウ第15回」

「どんな治療をするのかね?」
「まじない、祈祷した水、薬草などを使っております。めくらも足萎えもつんぼもみんな健康者になると大評判で、わしも歯痛を治してもらいました。」
「これはますます興味を引かれる。わたしが直接会ってもっと調べてみたい。ハリさん、明日わたしがその行者と会うのを案内してもらえるだろうか?」
「そりゃあもう、よろこんで。」
「馬でそこまで行けるかね?」
「スカラメまでは乗り物で行けますが、その先はチタンジュル川に沿って歩きになります。チタンジュル川の水源近くまで行くと治療を求めてやってきた病人たちの仮小屋があり、その付近にはコーヒーワルンや食べ物を売る店もあります。行者が治療を行う小屋はずっと上の頂上あたりで、そこからはスンダ海峡が一望のもと。島々からスマトラの海岸までも目にすることができます。」
「では明朝6時にここから一緒にチワリラン山へ向かうことにしよう。」

ラデン・ムリアが諜報役に使っているハリは椅子から立ち上がると若い副郡長に拝礼してから部屋をあとにした。ラデン・ムリアは自分の瞑想の中に沈んだ。管区の山中に正体不明の外来者がおり、そして諜報役に集めさせた情報にはたくさんの秘密が埋もれている。それらの秘密を自分が乗り出して明らかにするのだ。そしてバドゥイだというその外来者の正体を暴いてみせよう。
     
しかしその秘密が自分とそしてランカスビトゥン県令である自分の父親に思いもよらない関わりを持つものであろうとは、そのときのラデン・ムリアには想像することさえできなかったのである。
[ 続く ]

「クラカタウ第16回」

翌朝、ラデン・ムリアがハリとふたりでチタンジュル川の水源近くまでやってきたとき、病人たちの仮小屋は閑散としておりコーヒーワルンにいくつかのグループが集まっているだけだった。その日は日曜日だったために行者ヌサ・ブラマの治療活動は行われていなかった。閑散としているのはそのせいで、治療日である金曜日にはその一帯がひとで埋まるが、ほとんどの病人は治療が終わると自宅に戻る。重病人や自宅があまりにも遠い者だけがそこに居残って翌週の治療を待つのだ。
     
ラデン・ムリアが用人も連れずに単身でそこを訪れたのは、自分の身分が公になれば諜報活動が困難になるであろうことを警戒したためであり、役人が聞いていることを知りながら言いたいことを自由に話す人間などまずいないことをかれはこれまでの経験から熟知していた。ワルンの持ち主のミクンはラデン・ムリアを見知っていたが、ラデン・ムリアは知らないふりをするようミクンに表情で告げた。わざと歪められた話を聞いても正しい情報は集まらない。ミクンに自分の身分を明かされてはそこに集まっているひとびとから何の情報も得られなくなる。仮小屋にはほんの僅かしかひとはおらず、その中にはパレンバン者数人が目を患っている仲間に付き添っているグループがあった。目を白布で巻いている身なりのよい男が病人で、その名をアブドゥル・シンティルという。かれはパレンバンの金持ちで、蛇商人であり同時に広いゴム園を持っていた。そのアブドゥル・シンティルが目を患いほとんど失明に近い状態にまで陥ったのは蛇の毒にやられたせいだ。かれはバンドンの眼科病院を訪れたが効果なく、ラブアンにいる知り合いがチワリラン山の行者に診てもらうようかれを招いたのでそこに来ていた。そうして先週行者の治療を受け、祈祷をこめた水を朝晩目に挿すことで今では薄ぼんやりとながら視力を取り戻しつつあった。
     
行者がチワリラン山へきてもう二週間がたつ。一月になればまたいずことも知れない地へと去っていくのだ。その行者が病人に施す治療はたいへん効験あらたかで、薬草を使いあるいは祈祷を込めた水を使ってたいていの難病を治していた。失明者は光を取り戻し、おしやつんぼも足萎えも元通りに回復したが、生まれついての失明やおしつんぼなどを健常者にすることはできなかった。かれが治すことのできた病は、人生の中で罹病した患いだけだったのだ。行者は治療代を受け取ろうとせず、米や野菜などを日々の糧にするために少量だけもらい、あとはすべて患者に返していた。行者は鶏も卵も食べようとせず、生命あるものから生命を奪ってそれを食することを自分に禁じており、ミクンにも生命を奪うことの罪を何度か言い聞かせている。
     
行者は金曜日以外、村人や患者の前に姿をあらわすことは一切せず、かといって山を下りる姿を見た者もおらず、山頂にこもって何をしているのかを知っている者はひとりもいなかった。ミクンはときどき山頂まで頼まれた食べ物を届けに登っていくが、いつ行ってもたいてい行者は姿を見せず、妻と娘そして手伝い人がいるばかりだった。しかし行者は朝夕、仮小屋の近くを通って小さい滝まで下りてきて水浴し、水を汲んではまた山頂に戻っていった。行者の年齢はおよそ60歳、妻は10歳ほど年下で、20歳を超えていると思われるこの夫婦の娘、レッナサリはバンテンにも数少ない美形であり、かの女を目にしたすべての男はその美しさに心を酔わせ、胸ときめかせる憧れに溺れた。ラデン・ムリアはそんな情報をそこで得た。
[ 続く ]

「クラカタウ第17回」

「わたしをあの行者に会わせてもらえないかね。」ラデン・ムリアがミクンに取次ぎを頼むと、ミクンは答えて言った。
「それはわたくしめにもお約束のしようがございません。副郡長様がご身分を明かされて職務として面会をお求めになれば拒みようがないのは明らかですが・・・・」
「ならばわたしの身分を言うがよい。」

ミクンはひとりで山頂に向かい、程なくしてから吉報を持ってもどってきた。例によって山頂に行者の姿はなく、行者の妻に話したところ一時間後にお越しくださいと言われたと言う。ラデン・ムリアが時間の経つのを待っていると山頂から行者の手伝い人が下りて来て、「用意ができましたのでお越しください」と告げてから先に立って歩き出した。クスディと名乗ったこの手伝い人は年齢50歳くらい。無口で思慮深そうな人相をしている。ラデン・ムリアはすぐにそのあとに続き、ハリがその後ろについた。
     
登り道は思いもよらず険しかった。細い踏み分け道の急な登攀路は石や岩がごろごろしており、藪やとげのある草が歩きにくさを倍加させている。高く上がった太陽が歩く三人をカッと照りつけ、ラデン・ムリアは汗をかいた。しばらく歩いては休むという歩調が繰り返され、その間に海から吹きつける強い風は爽涼をかれに味わわせてくれた。同時に、眼下に開けたスンダ海峡の壮大な眺望もかれを楽しませた。青い海の中に島が群れている。その中の一番大きな島が1883年に海抜816メートルの山を吹き飛ばして消滅させ、スンダ海峡一円に大災厄をもたらしたラカタ島だ。山のあとはいま海面下に没し、海中のカルデラとなっている。その北側には小ラカタ島別名パンジャン島が寝そべっており、オランダ人はその島をラングエイランドと呼んでいる。西側には少し離れてスルトゥン島があり、その島はオランダ人にフェルラーテンエイランドと呼ばれている。更に北側にはスベシ島とスブク島がスマトラの海岸近くまで迫り、スマトラの海岸線もくっきりと目に映る。ランプン湾に作られたカリアンダ、オーストハーフェン、トゥルッブトンなどの港周辺にはたくさんの蒸気船が停泊している。
     
一方、南西の方角に目を向ければ、タンジュンルスンそしてラブアンの港が手を伸ばせば届きそうな位置にある。1883年にチャリギンが津波で破壊されたあと、ラブアンがそれに取って代わるこの地域最大の商港に成長して繁栄を謳歌しているのだ。南に目を移せばバンテン最高峰のカラン山がそびえ、高低乱れたいくつもの峰を遠く近く従えている壮大な姿に圧倒される。東の海岸線もアニエルの灯台やチコネン岬、チナンカの村々が並び、展望する者に美しい光景を提供している。山頂に着いたラデン・ムリアは手ごろな大岩に腰をおろすと、えもいわれぬそれら天然の美に埋没した。[ 続く ]


「クラカタウ第18回」

一心に下界を眺めている夢見心地のラデン・ムリアを穏やかで威厳のある声が現実に引き戻した。「ようこそお越しなされた」と呼びかける声に振り向いたラデン・ムリアの目は、ひとりの壮年の男をとらえていた。細身で背の高い男の姿がそこにある。顔つきは厳格で威厳があり、額は広く、目が輝いている。知的で教養のある貴族階層の人間が持っている雰囲気をその男は強く漂わせていた。ラデン・ムリアはその男に近寄り、親しみをこめて握手した。
「わたしが対面しているのは行者ヌサ・ブラマ殿でしょうか?」
「その通りです、副郡長様」
     
こうして始まった会見は、あまり訊問色の感じられないものだった。ラデン・ムリアが抱いていた疑問のいくつかはヌサ・ブラマから直接話を聞くことで氷解したし、その問答の中でヌサ・ブラマが語った深い思想のいくつかにラデン・ムリアはむしろ感銘を受けていた。ヌサ・ブラマは風が強いことを理由にラデン・ムリアを小屋の中に誘った。山頂には高さ15メートルほどの大岩が露出して屹立しており、その壁にへばりつくようにして小屋が作られている。ラデン・ムリアは誘われて小屋の中に入った。小屋は竹編の壁でいくつかの部屋に仕切られており、奥がどうなっているのかは見通すことができない。ラデン・ムリアは中に入った瞬間、香の匂いを嗅いだ。入ったところは十分な広さがあり、縁台が置かれてござが敷かれている。水差しや湯呑、シリ入れ、バナナやドリアンなどが縁台の一隅に整頓されて置かれている。室内は質素で家具もほとんどないが、掃除が行き届いていて清潔だ。
     
外から見たときあまり奥行きが感じられなかったその小屋の中に入ると、奇妙なことに奥が深いように思える。ラデン・ムリアはその奥行きが6〜7メートルはあるだろうと見た。貧しいと言えるほど簡素な小屋だが、かれはなんとなく居心地のよさを感じていた。それは小屋の持ち主が持っている温かみのゆえだったのだろうか?小屋の奥から女の話し声が低く聞こえた。副郡長と行者の対話は続く。[ 続く ]


「クラカタウ第19回」

ヌサ・ブラマの話すところによれば、この小屋はかれや父親が作ったものでなく、その祖父の曽祖父のもっともっと先代の時代から作られたものであり、先祖代々かれの血筋の者がそこへやってきて宗教上の務めを果たすよう義務付けられていた。それはバンテンに、そしてその後パジャジャランの地にイスラム王国が作られる以前からそうであり、イスラム王国がジャワ島西部の地を支配するようになってからも連綿と続けられてきたのだ、と言う。
     
「ならば、なぜこのチワリラン山に?」というラデン・ムリアの問いに対するヌサ・ブラマの答えはなかった。昔からそうなっておりそうするよう命じられていることを行っているだけなので、なぜという問いには答えようがない、とヌサ・ブラマは言う。それよりも、とかれは続けた。バンテンの地にはファナティックなムスリムの衆が多い。かれらは異なる宗教・宗派に攻撃的だ。そのため、イスラム渡来前にこの地に根付いていた宗教を守っている者は何百年もの間、世間から隔絶したジャングルの中に身を寄せ合って暮らすことを余儀なくされ、時代の流れから取り残されてしまった。それが自分の属す一統である、とヌサ・ブラマは明らかにした。
     
これまで、文明に浴すことを拒み続けているただの未開人とバドゥイを見ていたラデン・ムリアにとって、ヌサ・ブラマのような知的で思索的なバドゥイがいるということは思いもよらない体験だった。ヒンドゥ時代のパジャジャラン王国にあった職業階層の中で、支配階級の一部として宗教を司っていた階層にいたのがヌサ・ブラマの先祖だったのだということを知ったラデン・ムリアは、新たな知識を得て悦んだ。

バドゥイ族は南バンテンの人里離れた山中に集落を作って暮らしている。今かれらの本拠はルバッ県ルウィダマル郡カヌクス村となっており、かれら自身は自らをウランカヌクスと称している。ウラン(urang)はオラン(orang)を意味するスンダ語だ。バドゥイという名称は外部者が与えたもので、一説によれば、アラブの砂漠を流浪する非定住民ベドウィンを意味するバドゥイという名を未開種族というニュアンスを込めた蔑称として与えたということだが、その説とは別にバドゥイ山やチバドゥィ川などの地名に由来したものという説もある。今でも外界との接触を可能な限り制限しようとしている内バドゥイがおり、その外郭には外部との接触を受け入れている外バドゥイがいる。外バドゥイは内バドゥイの防壁としての機能を果たしてきたが、内バドゥイがいつまでも鎖国を続けるのはどうやら困難になっているようだ。バドゥイ族は農業と採集を生計の主体とし、自給自足経済を続けてきた。かれらは先祖伝来の慣習アダッに従っていまでも素朴な生活を送っており、生活原理は原始共産主義的である。
     
とはいえ内バドゥイにもいまや外部世界からさまざまな物産が侵入し始めており、インスタントラーメンやスナック菓子、コカコーラなどはかれらも消費する時代になった。しかしラジオ、テレビあるいは懐中電灯や携帯電話などといった電気製品やカメラ、また石鹸、シャンプー、練歯磨き、デオドラント等のボディケア製品を買うことはアダッの長老から厳しく禁じられている。おとなは農業にいそしみ、子供たちは自然の中で生きるすべを学ぶ。学校はない。
  
内バドゥイの集落を訪れる観光ツアーも行われている。観光客はまず外バドゥイの領域を通ってから内バドゥイの領域に入るが、内バドゥイの領域に入るとさまざまな禁止事項を守らなければならず、それを犯す者は領域の外に追い出される。たとえば、写真撮影は禁止されており、またタバコを吸ってもいけない。[ 続く ]


「クラカタウ第20回」

ジャワ島西部地方はスンダと呼ばれ、その地域に住むひとびとはジャワの中部東部地方と文化や言語を異にしている。スンダ地方は8世紀はじめから16世紀終わりごろまでスンダ王国が支配したが、ボゴール周辺にあったパクアンパジャジャランが王都の時代にジャワ島最期のヒンドゥ王国として滅亡した。スマトラのスリウィジャヤ王国が南海の広範な地域で覇権を拡張すればスリウィジャヤに、中部東部ジャワでシャイレンドラやシンガサリ、あるいはマジャパヒッ王国が威勢をスマトラからインドシナ半島にまで轟かせればジャワ王朝に服従してその宗主権を認めるという形で生き延びてきたスンダ王国は、中部ジャワ北岸部の商港がイスラム化してジャワ島最初のイスラム港湾都市国家となったドゥマッによってマジャパヒト王国が1487年に息の根を止められたとき、庇護者を失ってイスラム勢力の矢面に立たされることになった。
     
ヒンドゥ教の原理によって領民を統治してきたマジャパヒッの支配階層がバリ島へ逃れあるいは峻険なブロモ山中に逃避して立てこもったあと、ジャワにおけるイスラム化の波は北海岸部から内陸へと広範に浸透して行った。ドゥマッは更にジャワ島中部東部地方での覇権確立や1511年に行われたポルトガルのマラッカ占領とその恒久基地化への対抗といった多忙な時期を送ったあと、西ジャワへ支配の手を伸ばしはじめる。ドゥマッ第三代のスルタン・トレンゴノがチレボンのスルタンであるスナン・グヌンジャティと共に連合軍を編成し、ドゥマッの将軍ファタヒラを総指揮官としグヌンジャティの息子ハサヌディンを副将につけて西ジャワ最大の商港バンテンの攻略に向かわせた。1526年にバンテン港はイスラム軍の前に陥落し、中部ジャワ出身のイスラム勢力はバンテン港に王国を築いてハサヌディンが初代スルタンに即位した。翌1527年、ファタヒラは軍を東に向けてチリウン河口にある港町スンダクラパを征服し、町の名をジャヤカルタと改め、自らその地の領主としてそこを統治した。
     
北部の海岸線とそこに繁栄していた通商をジャワ・イスラム勢力に奪われたスンダ王国が国力の涸渇を避けることができなくなったのは自明の理で、加えてバンテン王国からひっきりなしに南下してくるイスラム軍との交戦に疲弊し、1579年にパジャジャラン王国は滅亡した。イスラム化の波が今度はスンダ地方の内陸部を襲い、その波を避けて奥深い山里にこもったのがいまバドゥイと呼ばれているひとびとの先祖である。スンダの王国は最初ヒンドゥ教の原理に拠ったが、その後仏教が習合してヒンドゥ=仏陀的なものへと変質し、更に遠い祖先の持っていた原始信仰が回帰してその特徴をより強く示すようになっていたため、中部東部ジャワに栄えたヒンドゥもしくはヒンドゥ=仏陀文化とは趣きが異なっている。イスラム化前のスンダ社会には宗教分野でいくつかの専門職があり、その職は世襲されていた。

チワリランの山頂に戻ろう。


「クラカタウ(21)」

ヌサ・ブラマは一度小屋の奥へ入ってからすぐに戻ってくるとラデン・ムリアを食事に誘った。食べ物は赤米と野菜とサンバルしかないが、と言うヌサ・ブラマにラデン・ムリアは「心配ご無用」と微笑んで答えた。
     
ヌサ・ブラマが奥に声をかけると、湯気の立っている竹編みの飯櫃を捧げて婦人がひとり中から現われた。優しい面影に聡明そうな表情をたたえたその婦人にラデン・ムリアはどこかで出会ったことがあるような気がした。しかしいったいどこで?バドゥイの衆の、しかも女性とこれまで知り合いになったことはない。そんな思いを押し隠してラデン・ムリアはそのヌサ・ブラマの妻に挨拶した。ヤティと名乗った上流スンダ語を話すヌサ・ブラマの妻は明るく潤んだ声をしている。続いてもうひとり若い娘がバナナの葉に乗せた野菜とサンバルを持って中から出てきた。それを縁台に置いてからバナナやドリアンを片付けはじめる。ラデン・ムリアの目がじっとその娘に注がれ、視線を感じた娘はどぎまぎして仕事が手につかない。

「レッナ、早くしなさい。」ヤティの声にラデン・ムリアが反応した。
「このひとは奥さんのお子さんで・・・?」
「ええ、レッナサリと申すひとり娘でございます。」

レッナサリは縁台の上を片付けると、伏目勝ちにラデン・ムリアに会釈してまた小屋の奥に入って行った。ヌサ・ブラマの妻も挨拶して小屋の奥に姿を隠す。ラデン・ムリアはレッナサリの気品のある美しさに魅了されていた。恋に落ちたというものかもしれない。質素で貧しい姿をしていても、内面と外面の美しさが合わさった輝きがレッナサリの全身からこぼれ出ていたのをラデン・ムリアは見逃さなかった。都会から隔絶された田舎で毎日を送っている田舎者と思ったその母と娘にそれだけの気品があることを目のあたりにして、ラデン・ムリアはわが目を疑った。ましてやレッナサリの透明な美しさはどこに出してもひけをとらない。ランカスビトゥンでもセランでも、学生時代を過ごしたバンドンでも、こんな優美な娘を目にしたことはない。ラデン・ムリアはそう確信した。

[ 続く ]

「クラカタウ(22)」

ラデン・ムリアとハリはヌサ・ブラマと会食を始めたが、話題はレッナサリに向かった。年頃のレッナサリは程なく婿を取るのではないか?ヌサ・ブラマは否定した。相手がいない、と言うのだ。レッナサリは血統を継ぐ男児を生まなければならない。自分が果たしているこの務めを女が行うのは禁じられている。しかしその男児が自分の義務を引き継ぐ年齢に達する前に自分の寿命は尽きるかもしれない。だから今回レッナサリをチワリラン山へ伴い、たとえ自分がいなくなったとしても宗教の務めをどう行うのかをレッナサリからその男児に伝えられるよう娘に教えているのだ、とヌサ・ブラマは語る。
     
ただ問題は、レッナサリの夫となるべき男が見つからないのだ。レッナサリの夫は同じ文化同じ宗教の持ち主であるべきで、更に階層も下賎のものであってはならない。しかしもはやバドゥイの衆の中にレッナサリと同等以上の階層の者はいない。昔はまだいくつか高貴な血統を持つ一族があったが、限られた一族同士の間で婚姻が繰り返されたために結局近親婚に陥って全員が短命な生涯を送り、ヌサ・ブラマの血筋だけが残された。文化や宗教については生まれながらにしてその環境に育った人間が理想的ではあるものの、その本質を理解し、ヌサ・ブラマに義務付けられた務めをその子供に遂行させることを許す父親となるのであれば宗教や文化が異なっても許容できないものでもないが、しかし血統の位付けは絶対に譲ることができない。どれほど頭脳優秀で、世間から尊敬を受け、あるいは豊かな経済力を持っていたとしても、血統の上位にある者という決まりを自分の代になって崩すことは先祖に対して顔向けができない。

「ならば貴族王族でなければならないのか?」というラデン・ムリアの問いにヌサ・ブラマは、「わが血統はジョクジャのスルタン家、ソロのススフナン家に勝るとも劣らないものだ」と答えた。冗談としか思えないその言葉を真剣な表情で語るヌサ・ブラマに、ラデン・ムリアは呆気にとられた。
     
それがどこまで本当なのかラデン・ムリアは解しかねたが、ならばヌサ・ブラマ自身の妻はいったいどこから来たのだろうかという疑問が湧いた。ラデン・ムリアが今回既に面識を持ったヌサ・ブラマの妻ヤティが下賎の出でないのは明らかだ。たとえ同等以上でなくとも近いレベルの一族がほかにいるのではないのだろうか。「いや、そうではない。」とヌサ・ブラマは否定した。妻とは子供のころから同じ家で一緒に育ったのだ、と言う。ヌサ・ブラマがまだ子供のころ、父が幼い少女を家に連れ帰った。それ以来ヌサ・ブラマはその少女を妹としてなじみ、そしてふたりが年頃になったとき、父がふたりを娶わせた。妻の一族がだれでどこにいるのかということは妻本人にすらわからない。
     
もしレッナサリの結婚相手を親が見つけることができなければ娘が可哀想ではないのか、とのラデン・ムリアの問いはきっぱりと否定された。ならばもしレッナサリに好きな男ができて添い遂げたいと本人が希望したときそれも許さないのか、との問いに対する厳しい答えを聞いたとき、ラデン・ムリアはわが耳を疑った。温和で思索的な行者の口から出された言葉は予想することすらできない激しいものだった。
「わしが死んでからなら、娘が何をしようがそれを止めることはできない。だが先祖代々の血統を卑しめるようなことをすればわしが呪ってやる。もしわしの目の黒いうちに卑しい行いをするようなら、娘の生命はない。」

ヌサ・ブラマの厳格な性格の一面を垣間見たラデン・ムリアにはこの行者の人物がまた不可解になってきたが、かといって高貴さと正直さを強く感じさせる性格を十分に見て取った副郡長は、この行者が世の中の秩序を破壊し撹乱するような危険分子ではないことを確信していた。
[ 続く ]

「クラカタウ(23)」

会食後また一時間ほど対話したあと、ラデン・ムリアはシンダンラウトに戻るために行者の小屋を辞した。行者は「またいつでもお越しください」と言って山を下るラデン・ムリアとハリを山頂から見送った。

ハリと別れて副郡長役所に戻ったラデン・ムリアは執務室の来客用椅子に座って行者ヌサ・ブラマとの対話を頭の中で整理していたが、チワリラン山頂で会ったふたりの女性の面影がその作業の邪魔をした。爽やかで透明な美しさをたたえたレッナサリの容貌はその母であるヤティと共通する部分がある。そしてヤティの容貌の中に自分が見出したデジャビューはいったい何だったのだろうか。ラデン・ムリアは記憶の糸を手繰り始めていた。あの面影を自分はどこで目にしたのだろう?それはいったい誰だったのだろうか?かれの思いは諸所に走った。そのひとつひとつをじっくりと思い返してみたが、しかし思い当たる人物は浮かび上がってこない。と、そのとき執務室の壁にかかっている時計が鳴った。もう夕刻の四時だ。ラデン・ムリアは時計を見た。時計の下に並べて掛けてある親族の写真が目に入る。父と母がいる。妹がいる。祖父母がおり、曽祖父がいる。視線でそれらを追ったラデン・ムリアは「あっ!」と思わず声をあげた。ヤティの容貌の中に見た面影がそこにあった。祖母だ。しかし祖母はバンテン王国の貴族の出で、その一族はチレゴンを拠点にしている。バドゥイとの接点があるとは考えられない。

「これはいったいどういうことなのだろうか?どうやらもっと調べてみる必要がありそうだ。」ラデン・ムリアは自分に向かって独り言をつぶやいた。

「クラカタウ(24)」

ラデン・ムリアは次の日曜日にまたチワリラン山を訪れる心積もりにしていたが、どうしたことか気持ちが少しも落ち着かない。月曜日火曜日と職務に没頭しようと努めたものの、火曜日の夜にはもはや矢のようになった心を抑えることができず、水曜日の早朝、愛用のオートバイにまたがると単身でスカラメに向かった。スカラメ町でオートバイを預け、徒歩でチタンジュル川沿いをさかのぼる。仮小屋の並ぶエリアに到達し、ミクンのワルンで茶を所望した。ワルンではパレンバン者のグループが話しに興じている。アブドゥル・シンティルはもう視力が回復したらしく、白布で目を覆うことをせず無遠慮な視線をあちこちに向けている。かれらは周囲にいるスンダ人が上流ムラユ語をあまり理解できないことを知っていてムラユ語で会話していたが、ラデン・ムリアにはかれらの話が筒抜けだった。最初ラデン・ムリアはかれらの話の内容に興味を抱いていなかったが、レッナサリという言葉が聞こえたときかれの耳はパレンバン者たちの話に焦点を合わせていた。
     
アブドゥル・シンティルがレッナサリに首ったけになっている。ヌサ・ブラマに治してもらった目がレッナサリの姿を映したとき、かれはレッナサリを自分のものにできないなら目がつぶれたままでいた方が幸せだ、と自分に言い聞かせたらしい。その想いを仲間たちに打ち明け、どうすればいいのかと相談しているのだ。来年また来たときになどと悠長なことを言っているとレッナサリはほかの男のものになってしまうから、今日明日にも行者に娘をくれと申し込め、と煽る者がいる。娘を海の向こうにまで手放すのは拒むにちがいない、と水をかける者もいる。いや、結納をこれだけ積めば行者はきっと承諾する、と言う者に向かってアブドゥル・シンティルは、ゴム園を売り払ってでもその何倍もの結納を渡してかまわない、と語る。「そんなことをするよりも、タクシーを雇っておいてレッナサリをそれに乗せ、ここから消えてしまえばそれで終わりよ」という言葉を取り巻きのひとりが口にしたのを耳にしてラデン・ムリアはついにベンチから立ち上がった

「クラカタウ(25)」

ラデン・ムリアはパレンバン者の輪に近付くと、後ろ向きのアブドゥル・シンティルの背中に手を当てて低い声で言った。「なあ、友よ。ここで悪事はご法度だ。わたしは警察の者で、ここで副郡長をしている。そもそもあんたは行者に目を治してもらった恩を受けながら、恩人に後足で砂をかけようというのはどういう了見なのかね。」
     
ラデン・ムリアが近寄って来たのに不快な目を向けていたパレンバン者たちは突然雷にでも打たれたかのように態度を変え顔色を青くして言い訳した。

「いえいえ、滅相もない。わたしらは冗談半分に話をしていただけで、決して本気でそんなことをしようと思っていたわけじゃございません。どうかご勘弁を。」
「あんたたちが冗談か本気か、わたしにそんなことはわからない。だがたとえ冗談半分にせよ、謝礼も受け取らないで治療を施している行者に対してそのような悪事を考える者をそのままにはしておけぬ。そんな腐ったことを考える者がいるということを行者に注意してやらねばならない。あんたたちがレッナサリの髪の毛一本にでも手を出そうとするなら、監獄が待ち受けていることを忘れるな。あんたたちは今すぐここから立ち去ってもらおう。」
     
パレンバン者は口々に、無聊を慰めるために冗談を言い合っていただけだと主張したが、副郡長がまったく聞く耳を持たないことを確信すると諦めて仮小屋に戻り、荷物をまとめてぶつくさと不平をたれながら山を下って行った。

「クラカタウ(26)」

パレンバン者たちが立ち去ったことを確認したラデン・ムリアはそこを後にしてただひとり、山頂に向かって登攀の歩を運んだ。しばらく進んだところで、ラデン・ムリアは前方をひとりで歩いているレッナサリの姿を認めた。洗濯したばかりの衣服を載せた籠を抱え、おまけに水を入れた太い竹筒を持っている。足取りは見るからに疲れた雰囲気だ。ラデン・ムリアは歩を急がせてレッナサリに追いつき、声をかけた。思いがけないひとの出現にレッナサリは目を丸くし、はにかみながらも微笑みを満面に浮かべた。遠慮するレッナサリから無理やり竹筒を受け取ると、ラデン・ムリアはレッナサリと並んで歩き出す。

「レッナ、あんたはパレンバン者たちから贈り物を受け取ったのかね?」ラデン・ムリアはついさっき下のワルンで耳にした話を確かめようとした。レッナサリは信じられないという顔で驚ろき、それからすぐに飾り気のない態度で説明した。
「ええ、でもお父様にこのことは絶対に言わないでくださいな。あのひとはわたしが洗濯しているとわたしに贈り物をしたいと言い、わたしが断っても近くの岩の上にそれを置いて行ってしまったの。しかたないからそれを上の小屋に持ち帰って仕舞ってありますけど、無理にそんなことをされた物でもお父様に知られたら叱られてしまいますから。」
「あんたはどうして滝までひとりで行くのかね。だれかと一緒の方がよくはないだろうか?」
「お母様は足が強くないのでここの上り下りはたいへんなの。わたしはこうやって仕事するのに慣れてますから。それに、上には使える水がないので下から汲んでいかないと仕方ないんです。洞窟の中にも泉があるけど、硫黄くさくて使えないので・・・・。」
「洞窟って、どこにある洞窟かね?」
「山頂の小屋の一部は五尋ほどの奥行きで洞窟の中に入ってるんですよ。雨が降ると小屋は雨漏りするのでみんな洞窟に避難するんです。でもその洞窟は奥のほうにまだ続いていて、お父様はその奥まで入って金曜日以外毎日祈祷しています。そこへ入る入り口は狭くて、岩の隙間を這うようにして行きます。」

そんな話をしているうちにふたりは山頂に達した。幸福な時間はどうしてこんなに足早に過ぎていくのだろう?

「クラカタウ(27)」

レッナサリはラデン・ムリアに笑顔を向けて会釈すると足早に小屋の中に入っていった。ヌサ・ブラマの妻が小屋から出てきてラデン・ムリアを迎え、小屋の中に招じ入れる。しばらくしてヌサ・ブラマが現れた。
「これは副郡長様。きょうはまた何か御用でも・・・・。」
ラデン・ムリアは自分の祖母と行者の妻の面影の相似の謎を解きたくてそこを再訪したのだが、レッナサリとふたりだけの時間が持てたことで胸がいっぱいになっていた。どうしたはずみか「自分はあなたを師と仰ぎたく自分の職務の指針を教授してもらいたくてやってきた」という言葉が咄嗟にラデン・ムリアの口をついた。レッナサリとふたりだけで話す時間が持てたことでかれはそこへやってきた目的がもう果たされたような気持ちになっており、レッナサリとその母のことをあれこれ問いただすのが億劫になっていたのだ。かといって、かれが口にした言葉がまんざら嘘だったわけでもない。
     
ヌサ・ブラマの奥深い思想が紡ぎだす言葉にラデン・ムリアは自分の前に新しい世界が開けた思いを抱き、そうしてふたたび質素な昼食をふるまわれたあと、副郡長役所で待っている仕事を思い出しながら、しかしもっとヌサ・ブラマの思想に触れたいと後ろ髪をひかれる思いでチワリランの山頂を辞した。
     
ラデン・ムリアは今朝ほど麓のワルンで起こったパレンバン者たちとのいざこざを行者に告げそこなった。悪人たちに狙われているという話を行者の一家に告げてみんなの心を慄かせるのをかれは哀れと思ったのだ。禍の元はすでにここから去ったのだし、いまさらネガティブな話を師の耳に入れてその気持ちを乱すのも気の毒だ。ヌサ・ブラマ一家の安全は自分が陰ながら見守り、ふだんは村警官に特別に注意するよう命じておけばよいだろう。ラデン・ムリアはそう考えた。[ 続く ]

「クラカタウ(28)」

チワリラン山周辺の村々に、効験あらたかな治療を施してくれる行者ヌサ・ブラマが12月30日に山を去るという知らせが口伝で広まった。つまり行者の治療を受ける機会は12月23日あと一回だけしかないことをそれは意味していた。その23日がやって来て、その日は早朝から大勢のひとが山麓を埋めつくし、行者の治療と薬を得ようとして長蛇の列を作った。ほとんど休む間もない多忙な一日が終わり、24日の土曜日に変わるとチタンジュル川の水源に近い仮小屋やワルンからはひとの姿がほとんど消え、仮小屋の一部もたたまれていっそう侘しさを増す情景になった。
     
ミクンをはじめ行者の徳を慕う少数のひとびとだけが、行者がそこを去るのを見送ろうとしてこれまでのようにそこでの暮らしを続けている。ひっそりとなった24日も暮れて夜が来た。その日は夕方から風が強まり、黒雲が北西の方角から流れてきて夜空を覆い、星も月も姿を見せない。

     
村人たちが寝静まったころ、南から自動車が2台スカラメ町に入ってきた。自動車は丘に向かい、チタンジュル川畔に停まる。自動車から出てきた人影は八つ。制服に身を固め、短い剣を腰に下げてカービン銃を背に担った野戦警官たちだ。長い外套を着た男がひとり、警官隊の先頭に立って道案内をする。警官隊は懐中電灯で足元を照らしながらチワリラン山を目指して進む。警官隊の後ろにやはり外套を着た男が5人従っている。一行はまだ少し残っている仮小屋の脇を通って山頂を目指す登攀路に入った。警官隊の後ろに従っていた男たちのうちふたりがそこに残った。
    
一行は話し声をたてず身振りで互いに合図しあう。静かに山頂に達すると竹編の小屋に近付いてそこを包囲した。警官隊指揮官と道案内をした男が小屋に近寄り、表戸を叩く。中からクスディの声がした。
「誰だ?」
「警察だ。ここを開けろ。」野戦警官隊の指揮官が言う。その指揮官はオランダ人だ。
「どうしてこんな夜中に。行者はもうお休みになられた。」
「つべこべ言わずに早くここを開けろ。従わないならここを押し破る。」

縁台からひとが下りる音が聞こえ、足音が奥へ向かった。奥で低い話し声が起こり、数人の足音が表に向かって近付いてきた。中で明かりがともされ、竹網壁の隙間から洩れる光が強まった。クスディが扉を開く。ヌサ・ブラマが明かりを手にして中央に立っていた。[ 続く ]

「クラカタウ(29)」

指揮官が部下二人を従えて小屋の中に入る。野戦警官は片手に抜き放した剣、片手にレボルバーを持ち、臨戦態勢になっている。指揮官の訊問がはじまった。
「おまえはここで何をしている。」
「宗教の勤めを行っております。」何度も繰り返されたヌサ・ブラマの答え。
「わしにナンセンスは通じないぞ。おまえはこの寂しい場所で叛乱を企てている。おまえは共産主義者で、追従者を何人も作っている。」
「わしの従者はこのクスディひとりしかおりません。」
「おまえは警察の目を節穴だと思っているのか?金曜日になると何百人もここにひとを集め、呪文やお守りを与えている。」
「それはわしが招いたのでなく、みんなわしの治療を求めてやってきているのです。」
「おまえは医者の免状を持っているのか?もしおまえが本当に上手に治療できるのなら、どうしてもっと賑やかな場所で店開きしない?そうすればおまえが騙している愚か者たちから金をもっとたくさんせしめることができるではないか。」
「わしは患者から報酬を取っておりません。」
「詐欺師宗教者はみんなそう言う。取調官の前でたっぷり申し開きせよ。」
「わしの行いをここの警察はもう知っております。わしが詐欺師でも煽動者でもないことをこの地元の副郡長様がよくご存知でいらっしゃる。」
「副郡長がおまえにたぶらかされて弟子になっていれば、それはありうることだ。おまえを連行するから一緒にきてもらうぞ。」
「今夜でなければなりませぬか?わしは逃げも隠れもしませんので、明朝にしていただくようお願い申し上げる。わしには妻と娘がおり、ここに置いて行くわけには参りません。」
「だめだ。」
「しかしこの女たちを置いていくわけには・・・」
道案内をしてきた男が指揮官になにごとかをささやいた。
「おまえの妻子も取り調べることになる。しかし妻子は明朝来ればよい。いまはおまえとその男が連行される。」
「どこへ?」
「おまえの弟子の副郡長のところだ。その前にこの小屋を捜索する。調べろ!」
野戦警官たちが小屋の中を調べ始めた。ヌサ・ブラマの表情が不安に染まる。しかしかれらは何ら不審なものを見つけることができなかった。洞窟の奥への入り口もかれらの目をのがれることができた。クスディが機転をきかせ、大きな石を転がしてその入り口を塞ぎそれがわからないようにしたのだ。指揮官は言う。
「さあ、行くぞ。おまえの妻子は心配無用だ。この刑事とかれの部下ふたりがここに残る。明朝、みんな副郡長役所に来るのだ。」

ヌサ・ブラマとクスディは仕方なく警官隊に連行されて山を下りて行った。ヤティとレッナサリは不安に泣きながら小屋の奥に入り、三人の男たちは縁台にすわって時が経つのを待っている。

「クラカタウ(30)」

一時間ほどたってから小屋の扉が外側からノックされた。扉が開かれ、長い外套を着た男が三人、小屋の中に入ってきた。ひとりが言う。
「船の用意ができたようだ。青い火が見える。」
     
刑事たちが外に出て暗いスンダ海峡に目をこらすと、下界のチャリタ湾の海岸に停泊している船のマストに青い火が灯されている。刑事は小屋に戻ると奥の壁をノックした。涙にくれていたヤティとレッナサリは不安で眠るどころではない。目を泣き腫らして奥から出てきたふたりに刑事は言った。
「奥さん、いま指揮官から知らせが入った。あんたがたふたりは取調べのために今すぐ一緒に来てもらわねばならん。すぐに着替えをしてくれ。ぐずぐずしていると行者に悪いことが起こる。」

闇の中を苦労しながら坂道を下るヌサ・ブラマの妻と娘の足元を懐中電灯の明かりが丁寧に照らし、ふたりは転ぶこともなく山を下りてきた。女ふたりを交えた一群のひとびとが山を下ってくるのを、ワルンから出てきたミクンは不審な思いで見守った。行者の妻が、空家になってしまった小屋の留守を頼む、とミクンに声をかける。「こんな夜中にいったいどちらへ?」とミクンが問うと、行者の妻が口を開く前に一緒にいた刑事が答えた。
「おまえの知ったことではない。口を閉じろ。」
刑事はそう言って一行の足を急がせた。そのときミクンは、以前アブドゥル・シンティルに付き添っていたパレンバン者がその一行の中に混じっているのに気が付いた。

「クラカタウ(31)」

一行はそそくさと足を速めてそこから立ち去った。パレンバン者たちが副郡長に追い払われた理由とそのときの状況を目の前で見ていたミクンは、行者の妻と娘がこんな夜中にパレンバン者たちに従って下山するのを不思議に思った。かれらはいったいどこへ行くのだろうか。ミクンは密かに一行の跡をつけた。
     
海岸に向かって進む一行はおよそ一時間ほどでタンジュンクタパンに近い海岸に着いた。少し沖合いに大型の帆船が停泊しており、帆が張られている。そしてマストには青色の燈火が掲げられていた。懐中電灯を持った男が光をその船に向けると、船からも光が海岸に向かって返され、その光は続いて海岸で待っていた小船を照らして一行の注意をそこへ導いた。刑事がヤティとレッナサリに言った。
「目的地まではまだ遠いがこんな夜では乗り物を用意することができない。船で行くことにするので、あれに乗ってくれ。」
従う以外に女たちにできることはない。女ふたりと刑事の部下たちは小船に乗り込み、小船は沖の帆船に向かって漕ぎ出した。しかし刑事は海岸に残って小船を見送っている。かれは同行しないのだ。刑事以外の全員が小船に乗り込む前、パレンバン者のひとりが刑事に厚い札束を手渡したのをミクンの目は見届けていた。
     
小船に乗り込んだ全員が帆船に乗り移ると、帆船は舳先をランプンに向けて滑り出した。甲板の隅に座って怯えているふたりの女を横目に見て、操舵手の近くに立っている身なりのよい男がにんまりと笑った。アブドゥル・シンティルだ。[ 続く ]

「クラカタウ(32)」

夜が更ける中で、ラデン・ムリアは執務室のソファに座って新聞を読んでいた。自動車のエンジン音が近付いてきて、副郡長役所の表で止まる。こんな夜更けにいったい何事が?ラデン・ムリアが表戸を開くと、野戦警官たちに連行されたヌサ・ブラマとクスディがいた。

「行者殿、いったいどうなされた?」

その言葉も終わらないうちにオランダ人指揮官の姿に気付いたラデン・ムリアは、指揮官にオランダ語で挨拶をしてからその一行を役所内に招じ入れた。指揮官はラデン・ムリアにオランダ語でヌサ・ブラマを逮捕した経緯を話しはじめた。
     
この行者は本当は叛乱を企てている共産主義者で、民衆を集めて不死身になるお守りを配り武装蜂起をさせようと煽動している、と逮捕容疑を語る。ラデン・ムリアもオランダ語で、自分もその行者については既に調査済みであり危険な思想を持っていないことは糾明してある、と指揮官に説明した。そんな容疑がどこから出たのかを質問するラデン・ムリアに指揮官は、ラブアン郡長が使っている諜報役が連れてきた原住民からの情報だと明かす。その諜報役が誰かを知ったラデン・ムリアは、それは民衆からげじげじのように嫌われている悪徳諜報役で、もし郡長が取調べを許せば数ある悪事のために監獄行きは免れない男だと指揮官に教える。そしてその原住民はいったい誰かとまた尋ねるが、指揮官は名前を覚えていないと言い、スンダ人ではなくスマトラの者だったと答えたのでラデン・ムリアにはこの事件の裏側がおぼろげながら推測できた。
    
パレンバン者を逮捕しなければならない。すぐに自動車でチワリラン山へ引き返そう。しかしラデン・ムリアの提案に指揮官は同意しなかった。自分は明朝、南部の見回りの命令を受けているので今からラブアンに戻らなければならない。今回の事件はラデン・ムリアに処理を委ねるので、事件処理の手伝いのために野戦警官を三名置いていく。指揮官は手早く部下に指示を与えると、他の部下を率いてラブアンに帰って行った。二台の自動車は闇の中に消え、エンジン音もかすんで聞こえなくなった。オランダ語を解さないヌサ・ブラマにラデン・ムリアは事の成り行きをかいつまんで話し、すぐにチワリラン山頂の小屋に急行して悪人どもを捕まえる考えを述べた。副郡長は三名の野戦警官に、今すぐチワリラン山頂にヌサ・ブラマとクスディを連れて戻り、山頂の小屋で夜明けを待っている者たち全員を捕らえてここへ連行せよと命じ、そして副郡長役所の用人ふたりにはスカラメ町長を訪れて野戦警官に手を貸す人数を出してもらい総出で山頂に向かうようにと指示を与えた。

全員が副郡長役所から出払うと、ラデン・ムリアは報告が来るまで仮眠を取ろうと考えたが、レッナサリの運命が気にかかって一睡もできない。壁の時計は午前二時を打つ。どうせ眠れないなら自分も今から山頂へと思ったが、そのとき激しい雨まじりの強風が外を吹き荒れていることにかれは気が付いた。[ 続く ]

「クラカタウ(33)」

そのころ、ヌサ・ブラマの一行は激しい雨の中をびしょ濡れでチワリラン山頂の小屋までたどり着いていた。ミクンだけが小屋の中にいた。
「ここにいた者たちはどこへ行ったのか?」
行者の問いにミクンは答えて言った。「みんなは海岸に降りて行って、帆船に乗って沖へ出ました。」
「みんな?わしの妻と娘も一緒だと言うのか。」
「さようで。夜の10時ごろ奥様に声をかけられ、この小屋の留守を頼むとおっしゃられて。奥様とレッナ様もパレンバン者に連れられて海岸まで下りなさった。わしは隠れて後からついて行きました。みんなは海岸から帆船に乗って、どうやらスマトラに渡るように見受けました。」
「女たちは嚇かされたり無理強いされてそうしていたのか?それとも自分の意思で?」
「遠目からは嚇かされている雰囲気は見受けられませんでしたが、ただ何をしゃべっていたのかは聞こえなかったので、自分の意思でそうされたかどうかの断言はむつかしい・・・。」
「あんたはパレンバン者たちを知っていなさるか?」
「あのパレンバン者たちは行者様が目をお治しになったアブドゥル・シンティルの仲間です。」
「ああ、あの男はわしに大金やさまざまに高価な品物をくれたが、わしはどれも受け取らなかったのであの男は気を悪くしたようだ。挨拶もしないで去って行きおった。」
「いや、あの男が去って行ったのは副郡長様に追い払われたからです。行者様はご存知なかったので?」
「それはいったいどういうことなのか?」
「アブドゥル・シンティルはレッナ様に惚れ上げていて、レッナ様が滝へ洗濯に来るとあのパレンバン者がつきまとい、高価な贈り物を渡して妻になるように仕向けていたのです。副郡長様が来ているとき、パレンバン者たちがレッナ様をかどわかす相談をしているのを聞いてお怒りになり、それでアブドゥル・シンティルたちを追い払われたのです。」
「そんなことをわしは何ひとつ耳にしておらぬ。そんな危険が身近にあったのなら、どうしてわしの耳に入れてくれなかったのか。ミクン、もうひとつ教えてくれ。レッナはその贈り物を受け取ったのか?」
「アブドゥル・シンティルは仲間たちに、レッナ様は贈り物を受け取られ自分のことを悪く思っていない、と吹聴しておりました。」
常に穏やかなヌサ・ブラマが顔を紅潮させ、目は怒りに燃えてギラつき、険しい表情で手足をふるわせている姿にミクンは怖れをなした。

証拠を見つけてやる、と呟いた行者はクスディについてくるよう命じて奥の妻と娘の部屋に入って行った。そうして娘の衣服を入れてある行李を開くと、そこにしまってあった衣服を取り出した。行李の一番底に、黄金製腕時計、イギリス金貨、宝石のついた指輪や留め金、高価なサロンなどが置かれているのが見つかった。それらを手に取ったヌサ・ブラマはまるで汚物か毒蛇でもあるかのように周囲に投げ捨て、大地に身を投げ出してうめいた。「おお、バタラウィスヌ!」[ 続く ]

「クラカタウ(34)」

5分ほどしてからヌサ・ブラマは起き上がり、クスディに支えられて消耗しつくした風情の身体を小屋の表に現した。スカラメ町長をはじめそこに集まっていた野戦警官や副郡長の用人たちにミクンはヌサ・ブラマの妻子が連れ去られたことを説明していた。町長は、みんなここに集まっていても仕方ないので野戦警官と用人はすぐに副郡長に事態を報告するためにシンダンラウトに戻るほうが良いと言い、パレンバン者たちを追いかけるために警察の蒸気船を使い、またランプンの警察に電報を打ってかれらが上陸しそうな場所を見張るよう手配してはどうかと提案した。ヌサ・ブラマは、警察の仕事は何をどうしようが警察にお任せすると言い、ほかのひとびとが解散するのを見送った。山頂には行者とクスディだけが残り、ミクンも下山した。

「もう終わった。すべてが終わった。レッナサリ、パジャジャラン王家の女王の座を継ぐべきおまえが物欲に道を見失い、下賎の悪党に誘惑されてそんな男の子孫を作るのか。これまで営々と保ってきたわが血統の高貴さはこれで地上から絶滅した。この罪はわしとおまえが担わなければならぬ。この世はこれで終わるのだ。わしが、父が祖父が、そして遠い歴代の先祖たちがバンテンとランプンの平穏と安寧を維持するために務めてきたこの行を続ける者はもういない。遅かれ早かれこの地は破滅する。ならばわしの目がまだ黒いときに破滅して何が悪かろう。おお、バタラウィスヌ!」ヌサ・ブラマはクスディのいることも忘れたかのようにそう独白し、息を切らせて縁台に倒れ込んだ。そして10分ほどして起き上がるとクスディに祈祷の用意を命じた。そのときミクンが小屋に入ってきて行者に拝礼した。

「行者様、昨日の帆船がパサウラン村近くのタンジュンバンクアンにいます。昨夜の強風で吹き戻されたにちがいありません。船はまだ近くにいるので、すぐに捕まります。副郡長様が警察の蒸気船で自らあの船を追うためラブアンに向かっておられます。行者様の妻子は無事に戻ってくるのでご安心を、とスカラメ町長が伝言を送るためにひとを遣わしてきました。」ミクンの言葉にヌサ・ブラマはすぐ立ち上がり、小屋の外へ出てスンダ海峡を見下ろせる大岩に向かった。ミクンがあの船に間違いない、とヌサ・ブラマに教える。緑色の帆を張り、マストに青色の燈火を掲げた船は一夜明けて穏やかになった海面をスマトラに向かって進んでいる。しかもほかの船が通らないクラカタウ群島に向かって進んでいるのだ。ヌサ・ブラマは突然奇妙なことを言い出した。

「クラカタウはもうすぐ爆発する。副郡長様にクラカタウには近付かないようお伝えしてくれ。」ミクンもスカラメ町長が遣わした伝令も、行者の言葉を耳にして微笑した。
「何を笑っている?わしの気がふれたとでも思ったか。さあ急いでお伝えするのだ。」
半信半疑のふたりは山頂を後にした。ヌサ・ブラマは小屋の中に入り、クスディに命じた。「おまえは小屋の表にいて、誰が来てもわしは出かけて明朝まで戻らないと言うのだ。」
そうしてヌサ・ブラマは衣服を着替え、洞窟の奥にある小さい穴から這ってその中へと入って行った。
[ 続く ]

「クラカタウ(35)」

ラデン・ムリアは焦る気持ちを鎮めながら風雨の弱まるのを待ち、午前4時過ぎに天候が回復してきたので愛用のオートバイにまたがってスカラメ町へ向かった。到着すると山頂から下りてきた町長たちが町役場にいて、山頂の状況が副郡長に報告された。ラデン・ムリアは山頂に登ってヌサ・ブラマに会うのをやめ、帆船を追うために警察の蒸気船があるラブアンへ向かうことにした。スカラメ町長には、問題の帆船を見張らせて見つけたらすぐにその所在を報告するよう海岸沿いの村々に伝達することを命じた。こうしてパサウラン村近くで発見された帆船の報が山頂へ届けられたのだが、スカラメ町長はその報告を携えて自分もラブアンへ向かった。ラデン・ムリアに報告するためだ。
     
ラデン・ムリアはラブアンで警察の蒸気船を徴用した。野戦警官三人が従う。あまりにも早朝だったために蒸気船の乗組員がまだ勤務についておらず、それを呼び出すので時間を取られてしまった。乗組員が集まり、スカラメ町長も来て、蒸気船は帆船の追跡に出発した。チャリタ湾まで来たとき、海岸で白いハンカチを振って合図している男がいた。あれはチワリラン山頂に送った伝令だ、とスカラメ町長が言う。海岸の男は蒸気船が止まったので小船を漕いでやってきた。タンジュンバンクアンにいた帆船はクラカタウに向けて動き出しており、また行者がクラカタウの爆発を予言して島に近寄らないよう忠告したことをその伝令は船上のみんなに告げた。ラデン・ムリアはその話しにただ微笑だけを返した。船上のだれもが行者の予言が信じられるかどうかの議論を始めたが、ラデン・ムリアは全員に向かってきっぱりと言い切った。「それを信じるか否かはいま問題ではなく、自分は犯罪者を捕らえる任務を遂行するだけである。」そう言ってから船の針路をクラカタウに向けさせた。

「クラカタウ(36)」

ラデン・ムリアたちの乗った警察蒸気船は海面を疾走する。水平線上にマストの先だけ突き出していた船の姿がどんどんその全貌を表してくる。風を受けて膨らんだ緑色の帆がはっきりと見えるようになってきた。もう30分ほどで追いつくことができそうだ。しかし帆船に乗っている者たちも警察が追跡していることを知っていた。帆船では水夫が数人、櫂を海中に伸ばして漕いでいる。
     
さらに15分ほどが経過し、二隻の間隔は狭まってきた。午前9時、空は明るく晴れ上がっており、海面は穏やかだ。舷側に打ちつけては船に砕かれる波の音だけが耳に優しく聞こえる。遠くからはクラカタウの島々の波打ち際に打ち寄せる潮騒が一定のリズムで響いてくる。緑色の帆を張った帆船はいまやパンジャン島とラカタ島の間を通ってクラカタウのカルデラに進入した。かれらはそこを横断しようとしているのだ。帆船の中にいるひとの姿をはっきりと見ることができる距離にまで近付いたので、ラデン・ムリアは野戦警官のカービン銃を借りると帆船のマスト目掛けて狙撃した。停船命令だ。弾丸はマストに命中したが船は停止しようとせず、反対に銃を撃ちかえしてきた。蒸気船が被弾する。三名の野戦警官はすぐに応戦しようとしたが、ラデン・ムリアはそれを押し留めた。あの船には行者ヌサ・ブラマの妻と娘が乗っている。流れ弾の犠牲者にしてはならない。もっと近寄ってから抵抗する者を狙撃せよ。

「クラカタウ(37)」

帆船はすでにクラカタウのカルデラ中央にまで達している。警察蒸気船がこれからその内海に進入しようとしていたとき、海底から突然地鳴りが湧き起こって海面が大きく上下した。蒸気船はその海域への進入をやめてUターンする。一方カルデラの中央あたりでは海中から大きな岩や泥がおよそ5メートルほど海面上に噴き上げられる光景が展開された。帆船が無事でいられるわけがない。帆船の舳先がマストの高さほどまで持ち上げられ、そのあと海面を強く叩いた。続いて次の爆発が海底で起こった。海面がもう一度大きく揺り動かされ、帆船は転倒した。船に乗っていた人間はすべて荒れ狂う海中に投げ出される。阿鼻叫喚の声が蒸気船まで聞こえてきた。ラデン・ムリアは機関士に命じた。カルデラ内に船を乗り入れよ。ふたりの女性を救助するのだ。蒸気船内のすべての者が目を皿のようにして女たちを探す。板につかまって漂っていたふたりが発見されて船上に引き上げられた。海底の地鳴りは収まる気配がない。ラデン・ムリアは決断した。すぐにここから退避せよ。船はカルデラの外に向かう。ほんの一分後に三度目の爆発が起こった。蒸気船は激しく揺さぶられたがなんとか乗り切って外海に出ることができた。しかし横転していた帆船はその爆発で空中に跳ね飛ばされたあと落下して海中に沈んだ。帆船から振り落とされて海面でうごめいていた者たちの姿は一人残らず消え失せていた。

45年もの間休眠を続けていたクラカタウ火山が再び活動を始めたのだ。蒸気船に乗っていたすべての者の脳裏にヌサ・ブラマの予言が浮かんでいた。みんなの目の前で繰り広げられた悪人たちの最期とこのクラカタウの爆発はあの行者の力によるものだったのだろうか?

「クラカタウ(38)」

蒸気船がラブアンに戻るとラデン・ムリアはすぐにクラカタウが火山活動を再開したことを自分の上司である郡長に電話で報告し、さらに自分の父親であるランカスビトゥン県令にも電話を入れた。そのあとラデン・ムリアは救出されたふたりの女性を伴ってシンダンラウトの副郡長役所に戻った。

45年前地上に大きな災厄をもたらしたクラカタウの復活を自分の目で見たいと言ってランカスビトゥン県令がラデン・ムリアの役所に自動車でやってきたのはその日午後2時。県令が妻と娘を伴ってきたのにラデン・ムリアは悦んだ。両親と妹に再会するのは久しぶりだったからだ。シンダンラウトの副郡長がラカタ島で火山の爆発を体験してきたという話にみんなが疑問を抱いていたのは言うまでもない。いったい何をしにそこまで行ってきたのだろうか。チワリラン山の行者の話とその妻子の誘拐事件に興味を惹かれたみんなは、いま副郡長役所で書記役が調書を取っているヌサ・ブラマの妻子に会いたいと望んだ。こうして妻および娘のルッミニをまじえたランカスビトゥン県令ハサン・ディニンラの一家とヌサ・ブラマの妻とその娘という二組の家族が対面した。ヌサ・ブラマの妻ヤティが県令夫妻と話しているとき、ラデン・ムリアとルッミニはレッナサリを庭に連れ出した。
     
山中でのバドゥイの暮らしの話をしている中でラデン・ムリアがルッミニに、ヌサ・ブラマの一家は高貴な血統でありまた決して貧困ではない、と語ってレッナサリが身につけている腕輪を指し示した。数個のトルコ金貨が鎖でつなぎ合わされたその腕輪は高価なものであるのがひと目でわかる。いまではもう世の中に出回っていないそのような腕輪はいま求めればたいそうな金額がするにちがいない。それをじっと見ていたルッミニは、自分の腕を伸ばしてレッナサリの腕輪の隣に並べた。ルッミニの腕にもそっくり同じ腕輪が巻かれている。

「これはわたしのお母様からもらったものです。」とレッナサリが言う。
「わたしのはわたしのお父様からもらったものよ。わたしたちがそっくり同じものを持っているなんて、奇遇だわ。」とルッミニも言う。

ラデン・ムリアははっと気付いて自分の服の下からペンダントを取り出した。鎖に大きい銀製メダルのついているそのペンダントは、レッナサリの胸で揺れているものとそっくりだ。[ 続く ]

「クラカタウ(39)」

ラデン・ムリアは自分のペンダントを手にしてレッナサリのものに近づけ、比較してみた。
「これもペアだ。レッナ、あんたのペンダントも母上からもらったものなのか?」
「はい、腕輪とペンダントはお母様からもらったものです。でもお母様がそれをどこから手に入れたのかわたしにはわかりません。」

ラデン・ムリアは突然何かに気が付いたように役所の中に入って行くと何かを手にして戻ってきた。それは1883年8月に起こったクラカタウ大噴火で消息を絶ったワリギン郡長ラデン・チャクラ・アミジャヤとその妻ラデン・アユ・サディジャの写真で、執務室の壁に架けてあったものを取ってきたのだ。ラデン・ムリアは妹に尋ねた。祖母ラデン・アユ・サディジャの面影はレッナサリに、そしてレッナサリの母親の面影に重ならないだろうか、と。
     
ルッミニの肯定の言葉に意を強くしたラデン・ムリアは奇妙な運命との出会いに自分自身が信じられない思いを抱いていた。レッナサリと自分たちはいとこ同士ではないのだろうか?ラデン・ムリアの推理にふたりは意外な感に打たれながらも賛同した。しかしまだいくつかそれぞれの親本人しか知らないことを確認しなければならない。ラデン・ムリアはいまからその謎解きをはじめることにし、ふたりには結末が明らかになるまで憶測を言わないようにしようと互いに約束した。[ 続く ]

「クラカタウ(40)」

副郡長役所の中ではもう会見が一段落したらしく県令夫妻は外へ出てこようとしていた。ラデン・ムリアはそれを押し留めた。
「父上、母上、聞いていただきたいことがあります。」改まった前口上に親たちは再び座に着いた。レッナサリとルッミニも入ってきて席に着く。全員がそろったところでラデン・ムリアは立ち上がり、レッナサリの母に質問した。
「あなたの本当の名前は何ですか?」
「ヤティです。」
「間違いありませんか?その名前を付けたのは誰です?」
「わたしの親の行者アシェカです。」
「あなたの夫は誰ですか?」
「行者ヌサ・ブラマです。」
「行者ヌサ・ブラマの親は誰ですか?」
「行者アシェカ。」
「そうすると兄妹で夫婦になったということになりますね。」
「いえいえ、行者アシェカはわたしの養父です。」
「ならばあなたを生んだ両親はだれですか?」
「わたしはとても小さいころに行者アシェカに拾われたので、生みの親を覚えていません。」
「行者アシェカに拾われる前のことを何か覚えていませんか?どんな家に住んでいたか、家族は何人いたか?」
「あまりにも古いことでわたしもまだ小さかったから、覚えていないわ。」
「ならばクラカタウ火山が爆発した45年前のことはどうですか?」
「うっすらと覚えています。真っ暗で灰の雨が降り、落雷の大きな音で耳が変になりました。」
「そのときはどこにいました?」
「覚えていません。」
「水田の中にいましたか?船に乗っていましたか?それとも馬車に・・・?」
「あっ、馬車だったわ。」


「クラカタウ(41)」

「馬車でどこへ行こうとしていたのですか?」
「火山が爆発するから避難しようとしていたように思います。」
「だれが避難するように言ったのですか?」
「わたしの両親です。ええ、少しずつ思い出してきましたよ。」
「家はどこにありました?」
「覚えてないわ。」
「山の上でしたか、それとも森の中?」
「いえいえ、兄さんと貝殻を拾って遊んだからきっと海の近くです。」
「兄さんの名前は?」
「思い出せない。」
「親の仕事は何でしたか?漁師、農夫、車引き・・・」
「いいえ、そんなんじゃないわ。そうでないのは確かです。」
「大きな家でしたか?」
「そう、大きな家でいつもひとが大勢きていて、みんなが両親に拝礼していました。」
「あなたが避難したとき、両親も一緒でしたか?」
「いいえ、両親は家にいました。わたしは兄さんと使用人たちだけで馬車に乗って避難したんです。」
「兄さんの名前はハサンでしたか?」
「そう、思い出したわ。ハサンよ。」
それまでふたりのやり取りを聞いていた県令は椅子から立ち上がるとヌサ・ブラマの妻に歩み寄った。
「何だって?あんたにはハサンという名の兄がいたのか?」ラデン・ムリアはそれを遮った。「父上、もう少し待ってください。」
そしてヤティに向かってまた質問を続けた。
「馬車で避難するとき、あなたは両親から何かを与えられませんでしたか?」
「覚えてないわ。」
「たとえば腕輪とかペンダント。」
「そう、あったわ。母が形見に腕輪を、父からはペンダントをもらいました。」
ラデン・ムリアがルッミニに自分の腕輪を見せるように言う。
ヌサ・ブラマの妻は「そう、これですわ。」と肯定し、そしてレッナサリに注意した。
「レッナ、これはとても大切なものだから、ほかのひとに貸してはだめよ。」
ラデン・ムリアが今度はレッナサリに自分の腕輪を示すように言った。ヌサ・ブラマの妻は驚きに目を見張った。どうして同じものがここに・・・?
「ルッミニの腕輪は父親のハサンからもらったものです。」
「ハサンですって?ハサンはどこにいるの?」
目を潤ませた県令はもはや座っていることに耐えられなかった。立ち上がってヌサ・ブラマの妻に近寄ると、いきなり抱きすくめた。
「スリヤティ、スリヤティ。二度と会えないと思っていたおまえがこうしてわたしの前に・・・」

「クラカタウ(42)」

1883年8月27日午前11時ごろ、四十代半ばの大柄な男が15歳くらいの少年を伴ってチダグル村に差し掛かった。目に強い意志の光をたたえた厳格な表情のその男は灰色の長い衣を着て徒歩で街道をたどって行く。昼間だというのに天空は分厚い灰と煙に覆われ、地上はまるで真夜中のようだ。海の遠くから轟いてくる爆発音と閃光に怯みも見せないで男は歩を進めていく。突然男の身体が揺らめいた。路上にある何かに足をつまずかせたのだ。男は路上にかがみこんでマッチを擦り、その何かを注視した。5歳くらいの少女の身体がそこにある。額が裂けて顔と頭が血だらけになっており、腕や脚にも擦り傷がある。呼吸が速くヒーヒーと小さい泣き声をあげている。男はその周辺を調べて見た。少女の縁者らしい者がいるかもしれない。しかしそのあたりに人の姿はなかった。置いていけば馬車にひかれたりひとに踏まれたりして生命を失うだろう。男は少女を道路脇に移してから持っていた袋を開いて布を出し、その布を裂いて額の傷に巻いた。

「ウジャン、この子は連れて行こう。あとでこの子の親を探して帰してやる。さあ急ごう。」一緒にいた少年に男はそう語りかけて歩き出した。それまで恐怖にうち震えながらも自分を励まして一緒についてきた少年は、その少女を連れて行くという男の言葉を喜んだ。暗闇の中で小さな光を見つけたような気がしたのだ。

男は北東を指して歩みを続け、アスパン山麓の小高い丘にある部落に達した。そのチュルッサギアン部落で男は食べ物ワルンに立ち寄り、疲れを癒してから食べ物を買った。そこで一度少女の傷を洗って薬草を塗った。しばらく休んだあと男はまた歩き出した。少女は失神から覚めて大きな声で泣き、母を呼び続けた。だが男が母の名を尋ねても、少女は母の名前を言うことができなかった。三人はマンダラワギ方面に向かい、チワリラン山の東側にあるチクパ村に達した。時刻は夕方の4時で、クラカタウの爆発は終わりかかっていた。天空の灰と煙は薄まって明るさが増し、あたかも夜明けを思わせた。
     
チクパ村には農家が四軒あり、一行はそのひとつに入った。それぞれの家からひとびとが集まってきて男を迎えた。

「遠い道のりをようこそお越しなされた。われらはこの異変でもうここ数日、生きた心地もなかったものじゃが、これで世の終末が来るんですかのう?」村の年寄りが言う。
「いや災厄を被ったのはワリギンやアニエルなど海岸の場所だけじゃ。このあたりは海から遠いので大丈夫。心配はいらん。」
「しかし行者様、あのチワリラン山頂からも煙が出ましてな、それほど大きな音でないもののときどきドロドロと地鳴りがして・・・」
「そりゃ本当かね?」行者と呼ばれた男は慌てた。強い不安が表情に浮かびあがっている。

「三週間ほど前、大雨が降った日に地震があって山が崩れ、大岩が落ちてきました。そのあとときどき噴煙が出ておりました。わたしらは山が爆発せぬように山の番人をしておるジンやご先祖様に毎日お祈りをしておったが・・・」
「そうか、明朝わしが山頂に登って様子を見てくるので、この子を預かってくれんか。」
村人が行者の頼みを拒むはずもなく、行者と少年と少女はその夜その農家に泊まり、翌朝、行者は少年だけを連れてチワリラン山に向かった。

「クラカタウ(44)」

翌朝、行者とウジャンは再び山に登った。洞窟に入って神像の修理をし、そして小部屋の中を整頓した。整頓されたその小部屋は古代神を崇める質素な神殿としての姿を示していた。奥の壁沿いに像の鎮座する小高くなった玉座があり、その後ろの壁にはウィスヌ神を象徴するさまざまな彫刻が施されている。修理した神像を玉座に据えたふたりは小部屋の中央に座って神像に拝礼し、香を焚き花びらを撒いて一心に祈祷を捧げた。神像を修復する作業の中でウジャンはその背に刻み込まれたサンスクリット文字をはっきりと目に焼き付けていた。『われが壊れるとき この国と汝の子孫も滅亡する ラカタの怒りに触れて』
     
ふたりが洞窟から出てきたとき、地表を焼く太陽が頭上で輝いているのに驚かされた。ここ一週間というもの、そんな太陽を見ることがなかったのだ。灰ももう降っていなかった。明るい太陽に照らされたスンダ海峡の美しい光景が山頂の西側に広がっている。そしてアニエル、ワリギン、ラブアン一帯の海岸線が荒廃した姿をさらけ出していた。
     
傷の回復で元気を取り戻した少女は、自分のことを行者に話すようになった。自分の名前はヤティあるいはネンヤティでハサンという兄がおり、両親はワリギンにいるが名前を知らない。母はみんなからンデンと呼ばれ、父はアガンと呼ばれている。そして祖父の家に行くために使用人と馬車で家を出たが、大音響が轟いたとき馬が暴れて馬車から振り落とされ、そのあとは何も覚えていない。ワリギンがどうなったかを知った行者は、孤児になったヤティを自分で育てることに決めて南バンテンの山中に連れて帰った。妹ができたウジャンは悦び、すぐにヤティをあやして一緒に遊びはじめた。ヤティの顔に笑いが戻った。その行者がアシェカ爺であり、ウジャンがいまのヌサ・ブラマであるのは言うまでもない。[ 続く ]

「クラカタウ(45)」

あれから45年を経過したチワリラン山頂で、ヌサ・ブラマの心は怒りの業火に焼かれていた。先祖代々維持してきた高貴な血統を打ち捨てて高価な財物に目をくらませた娘が下賎な出自の男と駆落ちをしたのだ。おまけに幼い頃は一緒に遊び、年頃になって父の言い付けによって夫婦となったヤティまでが娘と一緒に夫を捨てて逃げて行った。これまでは善良で夫の言い付けをよく聞く従順な妻だったのに、夫が警察に捕らえられて困っているときに夫に背を向けた。ヌサ・ブラマの誇りと希望と生きがいのすべてがずたずたにされた。もはやこの世に生きながらえる意味はない。
     
世が世であればクサトリア階級にあるヌサ・ブラマはパジャジャラン王家に近い親族であるため、いくさがあれば一軍を率いる将軍として出陣する人間なのだ。王家の血の濃いヌサ・ブラマの一族は宗教祭祀をも司っていたため、世俗の快楽や財産に関心を持っていなかった。質実剛健で威厳を重視するヌサ・ブラマの性格は先祖代々受け継がれてきた血筋によるものだったのだ。たとえ女であっても、身内であっても、裏切りと辱めを許しておくことはできない。
     
自分は何の報酬も求めずに、一心に与えられた務めを果たしてきた。スンダ海峡一帯に住むひとびとの安寧を維持するためにあちこちにある神像に祈願し、バンテンの各地を巡る。チワリラン山では病に罹った者たちに治療を施してやる。自分の栄達や名声を、またそれによって得られる快楽や財産を求めて行ってきたわけではない。その挙句に自分が受けたものがこれなのか?ヌサ・ブラマには人間が信じられなくなっていた。アブドゥル・シンティルは不治だと言われた視力を取り戻すことができた。ヌサ・ブラマのおかげだ。ところがその目に映った美しいものを、あの男はヌサ・ブラマから奪ってでも自分のものにしようとした。人間の罪業の深さは限りがない。そんな罪深い人間を自分は何のために守護してきたのだろうか。

洞窟の一番奥にあるウィスヌ神の神殿でヌサ・ブラマの思いは千路に乱れていた。先祖代々守り続けてきたこの神像を自分が破壊して良いものなのか。だが自分の後を継ぐ人間はもういない。そうするとこの神像が手入れされないで朽ち果て、壊れるのは間違いない。であるならそれは時間の問題であり、裏切り者を懲らしめ世の人間に罪業の深さを悟らせることをいま行って何がちがうと言うのか?ヌサ・ブラマは心を決めて立ち上がり、神像の玉座に迫った。45年前に自分が父とふたりで修復したウィスヌ像を慎重に抱えあげたヌサ・ブラマはそれを持って神殿の脇にある大きな穴の近くに運んだ。
     
穴の中は真っ暗で何も見えないが、ドロドロと何かの沸騰する音が聞こえ、硫黄臭い煙が立ち昇ってくる。「バタラウィスヌよ、お赦しあれ。」ヌサ・ブラマはそう念じて神像を穴の中に投げ込んだ。5秒ほどしてから岩に何かがぶつかって転がる音がし、最期に硬いものが激突する音が聞こえた。ほどなくはるか遠くのどこかで雷鳴のような轟音が鳴ったように思えた。そして穴の底からは黄色い煙が吹き上げてきた。硫黄臭が神殿に満ちた。ちょうどそのとき、アブドゥル・シンティルの乗った帆船はクラカタウのカルデラを横切っていたのだ。そして警察蒸気船がその内海へ進入しようとする直前だった。

「クラカタウ(46)」

ヌサ・ブラマは硫黄臭の濃くなった神殿を後にした。洞窟から出て小屋の外に向かう。疲れきった風情を漂わせるヌサ・ブラマの後姿をクスディは黙って見送った。ヌサ・ブラマはスンダ海峡を見下ろす岩に座ってクラカタウを見た。三つの島に囲まれた内海のラカタ島に近いあたりから黒煙が立ち昇っている。内海には沈没した帆船のマストが突き出ている。ヌサ・ブラマは再び小屋の中に入り、クスディに明朝までは誰にも会わないと告げて奥に入っていった。

それから数時間して副郡長の用人が、ヌサ・ブラマの妻子は無事に保護されてシンダンラウトにいるのでヌサ・ブラマも副郡長役所にお越し願いたい、という知らせを持ってきたが、クスディは翌朝までそれをヌサ・ブラマに知らせることができなかった。

用人が戻ってきてヌサ・ブラマは明朝まで山頂にいないと告げるとランカスビトゥン県令が、ならば明朝われわれみんなでチワリラン山へ行こう、と提案した。その夜みんなは副郡長役所に泊まったが、眠るどころではない。ハサン夫妻とスリヤティが交わすさまざまな話はいきおいレッナサリの結婚に関する話題へと発展した。レッナサリの相手がいないという話が繰り返され、ハサンがレッナサリの気に入った男はいないのかと質問する。

「いないこともないようですよ。」というスリヤティの言葉を聞いてラデン・ムリアは身を硬くした。
「ならばわしの姪に幸せな結婚ができるよう取り計らってやりたい。」
「わたしの甥はどうなんですか?まだ独身の副郡長様は身を固める予定があるんですか?」
「ああ、チアンジュール県令の娘との話しがあるのだが、本人がなかなか首を縦に振ろうとしない。」
「じゃあ驚かないでくださいよ。レッナサリのお気に入りはあなたの息子なんですよ、ハサン。」

それを聞いてラデン・ムリアが有頂天になったのは言うまでもない。自分もレッナサリ以外の女性を妻に迎える気はないとラデン・ムリアはみんなの前で告白し、では明日ヌサ・ブラマに承諾をもらおう、と衆議一決した。

「クラカタウ(47)」

翌朝早く、一行はチワリラン山に向かって出発した。山頂に着いた一行は眼下にスンダ海峡を見下ろし、ラカタ島が黒煙を噴き上げているのを見てクラカタウの活動がはじまったことを確認した。小屋に入るとクスディが、ヌサ・ブラマは洞窟に入ったきり出てこないと言う。スリヤティが夫を連れ出すため洞窟の中に入って行った。しばらくして消耗しつくした風情のヌサ・ブラマが姿を現し、ランカスビトゥン県令とその妻子に挨拶をする。ヌサ・ブラマが警察に連行されたあとの推移をスリヤティが話し、その後を継いでラデン・ムリアが海上の追跡行をヌサ・ブラマに語って聞かせた。スリヤティとレッナサリはアブドゥル・シンティルに惹かれて駆落ちしたのでなく、パレンバン者の悪巧みの罠に落ちたのだという話しを聞いてヌサ・ブラマの顔に後悔の色が浮かんだ。ヌサ・ブラマは怒りと絶望に駆られて自分がしたことを素直に語った。ウィスヌ像とクラカタウ火山の爆発の関係をそのまま信じられる者はいなかったが、昨日のクラカタウが噴火するというヌサ・ブラマの予言を思い出したひとびとにはその考えを否定することもできなかった。スリヤティが夫に、自分の身元が明らかになった話をする。ヌサ・ブラマは妻がランカスビトゥン県令の実の妹であるという事実にふたたび驚かされた。

「それを聞いてわしは安心した。妻と娘の将来を見守ってくれるひとがいるのだ。」
「その通りだ、行者殿。それよりもっと強い絆が生まれるかもしれない。つまりわたしは息子のラデン・ムリアの嫁としてあんたの息女レッナサリを申し受けたいと希望しておる。ぜひこの申し込みを受けていただきたい。どうかな、行者殿?」
ヌサ・ブラマはうつむいて考え込んでいたが、しばらくしてから愁眉を開いた。
「わかった、お受けいたしましょう。わしの娘、パジャジャラン王家の女王たるスリラトゥデウィ・レッナサリと将来のランカスビトゥン県令であるラデン・ムリアの婚儀を認めよう。これでわしの心配の種が消えた。それではランカスビトゥンに戻られるとき、どうか妻子を連れて行っていただきたい。」
「行者殿、あんたも一緒に来てもらいたいとわたしは希望するが・・・」
「いや、それはできません。わしにはまだしなければならない仕事がある。クラカタウの爆発を止めなければならぬ。それはわしにしかできないことだ。」
「どんな方法で?」
「それはいま申し上げられない。それよりもいまから重要な儀式を行いたいので、みなさんに奥の神殿にお入りいただきたい。」
県令と妻とルッミニ、そしてラデン・ムリア、またスリヤティとレッナサリが狭い通路を通って洞窟奥の小部屋に入った。ウィスヌ神像が置かれていた玉座にレッナサリを座らせるとヌサ・ブラマがスピーチを始めた。

「クラカタウ(48)」

「親族一同のみなさん、わがひとり娘レッナサリは今日ただいまスリラトゥデウィ・レッナサリの称号で、パジャジャラン王家の血統を継ぐわしの後継者として一族の頭となったことを表明する。しかし近い将来レッナサリはランカスビトゥン県令子息ラデン・ムリアの妻となるので、その地位を続けることができない。こうして五百年以上続いたパジャジャラン王家の血統は絶えることになる。ただしレッナサリが産んだ最初の男児は母親の地位を継ぎ、またわしが行ってきた行者のつとめを継ぐことができる。つまりスンダ伝来の宗教を奉じ、あちらこちらの聖所を訪れて定められた務めを果たすことだ。ラデン・ムリアとレッナサリの婚姻の前にわしの願いが叶えられるかどうかを確かめておきたい。ハサン・ディニンラ殿、ラデン・ムリア殿、いかがでござろうか?レッナサリが産む最初の男児をヒンドゥ教徒とし、バドゥイの行者としての暮らしをさせることをお許しになるだろうか?」
「わたしに異存はないが、この時代にそのようなことがそれほど重要なことなのかどうか。」県令の言葉にヌサ・ブラマは「これは大変重要なことなのです」と答えた。

ラデン・ムリアが言う。「行者殿、その証拠はありますか?」
「証拠?クラカタウがどうなったかを見れば十分ではありませぬか。」
「ならば行者殿が一年のうち半分を使って手入れと守護を行っている聖地をその子はどうやって知るのですか?レッナサリはそれを知っているのですか?」
「最初はそうしようと思ったが、今は考えが変わった。聖地を知っているのはひとりだけではない。バドゥイの頭たちが教えてくれる。その子が15歳になったらバドゥイ部落に連れてきてくだされ。バドゥイの衆は必ずやその子を尊崇し、その子に必要なことをすべて教えてくれる。」
「しかしバドゥイの衆にどうやってその子が高貴の血統の子孫だとわかるのですか?」
ヌサ・ブラマは神殿の一方の壁に近寄り、四角い形をした石をそこから外した。その中から出てきたのは大きな宝石のついた黄金の王冠がひとつ。
「これはパジャジャラン王国の王冠で、歴代王の頭を飾ったもの。スリラトゥデウィ・レッナサリの頭を今は飾る。」
ヌサ・ブラマはそう言ってレッナサリの頭にそれを載せ、しばらく呪文を唱え唄を歌った。それからその王冠をまた持ち上げると白い布の袋に入れ、ラデン・ムリアに手渡した。
「婿殿。この品物をあんたの長男が15歳になってバドゥイ一統の頭となるときまで大切に保管してほしい。そしてここで行われたこと、またこの王冠のことは誰にも話さないように。」

ラデン・ムリアがそれを請合うと、ヌサ・ブラマはかれをレッナサリの隣に座らせた。香が焚かれ、ヌサ・ブラマは神々への賛辞と呪文を唱え、ハサンにラデン・ムリアの手を握らせ、自分はレッナサリの手をつかみ、ふたりの手を重ね合わさせた。正式に一組の夫婦が誕生した。新郎新婦はそれぞれの両親の足元にひざまずいて足に接吻した。こうしてすべての儀式は終了した。

「クラカタウ(49)」

ヌサ・ブラマはクスディとハサンを残してみんな洞窟から出るようにと要請した。三人を残してみんなが出て行くと、行者は自分が犯した過ちを正すときが来たと二人に告げた。
「パジャジャランの王族として、またバドゥイの頭としての地位はレッナサリに譲り渡した。わしはこれから自分が犯した過ちを正さなければならぬ。クラカタウが再び大きな災厄を人間にもたらさないようにするため、わしはスルガロカに渡って神々やご先祖様に助力を仰ぎ、クラカタウの爆発を止めなければならぬ。そのためにわしは霊となる。この世の肉体を持っているかぎり、わしはスルガロカに渡ることができない。」

「行者殿、あんたがそうしたところでクラカタウの爆発が止まる保証など何もない。そのような考えはやめてあんたの後継者ができるまで長生きをしたほうがよい。」ハサンはそう口説いて行者の考えを変えさせようと努めるが、行者の意思は固い。行者はクスディを呼んでいろいろな指示を与えた。しばらくあれこれと指示を与えた後、行者は県令に洞窟から出ようと誘った。もう昼食どきだ。

昼食を終えたみんなは山頂で爽やかな風に吹かれながら眼下にクラカタウが噴出す黒煙を眺めている。県令の妻が言う。
「海底にあるというのに、クラカタウ火口の動きの激しいこと。黒煙と一緒に火と泥までが海の上にまで噴きあがって・・・。でも昔の惨事に比べれば、まだまだこんなものではないのね。おお、なんて恐ろしい。」
「わしがこれから試みる方法で奥様の恐怖が安らぎますように。もしこれがうまく行けば、七日のうちに活動は止まらないまでも、もっと穏やかなものになりましょう。」傍らにいたヌサ・ブラマがそう語る。南西の方角から雲が流れてきた。風上の空を厚い雲が覆い始めている。雨になりそうだ。「では山を下りることにしよう。」県令は一行に言った。行者とクスディは山頂に残る。ヌサ・ブラマは県令を一行から少し離れた場所に誘って別れを告げた。
「わしの妻子を、あなたの妹と嫁を、よろしくお頼み申す。そしてわしが打ち明けた秘密は決して誰にも、わしの妻子はもとよりラデン・ムリア殿にも洩らさないでいただきたい。」
「しかし行者殿、あんたの妻子は夫と父親を探さないのだろうか?家族の姿が消えればだれしも不安と心配で満たされるのが人情だ。」
「いや、あの者たちはわしの姿を見ないで暮らすことに慣れております。わしが務めを果たすために各地を行脚すれば、半年も家に戻らないのはありきたりのこと。よしんばそれ以上わしが戻らなくとも、妻にはそれが何を意味しているのかようく言い聞かせてあります。わしの生命は高貴な務めに殉じるためにあるのだということを。これが今生の別れになろうとも、いつの日かそれを知った妻が取り乱すことはありますまい。わしは先ほど妻に、これから務めのために永い旅路に発つことを知らせておきました。」

県令は思いとどまらせようとして何かを言おうとしたが、ヌサ・ブラマの厳粛な顔と涼しげな目を前にして言葉が喉に詰まった。行者は県令と握手してから踵を返して足早に竹編小屋に向かう。県令が後を追った。県令が小屋に入ったときには、もうそこに人影はなかった。県令はすぐに洞の奥の小さい穴に向かう。肥満体の県令はそこを通り抜けるのに手間取った。一番奥のウィスヌ神の神殿に県令がたどりついたとき、そこにはクスディが座って一心に祈祷しているばかりだった。そのとき県令はちらりとなにかがひるがえったのを目の端にとらえた。それは神殿の脇にある硫黄臭い煙の立ち昇る穴の中だ。あれは行者が着ていた衣の裾ではなかったろうか。穴の底から聞こえてくる地鳴りは一瞬たりとも響きを止めない。県令はクスディに尋ねた。「行者殿はどちらに?」祈祷を続けるクスディは何も言わず、手を伸ばしてその穴を指し示した。

「クラカタウ(50)」

県令ハサン・ディニンラは行者ヌサ・ブラマの最期をだれにも明かさないまま生涯を終えた。それ以前にラデン・ムリアは年老いた父の後を継いでランカスビトゥン県令に就任した。妻レッナサリとの間には男女あわせて5人の子供が生れたが、日本軍政、独立闘争という激動の時代の中でこの夫婦の長男がどのような人生をたどったのか、記録は何も残されていない。またバドゥイの衆の指導者の中に、外部からやってきて高貴な地位に就いた人物はだれもいない。

作成 2019/09/08

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